第三十二話「赤子」
寄り道もせずに真っ直ぐ学園へと戻ってくると時間は正午を回っていた。
校門を抜け寮へと向かっていると、アーケードの北口を出た辺りで、ベンチに座っている木嶋先生らしき人を見かけた。
先生は両手に抱えた白い布に包まれたなにかを見ながら、身体を捻らせたり揺すったりしている。
「先生? なにをされているんですか?」
「ん~? あら姫草さんじゃない」
顔を上げてボクを見たのは、やはり木嶋先生だった。
「この子の面倒を見ていたのよ。勘違いしないでね、先生の子供じゃありませんから」
「……?!」
そう言って先生がボクに見たのは、赤ん坊だった。両目を瞑ったまま、体をもぞもぞと動かし「っあっあっ」と肺から空気を出すような声をあげている。
「実は姉さんの子供を預かっているんだけど、グズっちゃって困ってるのよ~」
「あ、ああ、そうなんですか……」
なんてことだ。まさかここに赤子なんているはずがないと油断していた。早く一秒でも早くこの場から逃げ出さなければ――
「ああ、そうだ姫草さん、赤ちゃんをあやせるかしら?」
「え……? いえ、私は……」
「ちょっと緊急の電話が入っちゃってて、ほんの一、二分だけでいいからこの子のことを見ておいて欲しいの……」
「いや、ちょっとそ――」
「ごめんね姫草さん! ちょっと電話してすぐ戻ってくるから!」
先生は赤ん坊をボクに渡すと、携帯を取り出して耳に当てながら小走りで木の裏へ行ってしまった。ボクの両腕には、白い布に包まれた男か女かもわからない赤子がおさまっている。
「ダメだ……なんで……っ」
蛇を前にした蛙の様に身体が硬直し動けなくなる。動悸が始まり冷や汗が止まらなくなる。
物理的な重さ以上に重くそして温かい。動けない。赤子をベンチに置くことも逃げ出すこともできない。
赤子が激しくむずがりだし、ついには「あぎゃあ」「あぎゃあ」と大きな声をあげて泣き出した。
「泣くなっ……! 頼むから泣かないで……っ」
必死で泣き止むように願うが、泣き声は大きくなるばかりで止まらない。赤子の容赦ない泣き声に精神を酷く揺さぶられる。
「なんで泣くんだ? そんな恵まれた立場で……! なにを泣く必要があるんだ……っ?」
泣き声に触発されるように、トラウマが蘇りかける。呼吸が乱れる――
「泣いたって……泣いたって……誰も助けてくれないのに……っ」
泣いたって誰も助けてはくれない――
そうだ……泣いたって叫んだって誰も助けてくれなかったじゃないか……なのにどうして泣くんだ? 知らないんだろうか? 泣くことの無意味さを? それとも――
「キミは……違うの……?」
そうだ……この子は……助けてくれる人がいるんだ……だからこうして無邪気に人前で泣くことができるんだ――
「どうして……どうしてキミは、泣くだけで誰かが助けてくれるんだ……っ」
涙が頬を伝う。感情が抑えられなくなってきている。早く薬を飲まないとマズイことになる。だが両手が塞がっているから薬を取り出すことができない。必死で涙を堪えようと歯を食いしばっていると、赤子はいつのまにか泣き止んでいて、まぶたを開いて、じっとボクを見ていた。
「……っ」
目と目が合う。不思議そうな顔をしてじっとボクを見つめている。なんだその目は? 馬鹿にしている? 同情している? なんなんだ? 泣き止めばそれでいいんだ、ボクを見るな。これ以上惨めにさせるな。今まで泣いていたくせにどうして急に泣き止んだんだ?
「ごめんなさーい姫草さーん大丈夫だったー!」
木嶋先生の声と気配が近づいてくる。
「あらっ? 姫草さん大丈夫!? すごく顔色が悪いわよ?!」
「……すみません、ちょっと調子が悪くなってしまいました。寮に戻って休もうと思います……」
「大丈夫なの? 先生も付き添うわ」
「いえ、大丈夫です。それより、その子を見てあげてください。では、失礼します……っ」
赤ん坊が手から離れると金縛りが解けやっと動けるようになる。
「あっ姫草さーん!」
先生の返答も聞かずに背を向け足早に寮へと向かう。
「ふっ……ふっ……はぁ……はぁ……ダメだ、落ち着けっ」
自分に言い聞かせながら足を止めず、震える手で内ポケットからピルケースを取り出す。
「あ……っ」
震える手がケースを落とし、運悪く側溝の中深くに落ちてしまった。
「最悪だ――っ!」
まずい。もう自分でも抑えきれない感情の奔流がすぐそこまで迫っていることがわかる。
なんとか堪えつつ寮まで辿りつく。なんでもないふうを装って足早にフロントとエントランスを抜けエレベーターに乗る。
もう手の震えが止まらなくなって全身が震えだしている。眩暈がする。気持ちが悪い。力が入らない。冷や汗が止まらない。呼吸が乱れる。早く、早く部屋に戻らないと。自分の顔を思いきり殴って落ち着かせたかったが、エレベーターの中には監視カメラが設置されているので下手な真似はできない。
額の冷や汗を拭いながら壁に寄りかかって到着を今か今かと待つ。呼吸が乱れる。苦しい。パンティングのような呼吸を繰り返しながら。ようやく八階に着きエレベーターの扉が開き、一直線に自分の部屋を目指す。
「おやユリコじゃないか。奇遇だね」
ラウンジに出るとエレベーターへ向かおうとしていたのか、空狐が前からやってきた。
見たところ珍しいことに、周りには犬童も優雅も戯苑も他の侍女も誰もいない、空狐一人だけであるように見えた。こんなときに限って一番会いたくない人間に会ってしまう。
「こんにちは空狐さん。失礼ですが、急用があるので……失礼します……」
「あっ……ユリコ……?」
本当なら軽い世間話でもすればいいのだがそんなことをしている余裕はない。足を緩めずになんとか力を振り絞り平素の表情を装って笑顔を浮かべ、空狐に会釈して横を通り過ぎる。
視界がぐるぐると回っている。寸分の余裕もない。
部屋の前に辿り着くと学生証を取り出してロックを解除し部屋に飛び込むと同時に、なんとか保っていた理性の糸がぷつりと切れ、床に膝から崩れ落ちた――
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