第20話 緑川葉月②

 わたしの告白を断ったひーくんが、用事があるからと駆け足で去って行った。


 やってしまった。


 やってしまったやってしまったやってしまった。


 すぐに後悔が胸中を渦巻き、その場にうずくまる。


 まただ。


 一体わたしは何度、思春期だとか若気の至りだとかを理由に行動すれば気が済むのだろうか。


 そうわかっているのに、どうしても動かずにはいられなかったのだ。


 陽葵ちゃんがひーくんに告白していたこと。

 多分、楓ちゃんもひーくんのことを好意的に想っていること。

 ひーくんは水澪ちゃんのことが好きなんじゃないかという噂があったこと。

 柑奈ちゃんみたいに普通ならほとんど接点を持ち得ないような女の子ともなぜか交流を持っていること。


 全員が可愛くて、性格も良い子ばかり。


 そこに加えて、先日図書館で遭遇した、瑠璃先輩によるひーくんへの告白。


 あんな大胆に告白するなんて、本当に人生で初めて見たからすごく驚いた。隣にいたわたしへの牽制や宣戦布告のような意味合いもあったような気もする。


 でもわたしにとってもっと衝撃だったのは、瑠璃先輩も東王大学を目指していたということだ。


 これまでのわたしは、常陽という超難関高校に合格したことで安心しきっていた気がする。


 これから三年間、ひーくんの近くにはいることができるんだって。


 だから瑠璃先輩が大学以降のことも考えてくれなんて言ってて、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けてしまったのだ。


 わたしの成績は今、定期テストでほぼ最下位。


 いくら県内有数の進学校である常陽高校生とはいえ、二年生になってなお基礎さえおぼつかないのだから、日本一の大学である東王なんて夢のまた夢。


 このまま行けば、高校卒業と同時にひーくんと道が分かたれることは決定的だろう。


 そんな厳しい現実を、あの瑠璃先輩の告白でどうしようもなく思い知らされてしまった。


 あの瞬間、瑠璃先輩とひーくんの二人とわたしの間に、とてつもなく大きな溝があるような錯覚を覚えた。


 だからわたしの焦燥感と自制心は、限界を迎えてしまったのだ。


 感情というのは、本当に厄介だなと思う。


 ここからわたしができることがあるとすれば。


 ——告白して、恋人になることだけ。


 幼馴染という絆だけでは、遠くに行ってしまう彼とわたしとを結びつけるには弱過ぎるから。


 恋人という、確かな絆が欲しかったから。


 もはや一発逆転の賭けでしかないし、自分勝手なワガママでしかないし、迷惑になるだろうってこともわかってる。


 でも今のわたしには、もうこの手段しか残されていなかったのだ。


 ……そして結果は、わかりきっていた通り。


 淡々と、平坦な声色で。

 内容も、瑠璃先輩へのものと全く同じで。

 目の前に現れた雑務を、流れ作業で処理するかのように。


 わたしが幼い頃から抱いていた恋心は、呆気なく切り捨てられた。


 彼にとっては、今まで受けてきた有象無象の告白と何ら変わらないものだったのかもしれない。


 でも、それすらも当然だったのだろう。


 だってわたしは、そんな恋心から簡単に心移りしてしまう軽い女なのだから。


 中学生の時にわざわざ「他の男が好きになった」と伝えておきながら、今更「ずっと好きだった」などと、のうのうと伝えれられるような女。


 そんなの、ただでさえ普通の男子から見ても印象は良くないだろう。


 ましてやひーくんは小夜さよさんの不倫で家庭が壊れていて、それでどれだけ傷ついていたのかなんてわたしは知っていたのに。


 だけど、カッコいいと思う男子はいたし、あの時は絶対に正しいと思ったから、ああやって行動したんだ。


 それなのに、あの時わたしが言葉を告げた瞬間に拳を握りながら辛そうな表情をしたひーくんを見て、すぐに後悔して。


 あの輝かしい15年間を捨てたのは、誰でもないわたし自身。


 全ては自業自得なんだ。


 ……だから、いつまでもこうやってウジウジしているわけにはいかない。


 涙が出そうになるのを堪えながら、スカートの裾についた土を払いながらどうにか立ち上がって、トボトボと校門を目指し歩き出した。


 すると、そこに。


「——あれ?はづきち〜。奇遇だね、おつ〜」


 昇降口から出てきた菫ちゃんとバッタリ出会った。


 ——そうだ、菫ちゃん。


 彼女のことが、頭からスッポリ抜け落ちてしまっていた。


 そんなことも忘れるくらい、わたしは頭がいっぱいになってしまってたのか。


 わたしは本当に、どれだけバカなんだろう。


 そう気付いた瞬間に、なんとか堪えていた涙がボロボロと溢れ出てきた。


「え?え!?は、はづきち、どうしたの〜!?」




 ◆◇




 昇降口でいきなり号泣し始めてしまって、菫ちゃんをひどく困惑させてしまった。


 そんな状態で目立つ場所に居続けるわけにもいかず、菫ちゃんを連れてまた校舎裏までUターン。


「……ご、ごめんね菫ちゃん。あんなとこで急に泣き出しちゃって……」


「ううん、気にしなくていいよ〜。でも、本当にどうしちゃったの?あんないきなり泣き出しちゃうなんて。すーが聞いてもいい話?」


「……そうだね、菫ちゃんには話しとこうかと思う。でもその前に謝らなきゃいけないかも。ごめんなさい、菫ちゃん」


「……へ?へ?何が?」


「うん、あのね……わたし、ひーくんに告白してフラれちゃったの」


「……ぇ、え〜!?!?マジ〜!?それ、さっきってこと?」


「そう、ついさっき。菫ちゃんの気持ちもあったはずなのに……本当にごめんなさい」


「い、いや〜、そんなの全然いいんだよ〜。でもまさか、はづきちでもななぴーにフラれちゃうなんて……」


「……いや、こうなって当然だったと思う。わたしはひーくんに、本当に酷いことをしちゃったから」


「え〜、そうなの……?二人が中学二年生まではずっと一緒だったってのは前に聞いたけどさ、その後、何があったの?」


「……うん、全部わたしが悪いんだけどね……」


 それからわたしは、中学校二年生のときにひーくんに告げた内容を菫ちゃんに話した。


 もちろん、ひーくんの家庭の事情は隠して。


「え、そ、そんなことが……?なんかすごい意外な話だったけど……それはたしかに、ななぴーからしたら気持ちのいい話じゃないかもだね……」


「うん……そうだよね……」


「ああ、ごめん、責めるつもりじゃないの〜!でも別にはづきちは悪くないと思うよ〜!」


「……でも、そんなすぐに心移りするような女なんて、フラれて当然じゃないかな……」


「う〜ん、そっかなぁ?中学校と高校で彼氏変わってる女の子なんて山ほどいるし、全然変じゃないとは思うよ〜。強いて言えば、人によってはちょっと印象は悪いかも?ってくらいじゃないかな〜」


 ……そうじゃないんだけどな。


 ああ、そうか。ひーくんの家庭の事情を伝えないと、本当のわたしの醜さは伝わらないのかもしれない。


 でもさすがに、いくら菫ちゃんとはいえ、それをわたしから勝手に話すわけにはいかない。


「でも実際さ、はづきちってそれで彼氏作っちゃったりしたの〜?」


「ううん、今まで彼氏なんて作ったこと無いよ。その後すぐに後悔しちゃってさ、中学三年生になってからは受験でずっと勉強漬けで、そんな暇なんて無かったもの」


「あ、そっか〜。あんな鬼気迫った表情で勉強してたら、そりゃね〜。塾の男子から言い寄られても断ってたんだっけ」


 そう、菫ちゃんとは中学三年生になって通い始めた塾も一緒で、同じ目標に向かって切磋琢磨し合った戦友でもある。


 そして二人とも志望校に合格。クラスはずっと別々だけどこうやって交流が続いているのだ。


「……改めてだけど、ごめんね……きっと、菫ちゃんの気持ちだってあったのに……」


「へ?……あ〜、それさっきも言ってたけど、すーがななぴーのこと好きだってこと?」


「え、あ、うん……やっぱりそう、なんだね」


「うん、そうだよ〜。はづきちも話してくれたんだから、ワタシもちゃんと話さなきゃって。でも、今更だけどね」


「……そっか、じゃあやっぱり、ごめんなさいだね」


「全然!謝ることなんてないよ〜。恋愛なんて早いもの勝ちじゃん?……って言いながら、すーは全く動けてないんだけどね。ひまっちとかはづきちみたいに告白すればいいだけなんだけど〜」


「うーん、でも菫ちゃんの場合は事情があるもんね……」


「そうなの!でも、ななぴーが鈍チン過ぎるのが悪いよ〜」


「あー……鈍いってのもあるかもしれないけど、すごくドライになっちゃったというか……」


「たしかに!なんか枯れてるっていうか〜。ね、ななぴーがあんな感じになっちゃってるのって、はづきちは何か知ってる?」


「……心当たりはある、けど……これはさすがにわたしからは菫ちゃんにも言えないかな」


「そっか〜、残念。でも、すーもまだ秘密にしてることあるし、もしかしたら?ってこともあるから、そこはお互い様かもね」


「うん、そうだね。……ありがとう、菫ちゃん。なんだか話聞いてもらってたら落ち着いてきたよ」


「あはは、それはよかったよ〜。恋のライバルだから、立場的に難しいこともあるかもだけど……でも、こうやってお話聞くことはいくらでもできるから、いつでも言ってね〜!」


「うん、ありがと!」


 菫ちゃんに改めてお礼を言ってから家路の途中で彼女と別れた。


 菫ちゃんと会話したおかげで、フラれて落ち込んでいた心も少し回復できたと思う。


 ……けど、その後の帰り道は一人きり。


 その間はやっぱり、改めて今日起きたことについて考え込んでしまう。


 もし今日の告白が成功していれば。

 もしわたしが中学生の時に間違えなければ。

 もしひーくんの家庭が不倫で壊れていなければ。


 今この帰り道だって二人一緒だったかもしれない。

 テストの感触や分からなかった問題について話し合っていたかもしれない。

 帰りにスーパーに寄って、一緒に献立を話し合いながら買い物していたかもしれない。

 どちらの家でご飯を作ろうかなんて話していたかもしれない。

 お互いの家族に囲まれながら、同じキッチンでご飯を一緒に作っていたかもしれない。


 そんなあり得たかもしれない未来を、夢想わずにはいられない。


 そしていつの間にか、ひーくんの家とわたしの家の分かれ道である十字路に着いていて、真っ直ぐ進んだ先にある彼のお家が視界に入る。


 そこでわたしの感情の昂りはピークに達して、わたしの家まで駆け足。


 玄関に入るなり「ただいま」とかすれ声で告げて、母の返事を待たずに階段を駆け上がり、自室に入りベッドに飛び込む。


 その途端に枕が涙と鼻水でグシュグシュと濡れ始める。


 後悔がずっとまとわりついて離れない。


 これじゃあ、あの時と全く同じだ。


 どれだけの時間そうしていただろうか。


 扉をコンコン、とノックする音。


「……葉月ちゃん?帰って来てるの?」


 母の声。


 こんな状態で返事はできず、そのままベッドに伏せていると、母がそっと扉を開けた。


「ごはんできてるけど……ってあら?どうしたの葉月ちゃん?」


 沈黙。


「……いつかもこんなことあったわね。テストできなかった?」


 違う。首を横に振る。


「あら、そう。光くんに教えてもらったものね。じゃあ光くんとまた喧嘩した?」


 違う。首を横に振る。


「……そう。でも、葉月ちゃんがそんな風になるってことは、光くんと何かはあったんじゃないの?」


 沈黙。図星。


「やっぱりそうなのね……前にも言ったように若い頃はいろいろあるものよ。何があったのかはわからないけど、光くんもとても優しい子だから。素直になれば大丈夫なはずだから。今は辛いかも知れないけど、それも時間が解決してくれるからね。じゃあ、お腹空いたらご飯あるから食べに来なさいね」


 そう言って母は扉をゆっくりと閉め、トン、トンと階段を降りていく音が聞こえた。


 全部知ってるよ。


 若い頃にいろいろあることも。

 ひーくんが誰より優しいことも。

 素直になるのが大事だってことも。


 だけど、感情なんてずっと浮き沈みし続けてるのに、自分の心も体もコントロールできていないのに。


 どうすれば、素直になどなれるというのだ。


 ひーくんにフラれたというどうしようもない現実を前に、そんな八つ当たりのような思考に陥ってしまう。


 ……でも。


 それでも、素直になれとでも言うのならば。


 絶対に間違いないのは、ひーくんを好きだっていう、この気持ちだけだ。


 その気持ち一つだけで、わたしは常陽高校合格という奇跡を起こしたんだ。


 ……


 ————そうだ。


 ああ、そうだった。


 わたしは一度、成し遂げたじゃないか。


 この気持ちだけで奇跡を起こし得ることを、知っているじゃないか。


 その考えに至った瞬間、わたしはベッドからガバッと起き上がり、そのまま学習机に向かって椅子に座る。


 こんな愚かなわたしだけど、ただ傍にいることだけは、どうか許してほしい。


 成績最下位のわたしが、東王大学を目指すなんて言ったらきっと誰もが嘲笑うだろう。


 失敗してしまえば、ひーくんとの道が決定的に分かたれることになるだろう。


 でも、それは今じゃない。


 まだできることは、山ほどある。


 だからそれまでは、また奇跡を起こすために足掻いてみせようと思った。


 ひーくんに教えてもらって買った単語帳を、涙で濡らしてでも。


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