第三十四話「むつみあい」
側頭部に柔らかな感触と温もりがある。甘い香りに包まれている。
「……落ち着いたかい?」
「…………はい」
ボクは空狐の胸で散々に泣き尽くした。
そうしてやっと落ち着きを取り戻したボクは謝って空狐から離れようとしたが、空狐はそれを許さずボクを離さなかった。
そして正座をして自分の太ももを叩いてここに横になれと言う。泣きすぎたせいか精神を消耗しすぎたせいか、ぼんやりとする頭で言われるがままにその太ももへと頭を乗せた。
「よしよし……いい子だ」
慈しむような手付きでボクの頭を撫でる空狐。
「……子供じゃありませんよ」
膝枕をされながら優しく頭を撫でられている。今の状況は夢よりも、もっと現実味がなかった。膝枕なんて生まれて初めてされる。膝枕とはこんなに気恥ずかしくて、それでいて安心するものだなんて知らなかった。恥ずかしくて情けなくて空狐の顔を見ることができない。
「いつも思っていたが、キレイな髪だ。サラサラしている。ちゃんと手入れをしているのかな?」
「特には……気にしたこともありません……」
「それはいけないね。今度私が使っているシャンプーをキミにも分けてあげよう」
それきり会話は途切れる。
無言の時間がゆっくりと流れていく。だが、気まずいようなものじゃなかった。互いの心音が同調するような、静かな時間が流れている。空狐はなにもいわず、ただボクを膝枕しながら、頭を撫でてくれていた。
「……もう大丈夫ですよ」
「こんなに冷たい頬で?」
頭を撫でていた空狐の手の平が頬に触れる。やわらかでとても温かい。
「ほら、冷え性の私よりもずっと冷たいじゃないか」
「……そっちは、ずっと頭を撫でていた手ですから、摩擦で温かくなっているだけですよ」
「ふふっ……どうりで、キミの頭から煙が出始めているわけだ」
人差し指と親指で頬を軽くつままれる。
「ねぇユリコ……キミの部屋に許可なく侵入したついでに、聞かせてもらいたんだが……」
「……はい」
「どうして、泣いていたんだい?」
「…………」
ここまで見られたのなら隠しても仕方ない。むしろ誤魔化すにしてもなんと言って誤魔化せばいいのかまったく思い浮かばない。
「……ボクが弱いからです」
「弱い?」
「はい。ボクは弱いから、いつまでたっても過去に受けた仕打ちを克服できないんです。こうやって、ことあるごとに思い返しては、ただ泣き喚いて駄々を捏ねることしかできない……。変える事のできない過去に執着して、今を無駄にする、そんな情けない人間がボクなんです」
空狐は黙って話を聞いてくれている。
「孤児院にいたとき、ボクはそこで、精神的にも肉体的にも耐え難い苦痛を受けてきました……。人間が持つあらゆる汚い部分を見て、味わわされてきたのです。マスターに救っていただけるまで、何年間もずっと……。救っていただいた今でも、そのときの記憶が色褪せないんです。むしろ時間が経つにつれ鋭利に、鮮明になってボクを内から切り刻んむんです……。さっきみたいに、なにかの拍子にフラッシュバックしては、こうなってしまう……。医者が言うにはPTSDの一種なんだそうです……」
「そう……」
ボクの独白に近い言葉を、空狐は全て飲み込むようにゆっくり頷いた。
「空狐さん……。貴女は私の白髪を綺麗だと言ってくれますね? ですがこれも、元は黒髪だったボクが、その孤児院時代に受けた苦痛のせいで白くなってしまったんです。ボクは心も体も穢れて、穢されています。この白髪はボクにとって弱さと穢れの象徴なんです……」
「……不思議なものだよ。私が見てきた限り、汚い人間ほど自分のことを清廉な人間だと思っているし、清廉な人ほど自分のことを汚い人間だと思っている」
「……ボクは違いますね。自分が穢れた汚い人間だと自覚している汚い人間なんですから」
「ユリコ、キミの話を聞いても、それでも私はキミのこの髪が綺麗だと思うよ。むしろもっと美しく見えてきた。私にはね、この髪がキミの弱さの現れなんかじゃなく、キミが苦難を乗り越えた証に見えるよ」
空狐はそう言ってボクの髪を指で梳く。
「知ってるかいユリコ。穢れはね、祓えるんだよ?」
「……だといいですね」
暫くの間、また無言の時間が流れた。
「ご迷惑をかけてしまいました。申し訳ありませんでした……」
気恥ずかしくて、素直に言葉が出ず、呟くように言った。
「なに、迷惑なんて思ってないし、私がキミの部屋に無断で侵入してきた身だからね。むしろ、物理的にも心理的にも、ズケズケと無遠慮に踏み込んでしまった私は、キミから絶縁されてもおかしくないくらいだよ……。ユリコ、私のことを怒っているかい?」
初めて空狐の声が微かに、不安に揺らいだ。
「……怒ってませんよ。怒るわけないじゃないですか」
「本当かい……?」
「ただ……」
「ただ?」
「情けないところを見られてしまいました……。ボクの人に一番見られたくない部分です。恥ずかしくて今は、空狐さんの顔をまともに見ることができません……」
「じゃあ、こうしてしまおう」
空狐の手の平がボクの両目をそっと覆った。
「嫌なことからは目を瞑ったって、逃げたっていいんだ。いつか、その目が開けられるようになるまで……ね」
「そんなことが許されるのなら……どれだけいいでしょうね……」
「今だけは、私が許すよ……。ねぇユリコ。このままでキミに聞いてもらいたいことがあるんだ。私もなにを話したいのか上手くまとまっていないし、誤解されるような言い方になるかもしれない。恥ずかしいことを言ってしまうかもしれないから、このまま聞いてくれると嬉しい」
目蓋を覆う空狐の手の平に、緊張が走ったように感じた。
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