第23話 橙山柑奈①

 ボクと七海先輩の最初の出会いは入学前案内会の日。


 ——ではない。


 あれは中学三年生の夏休みのこと。


 ボクは常陽という難関高校を目指し、受験勉強に励んでいた。


 しかし家ではなかなか集中しにくい性分で、少しの雑音や人の目があったほうが集中できるタイプなので、カフェで勉強することにしていたのだ。


 そんなある日。


 若い女性の店員さんがミスしちゃったみたいで、年配の男性客から語気強めで詰め寄られていた。


 店員さんの方は泣きそうにまでなっていたけど、周りのお客さんは遠巻きに見るだけで、もちろんボクも「大変そうだなー」「勉強に集中したいのになー」くらいに思っていただけ。


 そしたら次の瞬間、別の男の店員さんが颯爽とやってきて、すぐにフォローに入っていた。


 その店員さんもやけに若かったんだけど、クレームへの適切な対応を即座に取ったようで、お客さんの溜飲も下がり、その場はすぐに収まった。


 その時の店員さんこそが、七海先輩だったのだ。


 高校生か大学生かはわからないけど、あんなに若い男の人が華麗にクレームを処理している姿がすごくカッコよく見えて、その出来事はボクの中でとても印象的なものとなった。


 その日からもボクは勉強のためにそのカフェに通い詰めてたんだけど、その度にあの時の店員さんを目で追うようになっていた。


 それは恐らく、『推しを追いかける』みたいな感情だったと思う。


 ただの客と店員という関係でしか無かったんだけど、それでも見える部分で彼の良いところはわかってきた。


 特にボクが好感を抱いたのは、清潔感のある身だしなみと所作。


 彼が通った後は常にふんわりと良い香りが漂うから隣の通路を横切る度にドキドキしたし、配膳や片付けする際の手つきとかが手慣れてるし、全体的に「デキる男」感がすごかった。


 あと単純に、顔も好みだった。


 ボクはいわゆるイケメンと言われる顔の人が苦手、というかあまりピンと来ない。


 中学生時代にもイケメンと言われてるような人たちに告白されたりしてきたけど、そんな理由もあって受け入れたことはない。


 とはいえ美醜が極端にわからないわけじゃないから、店員さんがそれほどイケメンではないだろうことはボクでもなんとなくわかる。


 けど、顔の感じもそうだしいつも綺麗な肌など雰囲気がボクにとってドンピシャだったのだ。


 もうそうなってからは、勉強のためか店員さんのためかどっちが目的でカフェに行っているのか自分でも少しわからなくなっていた。


 店員さんがいる日はずっとウキウキだったし、休みだったらその一日ずっと物足りない感じで、ろくに勉強してないのにすぐ帰りたくなっちゃったり。


 ほぼ毎日のように通い詰めてたから、もう彼の出勤する曜日も大体わかったし、17時以降には見かけなくなるからシフト17時までなんだなーなんてことも把握できてしまっていた。


 なんか自分でもちょっとストーカーっぽいなって思うけど、遠くから見守るだけだったからそこは許して欲しい。


 そんな日々を続けていたんだけど、9月になってからはカフェにも土日しか行けなくなって、あの店員さんはもう来なくなっちゃってて、もう会えないのかとガックリしていた。


 けど、冬休みになったらまたあの店員さんがいたから飛び跳ねるように嬉しくなって、もしかしたら長期休暇中だけシフトに入ってるのかもしれないなんて思ったりもした。


 そして常陽高校には、しっかり勉強していたこともあって無事合格。


 春休みにもカフェに行きたい気持ちはあったけど、受験勉強という名目も無くなっちゃってたし、卒業して離れ離れになる友人たちと遊んだりするのに忙しくて結局行くことができなかった。




 ◆◇




 そして訪れた、新入生向けの入学前案内会の日。


 お母さんと一緒に参加してたんだけど、途中でお手洗いに行きたくなり、一緒についてこようとするお母さんを「恥ずかしい」と断って、一人でトイレに行った。


 しかしトイレから出た瞬間、行きに来た景色と全く違ってるような錯覚に陥って、自分がどちらから来たのかわからなくなってしまったのだ。


 春から通う高校とはいえ、今は全くの見知らぬ場所。


 そんなところで突然一人ぼっちになってしまい、どうしようもない心細さに襲われてワタワタと焦ってしまった。


 そんな時。


「——あの、すみません。何かお困りですか?」


 突然後ろから声をかけられ、そちらに振り返ると。


 ——あの店員さんが、そこに立っていたのだ。


「……あっ!!?」


 もうその時の驚きと言ったら、おそらく人生史上で最大だったと思う。


 ずっと視線で追いかけていただけだった彼が、あのカフェ以外でボクだけを見つめながら話しかけてくれているという状況が、まるで夢みたいに感じられた。


 いつもカフェの制服姿だった彼が学校の制服を着ているというのも、ギャップがすごくて現実感がなかった。


 だけど、ふわりと漂っているあの香りは、間違いなくあの店員さんのもので。


 ……まさか、常陽の先輩だったなんて。


 ドキドキしてテンパっちゃって、何も返事ができずにいる内に。


「あ、ああ、驚かせてすみません。俺この高校の生徒なんですけど、何か困ってそうだったんで声かけちゃいました」


 彼がそうやって改めて声を掛けてくれて、ハッとしながら。


「……いや、あ、す、すいません……ボク、今日の案内会に参加してたんですけど、トイレに行ったら元の場所が分からなくなっちゃって……」


 そう答えたら、彼は今日の案内会のお手伝いとして参加しているとのことで、会場まで案内してくれることになった。


 すごい。

 本当にとんでもないことが起きてる。


 この時のボクの頭の中は「運命の出会いってこういうことを言うのでは?」なんてお花畑状態になっちゃってて、彼に言われるがままについて行った。


 その間はずっと上の空で、彼が一個上の先輩だという情報だけをなんとか引き出すことができただけだった。


 名前くらい聞いておけば良かったな……


 なんて後悔していたら、その後のオリエンテーションで店員さんと一緒のグループだったのだ。


 本当に驚きの連続で、この時にはもはや「これは本当に運命の出会いだ!」と浮かれまくり。


 店員さんのフルネームは七海光先輩というらしい。


 ボクの名前も伝えて、ついにボクが橙山柑奈であることを認識してもらうことができた。


 最初から名字呼び捨てだったけど、それでも嫌味や失礼っぽさを感させないのも彼の不思議な魅力の一つだ。


 オリエンテーションでは前のめりに七海先輩と話すようにした。


 入学案内会が終わってからは本当にずっと夢見心地だった。


 憧れの『推し』に認知してもらえるなんて。それにこれからは学校でも会うことができるなんて。


 ……ただ、よくよく思い返してみると、七海先輩はボクのことに全然気付いてる様子が無かったな、なんてことに気付かされた。


 ただのお客さんとはいえ、夏休みの間中彼のシフトには常にボクは客としていたんだから、彼の印象に残っていれば今日会った時にすぐに気付いてもらえそうなものだ。


 ……なんて思ったけど、それも実は仕方のないことだった。


 当時は黒髪で今よりも長かったし、勉強中はいつもメガネをしているから。


 春休みになって美容院でショートまで切って髪型も編み込みに変えてヘアカラーもして、ちょっとだけお化粧も覚えたので、店員と客という程度の関係ではまず気付けないだろう。


 そして入学式の朝、そこでも七海先輩に再会。


 あまりの幸先の良さに浮かれてグイグイと行き過ぎた感はあったけど……それでも七海先輩はノリ良く話してくれて嬉しかった。


 部活は七海先輩と同じ部活がいいなー、なんて思ったけど、彼が部活に入ってないことはオリエンテーションでの会話の中で把握できていたので、部活は自由に選ぶことにした。


 中学時代はバスケ部に入ってたけど、チーム競技である運動部特有のギスギスした諍いとか人間関係が嫌になっていたので、文化部を希望。


 最終的に、その中でも一番ユルそうだった手芸部を選んだ。


 お裁縫は全然できないけど、結果的にこの選択はナイスだったと思う。


 手芸部には楓先輩と葉月先輩というすごい美人な先輩たちがいたんだけど、その二人ともが七海先輩と近しい存在だったのだ。


 楓先輩はずっとクラスが同じでしかも七海先輩とクラス委員長をずっと務めているのだという。そして葉月先輩はまさかの幼馴染だというではないか。


 だから七海先輩の情報をいっぱい引き出せると画策したのだ。


 ただし、葉月先輩は七海先輩と疎遠とのことで、ここ数年の七海先輩のことはわからないとのことだったので残念だ。その時にすごく寂しそうな表情をしていたのは気になったけど。


 だから楓先輩の方から雑談の時などに、さりげなーく七海先輩の話題を引き出していった。


 料理がうまいこと。

 ほとんどの家事ができること。

 勉強ができること。

 長期休暇だけバイトしてること。

 すごく面倒見がいいこと。

 運動はそうでもないこと。

 彼女はいないこと。


 彼のことを知れば知るほど、その魅力に溺れていった。


 運動ができないなんてお付き合いするうえでどうでもいいことだし、本当に恋人として理想的に思える。


 ただ、ボクは七海先輩と学年も違うし、話せる機会は限られている。


 だから学校で七海先輩のことを見かける度に、積極的に話すようにしていったんだけど、そこで七海先輩との会話の心地良さにも気付くことができた。


 彼の落ち着いた言葉のトーンなど安心感がすごくて、多少のイジりでも良い感じに受け止めてもらえるから、異性の先輩なのに全く気を使うことがないのだ。


 本当にボクが今まで接してきたどの男子とも違って、誰よりも大人びて見えた。


 だからとにかく七海先輩と話したくて話したくて、休み時間や登下校時はついつい彼の姿を探してしまうようになっていた。


 そのせいなのか一度だけ、楓先輩が側にいるのにそれを差し置いて七海先輩に絡みにいっちゃったことがあったけど、あれは失敗だったな……あの時の楓先輩ちょっと怖かったし……


 でもそれをきっかけにして、ふと気付くことがあった。


 それは、「楓先輩ってやけに七海先輩のことよく見てるな?」ってこと。


 よく考えれば、七海先輩のことを聞けば楓先輩からはホイホイと情報は出てくるし、思い返せばその時の目が熱っぽかったような気もする。


 そうして考えてみると、葉月先輩のあの寂しそうだった表情もなんか意味深に思えてきて。


 そう考えてからは、先輩方をライバル認定。


 別のルートで七海先輩の情報を引き出すようにしていった。


 同じクラスで上の先輩と交流が深くて恋愛情報通な子がいたから、七海先輩の情報があれば逐一報告してもらうようにした。


 そしたら、出るわ出るわ。


 一年生のときにも何度か告白されただとか、爆乳美人ギャルで有名な陽葵先輩に告白されてフっただとか、他の二年生屈指の美女たちも侍らせてるだとか。


 特にあの青島水澪先輩とどうこう、という噂まで流れていると知ったときは仰天した。


「とてつもなく綺麗な先輩がいる」という評判を耳にしてから彼女のことを見に行ったことがあったけど、「レベルが違う」というのはまさにあのことを言うんだろうなと思う。


 彼女の周囲だけ空気が澄んでいるような、絵画の中からそのまま出てきたような、そんな美しさだった。


 二年生には目立って可愛い人がいっぱいいるけど、その中においても青島先輩は一際輝いて見えてしまう。


 ボクも容姿が整っている自信はあるし美少女を自称しているのだけど、彼女を見たら比べられるのもおこがましいとすら言ってしまいそうになる。


 そこら辺に転がってるイケメン程度では間違いなく釣り合わないし、男子たちもそれは無意識に自覚してるのかもしれない。


 じゃあ誰があの横に立てるんだ?とも思うんだけど、七海先輩を知ってるボクからすれば、逆にあんな感じの人のほうが似合ってるかも、と思えるのだから不思議なものだ。


 そうして色々噂を仕入れてたんだけど、それで気になったのは七海先輩が全く彼女を作る様子がないということ。


 誰に告白されても全く意に介さず、ついには陽葵先輩という超大物をフるまでに至っている。


 つまり、七海先輩には彼女を作らない何か明確な理由があるのだろう。


 これに気付けたのは大きな収穫だった。勢い余って告白とかしてなくて本当に良かったと思う。


 とはいえその理由が何なのかは全くわからないし、知ってる人もいなさそうとのこと。


 だからそれを知るまでは、ゆっくりと関係を積み重ねながら情報を仕入れていくことにした。


 協力してくれてる子は「あの先輩、そんなに良い?」なんて言ってたけど、まぁ彼の魅力は実際に会ってみないとわからないだろうし、むしろあの良さに自分が気付けていることに優越感を覚えてしまう。


 だけど二年生や彼に近しい人は既にそれに気付いてるようで、、ライバルは多そうだから、悠長にもしていられない。


 だから、バイト先に七海先輩が現れるであろう夏休みが勝負だ。


 そう思っていた矢先、同じクラスの女子たちと参加した花火大会で、まさかの七海先輩と遭遇。


 しかもお互いグループから離れて一人ぼっちになっていたというタイミングで、「どこのラブコメだよ」という展開に、もはや彼が運命の人であることはもうボクの中で疑いようが無くなっていた。




 ◆◇




 そして花火大会で七海先輩と運命の遭遇を果たしてから数日。


 楓先輩と葉月先輩が我が家に遊びに来る日。


 お二人とも本当にいい先輩で仲もいいから、プライベートでもこうやって遊ぶことは多い。


 お裁縫を教わったり、オススメのマンガをお互い貸し合って読んだり、ゲームしたり。ボクも二人も恋愛系のマンガが好きみたいで、ワーキャー言いながら語り合った。


 そんな楽しい時間を過ごしていて、気が緩んでしまったのだろうか。


 会話の中でポロッと「七海先輩が働いてるカフェが近くにある」とこぼしてしまったのだ。


 それを聞いた二人が目を爛々と輝かせ、「じゃあこれから行ってみよう」と。


 こうなっては彼女たちを阻止するわけにもいかず、強力な恋のライバルを連れて行くことになってしまった。


 運が良いのか悪いのか、その日は七海先輩が出勤している曜日で、楓先輩と葉月先輩にボクのアドバンテージを少し譲ってしまったようで、少し複雑な気持ちだ。


 特に葉月先輩、働いてる七海先輩の姿をなんかすごい慈愛に満ちたような目で見守ってて、絶対ただの幼馴染に向けるものじゃないよな……なんて確信したり。


 ただ、橙山柑奈として認識してもらった上で彼のバイト先に訪れることができたのはやっぱり嬉しかったし、先輩二人と楽しく会話に興じることもできた。


 葉月先輩と七海先輩との幼馴染エピソードなんかはとても強烈で、赤ちゃんの頃から一緒で、家族ぐるみの付き合いで、寝食を当たり前に共にして、お風呂にも一緒に入っていただとか、どこのラブコメ幼馴染だよという関係性だった。


 ボクという運命の人がありながら。七海先輩は本当にけしからん人だ。


 というか葉月先輩、聞いたこと全部素直に答えてくれるんだよな。顔を真っ赤にしながら。なんだこの可愛い生き物。将来悪い男に騙されないか不安になってしまう。


 ただ一つだけ、「ぶっちゃけ七海先輩のことどう思ってるんですか!?」という小声での質問には「わたしなんかじゃ彼と釣り合わないから」という答えで、その言い方が気になったけど、いつになく寂しげで諦めたような表情を浮かべててそれ以上踏み込むことはできなかった。


 でもきっと、この二人の間に何かがあったんだろうな、とは思う。




 ◆◇




 そしてその翌日、ボクは男子を含めたクラスメイトのグループでカラオケに遊びに来ていた。


 カフェに毎日入り浸るなんてのもアレだし、やっぱりせっかくの夏休みなんだから色んな人たちと遊びたい。


 カラオケの参加メンバーの中に恋愛情報通の友達がいたから、最近仕入れたネタはないかもコッソリと聞いてみた。


 そしたらなんと七海先輩があのクールビューティ生徒会長、藍沢瑠璃先輩をメス顔させていただとか言うではないか。


 しかもそれはあの花火大会の日だとも。


 まさかボク以外の女にも会っていたなんて。ボクだけの思い出の1ページを汚されたような感覚になって、嫉妬心が芽生えてしまう。


 というか、七海先輩マジでモテるな……


 ボクが思い当たるだけでも、黄瀬陽葵、赤羽楓、緑川葉月、藍沢瑠璃という超々々上物ばかり。青島水澪先輩は確定情報もないし保留。


 ここまでのことを聞かされてしまったら、さすがのボクも焦ってしまう。


 しかし今告白しても、これまでの話を聞く限り受け入れてもらえないとは思う。


 だからなんとかしたいんだけど、糸口なんてものは全く見えてこない。もう少し踏み込んでみたいとは思ってるんだけど……


 そんなことでウンウン頭を悩ませながら、クラスメイトたちとのカラオケ会が終了。


 そしてその帰り際。


「あ、おれ橙山さん送ってくよ」なんておもむろに一人の男子が言い出したと思ったら、周囲もニヤニヤしながらそれを送り出して、二人きりの帰り道となった。


 あー……これは……


 ボクは容姿が恵まれている自覚はあるし、これまでもこういうことは度々あった。


 だけどもちろんボクには七海先輩がいるから、他の男子の好意を受け入れるなんてことはない。


 というかむしろ、他の男子を見ることで余計に七海先輩の良さがどんどん際立ってくるまである。


 そしてその帰路の途中で、案の定「橙山さんのことが好きだ。だから付き合ってくれ」と。


 もちろん断ろうと——


 ——したその時、ピコンとひらめき。


 あ、これ、もしかしたらちょっと使えるかも。


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