第二十九話「優雅の頼み」

「それにしても、普段は妙に大人びているような姫草様にも、そのような可愛らしいところがあったのですね。あらあら、お顔が真っ赤ですよ?」


「もう……そう言われると恥ずかしくなってきました……。他の人には話さないでくださいね?」


「はい、では私と姫草様だけの秘密に致しましょう」


「本当にお願いしますね……」


「ああ、それと、後で姫草様のお部屋に、追加の毛布と掛け布団を手配しておきますね」


「もうっ。優雅さんっ」

「ふふっ」



 鷺之池は寮の裏奥にある。不忍池しのばずいけを彷彿とさせた造りの、一面に葦が茂った広大な池だ。空気がいい静謐せいひつな空間で、考え事をしたりゆっくりするには良い場所だ。



「姫草様は鷺之池によく来られるのですか?」


「はい、散歩や散策で何度か来ております。静かで風景が綺麗で、お気に入りの場所のひとつです。別世界のような清華の中でも、この鷺之池は一段と別世界にきたようです」


「然様ですか……。そう言っていただけますと、私も嬉しい限りです」



 二人で誰もいない池を歩き中ほどまで来ると、優雅は池を見ながら静かに歩みを止めた。


 今までの和やかな雰囲気とは違う、真剣さと、ある種険しさのようなものが優雅の背中から感じられる。だからボクは優雅が話すまで、その背中を見ながら静かに黙っていた。


 流石は侍女長か、悠然と佇む後姿からは真剣さ以外はなにも察させない。なにを言いたいのか、今からなにを言おうとしているのか全く予想できない。


 少なくともボクの正体がバレたというわけではないだろう。もしそうだとしたら有無を言わさず捕らえようとしているだろうし、今の所正体がバレるようなヘマはしていない。あるとすればクライアントから情報が漏洩したくらいだが……。



「本日は、私から姫草様に大事なお願いがあるのです」


「お願い、ですか?」


 思ってもみなかった言葉に首を捻る。


「はい。その前に、少しだけ私自身の話しをさせてください」



 そう言って優雅は自身の生い立ちについて語り始めた。



「姫草様は私の家、鷺雅飛家さぎがとぶけについてなにか知っていますか?」


「いえ、申し訳ありませんが……」


「謝っていただく必要はございません。今では一般の家と変わらない、ただの没落した元名家というだけです。元々、鷺雅飛家は古くからこの清華の地一帯を支配していた家柄だったのですが、時代が移るにつれ没落し、私の曽祖父の代になる頃には、事業に失敗し、この清華学園があるこの土地、鷺雅飛家発祥の地を全て売り払わねばならないほどに困窮したのです」


 優雅の背中を見つめながら黙って続きを促す。


「そうして全ての土地を売り払っても、借金を返しきれない私の曽祖父たちは路頭に迷いました。そのとき桜花家に救っていただいたのです。それ以来、我が鷺雅飛家はそのご恩を返すために、桜花家の従者として、曽祖父母、祖父母、両親と。私と、四代に渡りお仕えしてきたのです」


 ゆっくりとこちらに振り向いた優雅は西日を背に受け、酷く儚げに見えた。


「私は桜花家の侍女であり、清華侍女衆の侍女長であり、寮母であり、そしてなによりも、桜花空狐様専属の侍女です。ですが、私は、ただの先祖から続く恩がためだけに、空狐様に尽くしているのではありません」



 だろうと思う。報恩と言うには優雅が空狐へ向ける瞳が優しすぎるから。



「私が空狐様を想う気持ちは、先祖両親とは関係の無いものなのです。かけがえのない主人であり、僭越ながら、妹のようにも思っているのです。ですから私は、弥生さんとは違った方向で空狐様をお守りしているのです。例え、それで空狐様に怨まれることになってしまったとしても――」


「……素晴らしい心構えかと思います」


「ありがとうございます。最近の空狐様の貴女に対する入れ込み方は、幼い頃より空狐様に仕えてきた私から見ても、はっきり言って異常です。今までこれほど空狐様が警戒を解いて接しているような相手は、弥生さんや私以外いませんでした。貴女が初めてです。行き過ぎているのです。危険だと思っています」


「…………」


「物心つく前から利用し利用される。ごく一部を除いて、利害関係でしか成り立たない世界で生きてきたあの空狐様がです。人の汚さを知り、自分の立場を知り、誰とも必要以上に仲良くならず、自分から他人と距離を取ろうとするあの空狐様が、貴女に心を開きかけているように見えてなりません」


 優雅は振り向いてボクを見た。殺意ではないが、近い、純粋ななにかを瞳に宿して。



「私はあなたが何者なのかはわかりません。あの空狐様が一目置いている以上、貴女は立場はどうあれ、本質的には悪人ではないのかもしれません。ですが、薄汚い利権争いばかりしている人間を見てきた私もまた、無条件で他人を信じられるほど初心ではないのです。ですから貴女が怖ろしい。何者なのか信頼に値する人間なのか、敵なのか味方なのか、私にはわからない。判断がつかないのです――」



 その主人を想う心はボクがマスターに向ける想いと近いものを感じる。だが決定的になにかが違う。


「ですから、これは、私からの個人的なお願いです」


 優雅は姿勢を正すと、深々と頭を下げた。


「出すぎた真似であることは重々承知です。私からのお願いでございます。姫草様、どうか空狐様を裏切らないでください――」


「――――」


 言葉が出なかった。

 上手く誤魔化して今優雅が求めている返答をすればいいだけなのに。


 どうして優雅や犬童は主への仕え方がボクとこんなにも違うのだろう? 主人の意志とは関係なく、それに逆らって動いたり主人の意図しない所で勝手に行動し、挙句こんなことをする。ボクには理解できなかった。


 わからない……いや……そうだ、彼女たちはどこか感情的なのだ。ボクとは違う感情、違う忠誠心、それはなんだ? どこから発されているんだ?

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