第十七話「空狐とお茶」
空狐が犬童も連れず一人で教室に戻ってきたのは、五限目の途中であった。
戻ってきた空狐の顔を横目で窺ってみると、微かに疲れのようなものが浮かんでおり、話しかけるなという雰囲気を漂わせていたので、迂闊に話しかけられずに放課後になった。
ホームルームも終わり、クラスメートたちが帰り仕度をする中でも、空狐は頬杖をついて窓の外を見ながら動くそぶりも見せなかった。
気付けば教室にはボクと空狐以外は誰も残っていなかった。
「桜花さん」
ボクの呼びかけに空狐は頬杖をついたまま、眠たそうに半分目を開いたような顔をしてこちらに向いた。傾いた顔に黒髪がサラサラと流れている。
「……なんだいユリコ?」
「これから、お時間はございますか?」
「まだ用事あってね、十八時には
顔色を見る限り、きっとその用事とやらは楽しいものではないのだろう。腕時計を見る十八時までまだ時間があった。
「でしたらそれまでの間、よろしければ、このユリコをお茶に連れて行ってはいただけませんか?」
「……ん? んん? どういうことかな?」
空狐の瞳がゆっくり開かれる。
「昨日おっしゃって下さったではないですか。キミとお茶でもしたい……と。私も同じ思いだとお答えしたはずです。私、今日ずっと桜花さんから誘っていただけるのではないか? とドキドキしていたんですよ? なのに桜花さんときたら、すっかり忘れてしまっているようで、ユリコは悲しくなりました……。あのお言葉はウソだったのですか? 私はすっかり、ころりころげた木の根っこです」
わざとらしく顔に手を当てて泣く真似をすると、空狐は一瞬キョトンとし、次いで破顔した。
「は……ははっ……っ。忘れていたわけじゃないけど、すっかり忘れていたよ。いいよユリコ。ちょうど私も気分転換をしたかったんだ。今からfromage《フロマージュ》へ連れて行ってあげよう。この桜花空狐にエスコートをされることを光栄に思うんだよ」
「ははっありがたき幸せっ」
「いい気分だ。善は急げだね、行くとしようか」
「はい」
お互い鞄を持って教室を出ると、初めて見る侍女が立っていた。
「空狐様」
「ああ、分かっているよ。ちゃんと行くが、時間まではこの子とお茶をすることにした」
「かしこまりました」
「ユリコ、彼女は清華侍女衆の副侍女長を務める
「
「姫草ユリコと申します」
切れ長の鋭い目付きで、右側に金縁のモノクルをかけたオールバックの、歌劇団の男役のような凛々しい顔立ち、背はボクよりもずっと高く百八十近くはあるだろう。
それが侍女服を着ているから妙にアンバランスに見える。副侍女長でありながら、護衛の代役も務めるあたり力も相当なのだろう。
侍女服の上からでも鍛え上げられた肉体が見て取れる。立ち居振る舞いも隙がなく、さらに言えばこの戯苑からは、侍女然とした性質の優雅とは違った、いつでも臨戦態勢だといわんばかりのあふれ出る血生臭さを感じる。
そのように観察していると戯苑がボクの右手を掴むように腕を動かした。
「――――」
咄嗟に躱しそうになる体を意識して留まらせあえて避けず、戯苑に右手を掴まれた。
「美しい方だ」
「えっ?」
「よろしければ、今夜、私の部屋に来ませんか? 二人で素敵な夜を過ごしましょう」
「ええ……っ?」
「戯苑、あんまりふざけているとクビにするからね」
突然のことに動揺しているフリをするボクを空孤が助けてくれる。
「失礼いたしました。ですが姫草さん、冗談ではありませんからね? 私は待っていますよ」
「いい加減にしないか。さ、時間がなくなってしまうから早く行こう」
「は……はい?」
ボクと空狐が二人並んで歩く後ろを、戯苑が無言でついてきながら喫茶店に到着する。
戯苑が入口の扉を開けて空狐が中に入りボクも戯苑に会釈して続いた。
店内はシックな内装で、ゆったりしとしたクラシックが流れている。店主らしき落ち着いた感じの三十代ほどの女性が空狐に気付くと、店員を制して自らやってきた。
「いらっしゃいませ桜花様。お席はどちらにいたしますか?」
「今日は温かいし天気もいいから、テラス席に座らせてもらおう」
「かしこまりました」
「戯苑、キミは外で待っていてくれ」
「はい空狐様」
案内されたテラス席に座り、メニューとお冷を受け取る。
「ユリコは私のおすすめでいいかな?」
「おまかせいたします」
「ブレンドとチーズケーキを二つ頼むよ」
「かしこまりました」
店主は注文を受けると下がっていった。
テラス席には何人か先客がいたが、空狐を見て気を使ったのか、転ばぬ先の杖なのか、そそくさと席を立っていき、空狐は慣れたものなのかその様を気にも留めない様子で、気付けばテラス席はボクたちの貸切状態になっていた。
「さっきは戯苑がすまなかったねユリコ。驚いただろう?」
「正直びっくりしました。その……ずいぶんと積極的な方ですね?」
「一応フォローしておくが、誰にでもああなわけじゃないんだよ? タイプの人を見つけると時々ああなってしまうんだ。まぁ、今回はやけに熱が入っていたようだけど……。ユリコは戯苑のお眼鏡に、モノクルにかなったってわけだね」
「喜んでいいのかどうかわかりませんが……」
「ま、彼女なりの冗談さ。本気で生徒に手をだすような人間なら、
「はい。ちなみに、戯苑さんとはどのような方なのですか?」
「さっきも言った通り清華侍女衆の副侍女長をしている。優雅の部下ということになるけど、戯苑は護衛侍女長も兼任していてね、純粋な戦闘の実力だけで言ったら侍女衆一だよ」
「確かにお強そうです」
「ああ、強いよ。あの弥生ですら敵わないくらいだからね」
「それは……どれほどお強いのか想像も出来ませんね」
犬童自身相当な実力者であることがその立ち居振る舞いから窺えるというのに、その犬童すらも敵わないという戯苑の実力とは一体どれほどのものか? 今後のために留意しておく必要がある。
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