第17話 緑川葉月①

「ねぇ葉月、このテスト期間中に部室使う予定ある?」


 テスト期間に入る直前、放課後の部室でそうやって楓ちゃんに問いかけられた。


 彼女は手芸部で一緒になった友人。優しくてしっかりもので頼りになって、学校生活でも特に仲良くさせてもらってる女の子だ。


「ううん、特にそんな予定はないかなぁ。楓ちゃん部室使いたいの?」


「そう、ならよかった。ちょっと勉強会に使わせてもらおうかと思って」


「へー、いいね。誰とするの?」


「七海よ。この前陽葵と菫が七海に勉強教えてもらってからすごい捗ったって言ってたから、アタシも教えてもらおうかなって」


「へ?ひー……七海くん?」


 まさかの名前が彼女の口から出て、思わず昔からのあだ名で呼んでしまいそうになった。


 ひーくんはわたしが赤ちゃんの頃からずっと一緒だった、大切な幼馴染だ。


 そして、わたしの想い人でもある。


 この常陽高校にわたしが来たのは、もちろんひーくんと同じ高校に通いたかったから。


 そうでもないと、こんな遠くて難しい高校に来るはずなんてない。そのぶんかなり苦労したし現在進行系でしてるんだけど……


 そこに先ほどの、楓ちゃんがひーくんと勉強会するというお話。


 さっきひーくんの名前しか出なかったけど、もしかして楓ちゃん、この部室で二人きりでひーくんと勉強するつもり……?


 ここを、二人の愛の巣にするつもり……!?


 そう思い至った途端、嫉妬の炎がメラメラと燃え上がる。


 ……高校生になってから、ひーくんがすごくモテてるってことは以前から知っていた。


 わたしも周りの女の子たちと恋バナをしたりするんだけど、いつの頃からかひーくんの名前が挙がってくるようになったのだ。


 告白したって女の子もいたし、ラブレターを渡したって子もいた。


 それに彼の周りには陽葵ちゃんとか楓ちゃんとか菫ちゃんとか可愛い女の子がたくさんいる。生徒会長とも仲がいいらしい。


 しかもあろうことか、あの絶世の美少女である水澪ちゃんを攻略しようとしてるなんて噂まで流れている。


 ひーくんが魅力的だってことはわたしが一番知ってる自信があるんだけど、それでもまさかこんなにモテるようになるなんて。


 女子たちの間では「誰が七海くんを攻略するか?」なんて話題まで挙がる始末。


 その本命として陽葵ちゃん、楓ちゃん、そしてわたしの名前が挙がっているらしい。


 そこにわたしがいることは嬉しいのだけど、先日その本命の一角である陽葵ちゃんがフラれたという、ビッグニュースが流れた。


 陽葵ちゃんは楓ちゃんと並んで、ひーくんと仲が良いとされていた子だ。


 わたしもちょっとだけ話したことがあるけど、すっごい可愛い子だった。それにスタイルもすごくいい。明るくて話しやすくて、性格だっていい。


 わたしから見たら陽葵ちゃんは非の打ち所がない女の子なんだけど、それでもひーくんには届かなかったらしい。


 彼女に比べたら、今のわたしのアドバンテージなんて、彼と幼馴染であったという過去があるだけだろう。


 一応ひーくんも、周りにはわたしとは幼馴染だったってことは言ってくれてるそうだ。


 忘れられてなかったことや、他人とは言わず幼馴染と言ってくれてることはすごく嬉しい。


 だけど、疎遠であることはそのまま言ってるみたいで、その言葉がやっぱり彼との距離感を示してるようで心が締め付けられた。


 だからわたしは、ずっと焦り続けていた。


 そして、ずっと寂しかった。


 だってわたしたちは、15年間も一緒だったのだ。


 これまでの2年間という空白は、わたしにとって永遠のような時間にも感じられた。


 ……なんて、考えてしまうけど、全ては自業自得。


 だってわたしは、一度この恋心を捨てたのだから。


 もしかしたら、わたしにはひーくんを想う資格なんてないのかもしれない。


 だからこれまでは、彼のことを近くで見ていられるだけでいいと思っていたんだけど。


 わたしは、彼と過ごしたあの楽しかった15年間の続きを、また求めずにはいられなかった。


「……ねぇ、楓ちゃん」


「ん?どうしたの葉月?」


「わたしもその勉強会、参加させてもらえないかな?」




 ◆◇




 楓ちゃんにわたしも勉強会に参加させて欲しいことを申し出たら、快くOKしてもらえた。


 それにひーくんも勉強会を了承してくれたみたい。


 楓ちゃんの方からわたしが参加することも伝えてくれたみたいだけど、その上で了承だったので、それを聞いて安心したし、その場でちょっと飛び跳ねそうになるくらい嬉しかった。


 そして約束の日の放課後。


 なぜか柑奈ちゃんが同席してたのは気になったけど、緊張でドキドキしながら待ってたら、ついにひーくんが部室にやってきた。


 彼の瞳がわたしを捉えて、ドクンと心臓が跳ねる。


 こうして目を合わせることすらも、もう2年以上ぶりだ。


 だって朝の電車ですら、彼がわたしを避けて別の車両に移動しようとしていたのが視界の端に入っていたくらいなのだから。


 多分ひーくんのことだからわたしに気遣ってのことだっただろうし、わたしが完全に悪いのだけど、やっぱりその姿を見かけるたび辛かった。


 こうして目を合わせただけで浮かれるなんて、単純だなと自分でも想う。


 しかしそんな浮かれた気持ちでいたら、


「——緑川は久しぶりだな。よろしく」


 わたしのことを、彼が名字で呼んでいて。


 昔のようなあだ名ではなく、他の女子たちと同じ名字呼び捨てで、心が抉られるような気持ちになった。


 だからわたしも、つい一瞬「ひーくん」なんて呼びそうになったけど、そこは心を押し殺しながら「七海くん」呼び。


 これがきっと、今のわたしと彼の正しい距離感なのだろう。


 そう考えて受け入れることにして、気持ちを切り替えて勉強会に取り組んだ。


 ……けど、それからも辛い時間は続くことになってしまった。


 常陽高校という身の丈に合わない進学校に来たことでずっと勉強が追いついておらず、自分が何を分かっていないのかも分からないというような状態だったのだ。


 教えてくれてるひーくんも、さすがにちょっと困惑していたようで。


 もしかしたら、県内トップクラスの進学校の更にトップレベルにいるひーくんにとっては、わたしみたいな人のことが信じられないのかもしれない。


 でも、それでもひーくんは、わたしに根気強く丁寧に勉強を教えてくれた。


 あんまり進捗はよくなかったけど、ひーくんが教えてくれた箇所はモヤが晴れていくみたいに理解が進んだ。


 やっぱりひーくんはすごい。

 みんなが彼を頼りにする理由が分かる。


 ずっと話せていなかったけど、やっぱり優しいままのひーくんで嬉しかった。


 そして勉強会がお開きとなり、帰り道はひーくんと二人きり。


 同じ高校に通っていながら、これまで一度も叶わなかった、ひーくんとの登下校。


 ずっと夢にまで見ていたそれは、とても気まずい空気からスタートした。


 でも勇気を出してわたしから切り出してみたら、それから会話は流れるように生まれてきた。


 ちょっと触れづらい話題にいきそうだったけど、そこはひーくんがうまくフォローしてくれたように思う。


 だからわたしも少し調子に乗っちゃって聞きたかったことを色々聞いてしまった。


 柑奈ちゃんとはどんな関係なのか。

 水澪ちゃんを攻略しようとしてるって本当なのか。


 本当はもっと聞きたいことはあったけど、自重した。それがよくないというのはわたしにもわかっていたはずなのだ。


 でもそうやって自分を抑制できてたのは、あの十字路まで。


 この十字路は、わたしとひーくんの家の分かれ道になる場所。


 ここでわたしたちは幾万回もの「バイバイ」を繰り返してきた、別れの象徴の場所でもある。


 その十字路に辿り着いた瞬間、ひーくんとの仲がまたこれで終わってしまいそうな気がして。


 空白の2年間に戻ることを恐れて。


「……またわたしに勉強教えてくれないかな?」


 こんなことまで口走ってしまっていた。


 ひーくんが一瞬だけ複雑そうな表情をしてたけど、それでもひーくんは了承してくれた。


 彼の優しさにつけ込んでいるようで申し訳ない感覚にもなったけど、それ以上にひーくんとまた二人きりで勉強できるという事実に、どうしようもなく嬉しさがこみあげて来る。


 ひーくんとバイバイしてから我が家までの短い距離でさえも、軽くスキップするような足取り。


 家に帰って早々、お母さんに「ひーくんが勉強教えてくれた!」なんてはしゃぎながら報告してしまうほど。


 その夜はもう胸がいっぱいで、とにかく幸せな気分で眠りにつくことができた。


 ひーくんと一緒に勉強会できて。

 緑川なんて名字で呼ばれて。

 懇切丁寧に勉強を教えてくれて。

 二人きりの帰り道で気まずい空気になって。

 それでもすぐに以前の調子に戻って。

 また勉強会してくれるって約束してくれて。


 本当に、感情がジェットコースターのように揺れ動いた一日だった。


 そしてその翌日、なんとひーくんがわざわざ文系のクラスまでわたしに会いに来てくれた。


 昨日フラッとお出かけしていったお母さんが、実はひーくんの家に行ってたってのは驚いたけど。


 その件は帰ってからお母さんにしっかり問い詰めた。


「お母さん!昨日の夜ひーくん家行ってひーくんと話したんだって!?」


「あら、バレちゃった。光くんに聞いたの?」


「うん、今日ひーくんが教えてくれた。何か余計なこと言ってないよね!?」


「余計なことって?葉月ちゃんが光くんを追いかけて常陽高校に行ったこととか?」


「え!?それ言っちゃったの!?」


「うふふ、大丈夫。言ってないわよ。ただ『葉月ちゃんに勉強教えてくれてありがとう』って伝えに行っただけだから」


「そ、そっか。それならいいんだ」


「でも、別に言ってもいいと思うんだけど。『わたし頑張ったよ』って、光くんに言いたいでしょ?」


「……ううん、わたしからは言えない、かな……」


「そう……二人がなんで喧嘩したのかは分からないしお母さんは何も言わないけどね。でも、今日も光くんとお話できたのね。安心したわ」


「……うん。良かった。まだちょっとギクシャクしてるけど……」


「若いうちは色々あるものよ。そういうのはきっと時間が少しずつ解決してくれるから。でも、そのためにはちゃんと素直にならなきゃダメよ?」


「……ありがとう、お母さん。あ、そうだ。ひーくんが筑前煮美味しかったって言ってたよ」


「あら、そう。それなら良かったわ」


 そうやってお母さんと話をして、自分の部屋へ。


 ……素直になる、か。


 それができたら、こんなに苦しい思いなんてしてないんだけどな。


 わたしとひーくんは、喧嘩なんてしていない。


 ただ一方的に、わたしが悪いだけなのだ。


 でも今向き合うべきは、今週末の勉強会。


 その前にひーくんに迷惑にならないように自分で予習しておくのはもちろんなんだけど、一緒に問題集を買いに行くなんて、本屋さんデートみたいなものだ。


 彼はきっと全くそんな風には思ってないんだろうけど。


 それでもわたしは、クローゼットを眺めながらどの服を着て行こうかなんて考えてしまうくらい、浮かれずにはいられないのだった。


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