アブ・シンベル
アブ・シンベル
「ルーナさん、言って来まーす!」
トレールのことを考えながら日々を過ごしていると、あっという間に次の休日がやって来た。
今日は、以前エリカがマークにお願いしていたアブシンベルに行く。
普段遊んでばかりであまり家にいないアリだったが、考古学が好きなのは彼も同じで、遺跡を見に行く時は必ずついて来た。
「アリ、いつまで不貞腐れた顔をしているんだ」
「別に不貞腐れてなんかないよ」
マークのそんな言葉にそう応えつつ口を尖らせるアリ。エリカがパーティーに行くと言い張っていることを未だに怒っているようだ。
そんなアリに困り顔を向けるエリカだったが、アリは全くエリカの方を向こうとはしない。
「アリったら、本当ににお姉ちゃんが好きなのね」
「違うよ、世間知らずな姉ちゃんが心配なだけ」
「まぁ、アリったら。照れちゃって」
「母さん、いい加減にしてよ。俺は真面目に言ってるの」
「はいはい」
「ちょっと姉ちゃんも何笑ってんの!」
エリカは助手席に座るメディナと後部座席、つまり隣に座るアリとのそんなやりとりを聞き、少し笑ってしまった。
「ごめんごめん」
エリカもアリが心配してくれているのは分かっていたが、弟に言われたからと言って憧れている人のパーティーにいかないという程“良い姉”にはなれなかった。
アブ・シンベルまでは首都カイロから飛行機で移動するため日帰りは少しきつい。そのためルーナさんに留守を頼み、今日はアブ・シンベルで一泊する。
「あ、見てエリカ!空港が見えて来たわよ!」
「ほんとだ!」
機内でもテンションが高いメディナは、小さな窓から滑走路らしき物を指差した。窓側に座るエリカは、少し身を乗り出して窓に張り付く。
その時、
『メ…』
ーーえ?
『…メリ』
ーーメリ?
大勢の人が叫んでいるような騒がしい声。
エリカはその声になんだか胸がザワザワとするのを感じた。
ーーなん、なの…?
「エリカ?どうかした?」
一瞬水に浸かったような、別世界に飛んだような感覚に陥ったが、少し驚いたようなメディナの声にハッと我にかえる。
「今なんか変な声しなかった?」
「声?飛行機のエンジン音じゃない?」
ーーえ…ママには聞こえなかったの?
再び窓に目を向けると、ピラミッドのような薄茶色が溢れる街並みがただただ広がっているだけで変化はない。
ーー空耳?でもあんなにハッキリ聞こえたのに…。
「なんだー今度はエリカが浮かない顔をして。何かあったのか?」
空港に着いてからもなんだか落ち着かなくて俯いて歩いていると、マークがそう言葉をかけて来た。
「え?…そんなことないよ。
元気元気!」
「本当か?」
「うん!」
マークは冴えない表情を浮かべるエリカに少し怪訝そうな表情浮かべたが、しばらくすると前を向いて歩き出した。
ーー私ったら、パパに心配かけて…。さっきのはきっと空耳だわ。しっかりしなきゃ。
空港からアブ・シンベル神殿まではタクシーで向かう。カーレースのように車の間を縫って進むタクシーに揺られ数十分、パレルモ家の四人を乗せたタクシーは目的地に到着した。
タクシーを降りるとすぐ目の前にウルルのような岩山が佇んでいた。その岩山の大きさに圧倒されながらも、ゆっくりと裏側に向けて歩いて行く。
「あ…」
そして、ちょうど裏側に回った所で、荘厳な雰囲気で佇む二つの岩山の正体が明らかになった。
それこそがアブ・シンベル大神殿とアブ・シンベル小神殿だ。岩山をくり抜くように作られている見事な巨大神殿。
アスワンハイダムの建設により、アブ・シンベル神殿が沈没の危機に晒されたため、神殿はブロック状に切断され、沈没の危機のない所に移設されたらしい。
今も完璧な姿で佇むこの巨大神殿がブロック状にされたというのが信じられない。
「す…凄い…」
誰もが圧倒されるような巨大なラムセス二世の像が四体人々を迎え入れるように並び、その当時の彼の権力を物語っている。
「ラムセス二世って、本当に偉大な人ね」
「あぁ。彼ほどエジプトを繁栄させた王は他にいないかもしれない」
神殿を食い入るように見つめるエリカに、マークはそう言葉を返した。
古代で最も偉大な王として名高いラムセス二世は、アブ・シンベル大神殿以外にもたくさんの建造物を残していた。
その一つとして、隣にあるアブ・シンベル小神殿が挙げられる。アブ・シンベル小神殿とは、ラムセス二世が最も愛した王妃ネフェルタリのために建設した神殿だ。
正面にはネフェルタリの像が二体、ラムセス二世の像が四体あり、入り口を中心として左右に1セットずつ、ネフェルタリの像をラムセス二世の像が挟むように建てられている。
その様子からラムセス二世がネフェルタリを護っているようにも見える。ここからもラムセス二世の深い愛を見てとることができるのだ。
「こんな神殿まで建ててもらって、ネフェルタリは本当に幸せ者ね」
考古学を専攻しているエリカは、写真で何度も見て来たアブ・シンベル大神殿と小神殿を初めて目にし感動で胸がいっぱいだ。
「ラムセス二世の寵愛は本当に凄いものだったようだね。今度ネフェルタリのお墓も行ってみようか」
「パパ本当?嬉しい!」
王妃の谷という歴代の王妃たちが眠る地に造られたネフェルタリの墓は、他のどの王妃たちのものよりも美しいという。
おもに古王国時代について研究してきたエリカにとって、ラムセス二世やネフェルタリは本来専門外である。
しかし、エリカも一人の女の子だ。ラムセス二世とネフェルタリのようなロマンチックなエピソードにはとても憧れる。
マークも隣でそんな乙女な表情を浮かべるエリカに、そっと柔らかい笑みを向けた。
「パパ、そういえばアリとママは?」
「ん?そういえば見当たらないなぁ」
「中入っちゃったのかな?」
「さぁなー」
「じゃあ私見て来るよ!」
「いや、父さんも一緒に行くよ」
「だめよ!二人で中に入っちゃったら、ママたちとすれ違いになっちゃうかもしれないわ!」
「ふむ、確かにそうだが…」
そうは言っても、エリカに単独行動をさせるのが不安なマークは言葉を濁した。
「大丈夫よ、パパ!じゃあ、行って来るね!」
「おい、エリカ!待ちなさい!」
マークのそんな声も虚しく、勢いよく走りだしたエリカは観光客の波に消えて行った。
「まったく…本当にどうしようもないお転婆な娘だな」
マークはどうしたものかと途方に暮れながら、大きなため息をついた。
「おかしいな…」
マークと別れてから、観光客の波に揉まれたどり着いた神殿の入り口。しかしその囲いを潜った途端、周りの人々の声がすべて消えた。
周りにはたくさんの人々がいるはずなのに、テレビの消音のように全く音が聞こえない。
「なん、で…?」
しかし自分の声だけはしっかりと鼓膜を揺らす。
なんだか飛行機に乗った時のように耳に圧迫感を感じる。気圧が高すぎる場所にいるような感覚だ。
不思議に思いながらも先に進むと、奥に行くに連れてどんどん人が疎らになって来る。そしてエリカは神殿の一番奥にたどり着いた。
並んだ神々とラムセス二世の像の前でゆっくりと立ち止まる。
その時、ツーンと鼻が痛くなり、咄嗟に鼻を押さえた。
「いっ…た」
涙目になるほどの激痛が襲う。鼻を押さえてしゃがみ込むという少しかっこ悪い姿だが、エリカは今それどころではなく、必死で鼻を押さえた。
ツーンというか、キーンというか、言葉では表せない痛みだった。
はじめは本当に鼻が痛いと思っていたエリカだったが、次第に本当に痛むのは頭だということに気づき始めた。目の奥の激痛が鼻にまで及んでいたようだ。
助けを呼びたいのに、周りには誰もいない。
痛みに耐え、フラフラと立ち上がろうとしたその瞬間…
『…メ』
ーーん…
『メリ…』
ーーな、っ…
飛行機の中で聞こえた声と同じだ。
『どうか…ーーのもとへ…!』
ーー誰…
いくつもの男の人たちの声。
『どうか…』
ーーあなた達は誰!?いったい何者なの!!
『どうか…我らの元へーーーーー』
「いや!!」
エリカはそう叫び耳を押さえた。
『メ…リ…』
ーーーっ!
再び聞こえた声から逃げるようにギュッと目を閉じた瞬間、エリカはフッと意識を手放した。
NeFeR ~寵愛されし妃 @Kozuki_
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