第2話:新たな日常
目を覚ました時、まだしばらくの間、どこにいるのかわからなかった。意識がはっきりしないまま、ぼんやりと天井を見つめていた。目の前に広がる見慣れた部屋。青白い光がカーテン越しに差し込んで、部屋の中に柔らかな朝を告げている。いつも通りの朝だ。だけど、心の中はずっとざわついている。
すべてを元に戻すと決断した時、僕はすべてが解決すると思っていた。家族も守られ、運命が元通りになることで、美咲との記憶も曖昧になって、やがて薄れていくだろうと。
しかし、その予想は完全に外れていた。目を閉じるとすぐに彼女の笑顔が浮かび、あの柔らかい声が耳の奥で響いてくる。僕があの時、美咲を選ばなかったことは、正しい選択だったのか。それとも、僕は家族と美咲の両方を失わずに済む道があったのか。
「優斗、早く起きなさい。朝ご飯が冷めるわよ!」
母の声が遠くから聞こえた。慌てて布団から出て、着替えを始める。この声を聞けることに、どこか安堵する一方で、何か大切なものが欠けていることを強く感じた。
リビングに降りると、家族がいつも通りそこにいた。母がキッチンで朝ご飯を準備し、父は新聞を広げて読んでいる。由香里は僕の隣に座って、にこにことテレビの画面を見ている。いつも通りの、何の変哲もない朝の光景だった。
「優斗、今日は会社?」
父が新聞から顔を上げ、僕に尋ねた。
「うん、今日も普通に出勤するよ。忙しいからね。」
僕は何気なく答えた。仕事は確かに忙しい。新しいプロジェクトが始まってから、毎日が慌ただしい。だが、どれだけ仕事に追われていても、美咲のことが頭から離れない。
「無理しすぎるなよ。」
父の言葉に、僕は軽くうなずいた。いつものように僕を気遣ってくれる家族。これが、僕が守った日常だ。家族が無事で、一緒に過ごせることはかけがえのないことだ。それは分かっている。だが、どうしてもこの平穏が心のどこかで虚しく響いてしまう。
「由香里、ちゃんとご飯食べなさいね。」
母が優しく言い、由香里は一瞬口を尖らせたものの、素直に食事を口に運び始めた。こうして見ていると、家族はみんな変わらない。僕が過去を変えて、すべてを元に戻したことで、彼らは再び平穏な日常を取り戻した。
だが、僕の中には違和感が残っている。
僕は無理やり笑顔を作り、食事を終えて出勤の準備を始めた。会社に行けば、少しは気が紛れるだろう。仕事に没頭すれば、余計なことを考えずに済むかもしれない。そんな思いで、僕は家を出た。
会社に着くと、すぐにいつもの慌ただしさに巻き込まれた。プロジェクトは順調だが、まだまだやるべきことが山積みだ。資料の確認、会議の準備、そしてクライアントとのやり取り。頭をフル回転させながら、時間が過ぎるのを感じていた。
「優斗、ちょっといいか?」
同僚であり親友の修二が僕に声をかけてきた。彼は僕と同じシステムエンジニアとして働いているが、冷静な性格と鋭い観察力を持っている。僕にとって、彼は信頼できる存在だ。
「なんだ?」
「最近、元気ないように見えるけど、大丈夫か?なんか考え事でもしてるんじゃないか?」
修二の言葉に、一瞬心臓が跳ね上がった。まるで僕の内面を見透かされているようだった。だが、彼に美咲のことを話すわけにはいかない。彼女が存在していたはずの現実が、今は消えてしまったのだから。
「いや、別に。ただ、プロジェクトが忙しくて疲れてるだけさ。」
僕はできるだけ平静を装って答えた。修二は眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、無理するなよ。お前が倒れたら、プロジェクトも進まないからな。」
彼の軽口に、僕は軽く笑って答えた。けれど、その笑顔はどこかぎこちなかったに違いない。自分でも分かっている。何かが足りない。心の中にぽっかりと空いた穴。それが、日々の忙しさの中で埋まることはないと。
仕事が終わり、会社を出る頃には、すっかり外は暗くなっていた。夜の街を歩きながら、僕はまた美咲のことを思い出していた。彼女と過ごした日々、彼女の優しい声、そして彼女を失うことを決意したあの日。どれもが今でも鮮明に頭に浮かぶ。
「美咲……」
彼女の名前をつぶやくと、胸が痛んだ。彼女はいま、この現実のどこにも存在しない。僕の選択の結果、彼女との未来は失われた。家族を守るために選んだ道だったが、それが正しかったのかどうか、今でも迷うことがある。
このまま、彼女を忘れることができるのだろうか。いや、忘れるべきなのだろうか。答えは出ないまま、僕は足を止めた。
目の前には、あのカフェがあった。美咲と初めて出会った場所だ。まるで運命に引き寄せられるかのように、僕はカフェの前に立っていた。
扉を開けると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。カフェの中は昔と変わらない。穏やかな音楽が流れ、落ち着いた雰囲気が漂っている。僕は空いている窓際の席に座り、メニューを開いた。けれど、頭の中にはメニューの文字は入ってこない。
ここで僕は美咲と出会い、そして彼女と特別な時間を過ごした。その記憶が僕の中に鮮明に残っている。だが、彼女は今、僕の知らない世界にいる。僕の選択が、彼女との出会いを無かったことにしてしまった。
そんなことを考えていると、店のドアが開いた音がした。ふと顔を上げると、そこにいたのは――
「……美咲……?」
僕は思わず声を漏らした。そこに立っていたのは、確かに美咲だった。彼女はゆっくりと店の中に入ってきて、奥の席に向かって歩いていった。彼女の姿に、僕は一瞬で過去に引き戻されたかのような感覚に襲われた。
彼女がこの世界にいるはずがない。僕はすべてを元に戻し、彼女との出会いも消したはずだ。それなのに、今、彼女は目の前にいる。
「美咲……!」
僕は衝動的に立ち上がり、彼女に向かって声をかけた。だが、彼女は驚いたようにこちらを振り返り、首をかしげた。
「え?……ごめんなさい、どなたですか?」
その言葉に、僕は絶望感に襲われた。彼女は僕を知らない。僕たちの出会いは消え去っていて、彼女にとって僕はただの他人だ。彼女の瞳には、僕に対する記憶が何一つ映っていない。
「……すみません、間違えました。」
僕はそう言うのが精一杯だった。美咲は軽く微笑んで、再び自分の席に戻っていった。その背中を見つめながら、僕はその場に立ち尽くした。
彼女はここにいる。だけど、僕との記憶は消えてしまった。僕は彼女にとって、ただの見知らぬ人に過ぎないのだ。胸の奥が締め付けられるように痛む。それでも、僕は彼女に何も言えなかった。
その夜、家に帰ると、家族はいつも通りそこにいた。由香里が宿題をしている姿、母が食事の準備をしている姿、父がリビングでくつろいでいる姿。それを見て、僕は自分が選んだ選択を再確認した。
この日常を守るために、僕は美咲を失った。家族を守り、すべてを元に戻すことで、僕はこの平穏を取り戻したのだ。だが、その代償はあまりにも大きかった。
美咲が目の前にいたのに、彼女は僕を知らない。僕たちの過去は、もう存在しない。それでも、彼女が幸せに生きているなら、それでいいはずだ。僕はそう自分に言い聞かせた。
「優斗、今日は遅かったわね。お腹空いてる?」
母が微笑んで僕に声をかけてくれた。その笑顔に、僕は安堵感と同時に、深い悲しみを感じた。
「うん、ありがとう。大丈夫だよ。」
僕はできるだけ穏やかに答えた。家族と過ごす時間が、僕にとってかけがえのないものであることは確かだ。美咲を失ったことは辛いけれど、これが僕の選んだ道だ。
すべてを守ることはできなかったけれど、僕は少なくとも家族を守った。それで十分だと、何度も自分に言い聞かせるしかなかった。
数日が過ぎ、僕は再び日常の忙しさに追われていた。仕事に没頭することで、余計なことを考えないようにしていたが、ふとした瞬間に美咲のことが頭をよぎる。カフェで見かけた彼女の姿が、何度も僕の中で蘇ってくる。
そんなある日、僕の携帯に一通のメールが届いた。差出人を見て、心臓が一瞬止まりそうになった。そこには、見覚えのない名前が書かれていたが、メールの本文には「お久しぶりです」とだけ書かれていた。
メールを開くと、その内容は短かった。
「この前、カフェでお会いした時、何か懐かしい感じがしました。もしかして、以前どこかでお会いしたことがあるのでしょうか?」
送信者の名前を確認すると、そこには美咲の名前が書かれていた。
僕の心臓は激しく鼓動し始めた。彼女が僕にメールを送ってきたということが、信じられなかった。彼女に僕との記憶はないはずなのに、何かを感じ取ったのだろうか。
僕は震える指で、メールの返信を書き始めた。言葉を選びながら、慎重に打ち込む。もしかしたら、運命は再び僕たちを引き寄せようとしているのかもしれない。
「ええ、僕たちは、きっとどこかで……」
その日、僕は新たな希望を感じていた。すべてを元に戻してしまったと思っていたが、運命はまだ終わっていないのかもしれない。再び美咲と出会い、もう一度始めることができるのなら、それは僕にとっての救いとなるだろう。
どんな未来が待っているのかは分からない。それでも、僕は今、彼女に向き合うための新たな一歩を踏み出そうとしている。
これが、僕にとっての「新たな日常」の始まりだ。
美咲からのメールに対する返信を送った後、僕はしばらくの間、携帯を握りしめたまま動けなかった。心臓の鼓動がいつまでも速いままで、頭の中では様々な思いが渦巻いていた。運命が僕たちを再び引き寄せたのか?それとも、これはただの偶然なのか?すべてを元に戻したはずなのに、なぜ彼女から連絡が来たのか。
メールの内容は短かったし、彼女にとっては単なる好奇心だったのかもしれない。それでも、僕にはその一言一言が重く感じられた。彼女の中に、僕との記憶が微かに残っているのだろうか?それとも、運命のいたずらで彼女が再び僕の前に現れただけなのか。
返信を送った後、僕は彼女からの返事を心待ちにしていたが、時間が過ぎるごとに少しずつ不安が募っていった。もしかしたら、僕の返事が彼女にとっては過剰だったかもしれない。あるいは、彼女はただ僕との過去を思い出せなかっただけで、僕の返信に興味を失ったのかもしれない。
数日が過ぎた。美咲からの返事はすぐには来なかった。仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間に携帯を確認してしまう自分がいた。いつもの日常が繰り返される中で、心の中には美咲への期待と不安が混ざり合っていた。
そして、ある夜、僕が家に帰った時、ついにその瞬間が訪れた。
携帯が震え、画面に美咲からの新しいメールが届いたことを知らせる通知が表示された。心臓がまたしても大きく跳ね上がるのを感じた。手が震えるのを抑えながら、僕は急いでメールを開いた。
「お返事ありがとうございます。正直に言うと、私はあなたのことをよく覚えていないんです。でも、あのカフェでお会いした時に、何か大切なものを思い出しそうな感覚があったんです。私自身も不思議で、もしよければもう少しお話しできる機会があればと思っています。」
そのメールを読んだ瞬間、心の中で何かが弾けたような気がした。彼女は僕のことを覚えていない。それでも、彼女は何か感じ取ったのだ。僕たちの間には、過去があった。記憶は消えても、運命の糸が再び僕たちを引き寄せたのかもしれない。
僕はすぐに返事を打ち始めた。彼女ともう一度会って、話をすることができる。それだけでも、僕にとっては奇跡のように思えた。
数日後、僕たちは再びカフェで会うことになった。あの場所――僕たちが初めて出会った場所。そして、運命が再び交差した場所だ。今回の再会が何を意味するのかは分からない。だが、僕にとっては再びチャンスが与えられたこと自体が大きな意味を持っていた。
カフェに着くと、心臓がまたしても速く鼓動しているのを感じた。あの日と同じテーブル、同じ席。僕は緊張しながら座り、彼女を待っていた。
しばらくして、扉が開き、彼女が入ってきた。美咲は僕に気づくと、少し緊張した表情で微笑んだ。その笑顔は、僕が知っている美咲の笑顔そのものだった。僕たちは目を合わせ、ゆっくりと再会の挨拶を交わした。
「こんにちは。お待たせしました。」
「いや、僕も今来たところだよ。」
彼女は軽く笑って席に着いた。その瞬間、僕は彼女がここにいるという現実をようやく受け入れることができた。僕たちは再び出会ったのだ。
最初は、何気ない会話から始まった。彼女の仕事のこと、最近の出来事、そして趣味について話すうちに、少しずつ緊張が和らいでいった。彼女は初めて出会った頃と変わらず、優しくて、穏やかな人だった。
けれど、その一方で、僕の心の奥には複雑な感情が渦巻いていた。僕たちはすでに出会っていたという事実を知っているのは僕だけだ。彼女には、僕との過去の記憶がない。彼女と過ごした時間、笑い合った日々、そのすべてが僕の中にだけ残っている。それでも、今の彼女との会話は心地よく、再び彼女と向き合えることが嬉しかった。
「不思議ですよね。こうして話していると、なんだか初めてじゃない気がするんです。」
彼女がふとそう言った時、僕の心臓は再び大きく跳ねた。彼女もまた、何かを感じ取っているのだろうか。
「僕も、そう思うよ。」
僕はできるだけ自然に答えた。彼女にすべてを話すことはできない。過去に起こった出来事、僕が美咲を失うためにした選択、そしてすべてを元に戻した結果……それを知れば、彼女は混乱してしまうだろう。今は、彼女との新しい出会いを大切にしたい。それが僕にできる唯一のことだ。
僕たちはその後もゆっくりと話し続けた。会話の中で、彼女のことを少しずつ知ることができた。彼女は新しい職場で頑張っていて、同僚との関係もうまくいっているようだ。彼女の穏やかな笑顔を見るたびに、僕は過去の苦しみが少しずつ和らいでいくのを感じた。
「また、こうしてお話しできる機会があれば嬉しいです。」
彼女が最後にそう言った時、僕の心は安堵で満たされた。
「もちろん。ぜひまた会おう。」
僕たちは別れ際に軽く手を振り合い、彼女はカフェを後にした。僕はその背中を見送りながら、心の中で新たな希望が芽生えているのを感じた。
それから数週間、美咲とのやり取りが続いた。メールや電話で近況を報告し合い、少しずつお互いの距離が縮まっていくのを感じていた。僕たちは以前のように親密な関係ではないが、それでも新しいスタートを切ることができたことに感謝していた。
再び彼女と会うたびに、彼女との新しい未来が開けていくのを感じた。僕たちは過去を取り戻すことはできない。それでも、今ここで始まっているこの関係は、僕にとって新しい希望だった。
ある日、僕はふと彼女に尋ねた。
「もし、過去に戻って何かを変えられるとしたら、どうする?」
その質問に、美咲は少し考え込んだ。
「うーん……私は今の自分を大事にしたいかな。過去に後悔がないわけじゃないけど、だからこそ、今の私があると思うんです。」
彼女の言葉に、僕は深く頷いた。過去を変えることはできない。それがどれほどの痛みを伴うものであっても、今を生きることが大切なのだ。
「そうだね。今の自分を大切にするって、すごく大事なことだと思う。」
僕は彼女の考えに賛同した。過去の選択を悔やんだこともある。けれど、それでも僕は今を生きている。家族と美咲の存在が、僕にとっての救いとなっている。
それからの僕たちは、少しずつお互いに対する距離を縮めていった。頻繁に会話を交わし、時には一緒に出かけることも増えていった。まるで、僕たちの運命が再び交差して、新しい道を作り出しているかのようだった。
彼女と過ごす時間は、僕にとってかけがえのないものとなった。過去を変えようとしていたあの頃の僕ではなく、今を生きる彼女と新たな未来を歩むことができるという実感が、少しずつ僕の心の痛みを和らげていった。
運命は時に厳しく、時に優しい。過去の選択によって失ったものは多い。それでも、今を生きることで得られるものもある。それが、僕にとっての「新たな日常」だった。
そして、これから先、僕は彼女とどんな未来を歩んでいくのだろうか。その未来は、まだ誰にもわからない。けれど、僕はもう一度彼女と向き合うことができたことに、心から感謝している。
美咲との再会は、僕の心に灯をともしたようだった。過去を変えることで一度は彼女を失い、再び彼女との運命が交差した今、僕は新たな希望を感じていた。すべてが元に戻ったわけではない。彼女は僕との過去を覚えていないし、僕たちがかつてどんな日々を過ごしていたかも知らない。それでも、僕たちの間には新しい繋がりが生まれつつあった。
再び彼女と会話をすることで、少しずつ心の距離が縮まっていくのを感じた。カフェで話をしたり、一緒に映画を観に行ったり、穏やかに時を過ごすたびに、彼女との新しい未来が開けていくようだった。過去に縛られていた僕が、ようやく未来を見つめられるようになってきたのかもしれない。
ある日、僕は美咲と一緒に街のショッピングモールに出かけた。特に目的はなく、ただ一緒に時間を過ごすことが嬉しかった。彼女と一緒にいると、過去の苦しみや不安が少しずつ薄れていくのを感じる。それは僕にとって、とても大きな救いだった。
「優斗さん、これ、どう思う?」
美咲が手に取ったのは、カジュアルなストールだった。彼女は鏡の前でそれを肩にかけて、僕に向かって微笑んだ。その仕草が自然で、彼女の笑顔が眩しく映った。
「似合ってるよ。色合いがいいし、暖かそうだね。」
僕は正直に答えた。彼女が嬉しそうに笑うたびに、僕の心も自然と軽くなる。以前の彼女との時間を思い出しながらも、今は今で新たな思い出が築かれていくことに喜びを感じていた。
「ありがとう。じゃあ、これにしようかな。」
美咲はレジへと向かい、購入の手続きを済ませた。その後も、僕たちはショッピングを楽しみながら、いろいろな話をした。お互いの好きなことや、最近気になっている映画の話、そして仕事についての悩みなど、何気ない会話が続いた。
「優斗さん、ずっと思ってたんだけど、私たち、なんだか昔から知り合いみたいだね。初めて会った時から不思議な感じがしていたの。」
美咲が突然そう言った。僕は一瞬、心臓が止まりそうになったが、彼女が言いたいことを慎重に聞くために、表情を崩さないようにした。
「そうかな。確かに、僕もそう感じることがあるよ。何か、自然に話せるというか。」
「そうよね。まるで昔から友達だったみたいに、安心して話せるの。だから、なんだか不思議。」
彼女の言葉に、僕は深くうなずいた。美咲の中に、僕たちの過去の記憶が断片的にでも残っているのかもしれない。だけど、その記憶は彼女自身には明確に意識されていないのだろう。僕たちは新しい関係を築いているけれど、過去の影がどこかで僕たちを結びつけているのかもしれない。
「美咲、これからも、こうやって一緒に過ごせたらいいね。」
僕は彼女を見つめながらそう言った。過去を取り戻すことはできないし、彼女に真実を告げることも難しい。それでも、彼女との今を大切にしたいという思いが、僕の中で強くなっていた。
彼女は少し驚いたような表情をしたが、すぐに笑顔を浮かべてうなずいた。
「うん、私もそう思う。こうして一緒にいられるのは、嬉しいから。」
その言葉を聞いた時、僕はこの新しい日常が本当に始まったのだと感じた。過去の後悔や苦しみを抱えながらも、僕は前に進んでいる。美咲との関係が、僕に新しい希望を与えてくれているのだ。
その日の夕方、僕たちはカフェに寄って一息つくことにした。あの運命のカフェだ。美咲と一緒にその場所にいること自体が、僕にとっては特別なことだった。あの日、僕たちは出会い、そして一度別れる運命にあった。しかし、今度は再び出会い、新しい未来を作り出そうとしている。
「このカフェ、やっぱり好きだな。」
美咲がカップを手に取りながら、ぽつりとつぶやいた。僕も同じ気持ちだった。
「僕もだよ。この場所には、何か特別なものを感じるんだ。」
彼女は僕の言葉に微笑んでうなずいた。僕たちはしばらく無言のまま、お互いの存在を感じながらカフェの穏やかな雰囲気に浸っていた。
「ねぇ、優斗さん。もし、本当に過去に戻れるとしたら、何かを変えたいと思う?」
彼女の突然の問いに、僕は少し驚いた。その質問は、まるで僕の心の中を見透かしているかのように響いた。彼女には知らないはずのことだが、その言葉は僕にとって非常に重い意味を持っていた。
「うーん……」
僕は少し考えてから答えた。
「正直に言うと、過去を変えたいと思ったことは何度もあるよ。失敗や後悔、たくさんある。でも……」
「でも?」
「でも、今こうしているのが、きっと僕にとってのベストなんだと思う。過去を変えたら、今の自分も変わってしまうかもしれない。だから、今を大切にしたいって思うんだ。」
それが、僕が最終的に辿り着いた答えだった。過去を何度も変えようとした結果、僕は大切なものを失った。だけど、今ここにいる自分は、そのすべての選択の上に成り立っている。だからこそ、今を大切にするしかないのだ。
「そっか。私も、今の自分を大切にしたいな。」
美咲は柔らかく微笑みながら、僕の言葉に共感してくれた。その瞬間、僕の中で何かがふっと軽くなった気がした。彼女との関係は、過去の記憶に縛られたものではなく、今この瞬間を大切にするものなのだと。
それからも、美咲との時間は穏やかに流れていった。彼女との出会いが再び訪れたことは、僕にとって大きな救いだった。彼女が僕との過去を覚えていないことが辛いと感じる瞬間もあったが、それでも今を大切にすることが僕にできる最善のことだと自分に言い聞かせた。
僕たちは一緒に時間を過ごすことで、少しずつお互いを知り合い、そして信頼を深めていった。美咲との未来は、まだこれからどうなるのかは分からない。けれど、僕はもう後悔しない。彼女との新しい関係を大切にし、今を生きることで、僕は過去の痛みを乗り越えることができるはずだ。
そして、ある日、僕はふと思った。この出会いがどれほどの奇跡だったかを。過去を変えようとした僕は、すべてを失いかけたが、運命は僕に再びチャンスを与えてくれたのだ。
数週間後、僕は再び美咲と会う約束をしていた。僕たちの関係は確実に深まっていた。彼女との時間が僕にとって特別で、彼女にとってもそうであってほしいと願っていた。
その日、僕は少し早めにカフェに到着し、彼女を待っていた。心の中で、彼女とのこれからの未来に期待を寄せながら。
美咲がカフェの扉を開け、笑顔で僕の元に向かってくる。僕の心の中には、新たな希望が広がっていた。
そして、その希望を胸に、僕は彼女に向かって微笑んだ。
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