時を越えた約束

@pinkuma117

第1話:失われた過去

気づいたときには、もう遅かった。あの日のことは、まるで何度も夢の中で見たかのように、くっきりと記憶に残っている。白く曇った冬の朝、僕はリビングで妹の由香里と一緒にテレビを見ていた。母が台所で料理をしていて、父は新聞を読みながら時折笑っていた。平凡で、何の変哲もない朝――少なくとも、そう思っていた。


「お兄ちゃん、今日の映画、楽しみだね!」


由香里は笑顔で僕に話しかけてきた。彼女の笑顔は、いつも明るく、元気いっぱいだった。僕は少し気怠げに頷いただけだったのを覚えている。その時の僕は、まだ小学六年生で、妹に対して少しばかりの鬱陶しさを感じていた。由香里はいつも僕の後ろをついてきて、僕がやることを何でも真似しようとする。でも、それが煩わしく感じられるのは、その瞬間だけだったのかもしれない。今となっては、その笑顔を思い出すたびに胸が締めつけられる。


家を出た直後のことは、ほとんど覚えていない。覚えているのは、車が滑り込んでくるようにして僕たちの目の前に現れたこと。強烈な衝撃音とともに、世界がゆがんでいった。父と母、そして由香里はその事故で亡くなり、僕だけが生き残った。僕は奇跡的に無傷だったが、その代わりに、心の中に大きな傷が残った。


それ以来、僕は過去に縛られて生きてきた。毎晩のようにあの事故の夢を見る。夢の中で、僕は何度も家族を救おうとするが、どうしても手が届かない。彼らが僕の目の前から消えていく瞬間が繰り返され、そのたびに目が覚める。目が覚めた後も、深い喪失感が僕を包み込み、息苦しさを覚える。それは消えることのない呪いのようなものだった。


大人になってからも、その過去は僕を追い続けた。僕はシステムエンジニアとして働き、日常生活の中で過去の傷を忘れようとしたが、完全に忘れることはできなかった。家族のいない寂しさ、そして自分だけが生き残ったという罪悪感は、常に心の中に残っていた。


そんな僕を救ってくれたのは、恋人の美咲だった。


美咲とは、数年前に偶然の出会いから付き合い始めた。彼女は小学校の教師をしていて、子どもたちに対して深い愛情を持って接している。そんな彼女の優しさが、僕の心の中にある冷たい空虚を少しずつ埋めてくれた。美咲は僕に対して何も強要しない。ただ、僕のそばにいて、僕の過去を知りながらも受け入れてくれていた。


僕たちは、何度も過去について話したことがある。美咲は、僕の過去を全て理解してくれているわけではないが、共感してくれるし、いつも寄り添ってくれる。そのおかげで、僕は少しずつ過去を乗り越えられるようになってきた。少なくとも、そう信じていた。


だが、それはただの錯覚だった。僕は本当の意味で、過去を乗り越えたわけではなかった。どれだけ美咲がそばにいてくれても、心の奥底には変えられない現実があり、僕はその現実に囚われていた。


ある日、会社からの帰り道、僕はふと足を止めた。街の中を歩きながら、周囲の景色がぼやけて見える。美咲と過ごす時間は幸せだが、心の中に空洞があることに気づいてしまう。


「もし、あの時、過去を変えることができたなら……」


そんな考えが、頭の片隅にこびりついて離れない。家族を救いたいという思いが、どうしても消えない。時間が経つにつれて、その願望はさらに強くなり、僕の心を蝕んでいった。美咲との未来は大切だ。それでも、あの時に戻って家族を救うことができるなら、今の人生はもっと違うものになっていたはずだと、思わずにはいられなかった。


そんな時だった。


「過去を変えたいと思ったことは、ないか?」


その声は、まるで僕の心を見透かすかのように聞こえてきた。振り向くと、そこには一人の男が立っていた。黒いスーツを着たその男は、冷静な表情を浮かべながら僕を見つめていた。僕は驚いて彼を見返したが、男は何事もなかったかのように続けた。


「もし、本当に過去を変えられるとしたら、どうする?」


「……どういう意味ですか?」


僕は警戒しながらも、その男の言葉に興味を引かれていた。彼の言葉は、まるで僕の心の奥底にある願望を直接突いてくるかのようだった。過去を変えることなんて、現実的には不可能なはずだ。しかし、その言葉には妙な説得力があった。


「過去を変える方法がある。君が望むなら、家族を救うことができるかもしれない。」


その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。頭の中では警戒しろと言い聞かせていたが、感情が抑えきれなくなった。彼の言葉に嘘がないのなら、僕の願いが叶うかもしれない。


「どうして、そんなことができるんですか?」


「それは……君次第だ。」


男は微笑んだ。それは不気味な笑みではなく、どこか冷静で確信に満ちたものだった。彼はポケットから名刺を取り出し、僕に差し出した。


「神崎翔(かんざきしょう)……?」


「もし、興味があるなら、ここに連絡してくれ。」


そう言って、神崎は僕に名刺を手渡し、そのまま去っていった。僕はしばらくの間、名刺を見つめたまま動けずにいた。彼の言葉は、まるで魔法のように僕の心に刻み込まれていた。


その夜、僕は美咲の家にいた。彼女は僕の顔を見て心配そうに首を傾げた。


「優斗、大丈夫?なんだか元気がないみたいだけど……」


「うん、大丈夫だよ。」


僕は笑顔を作ってみせたが、頭の中はまだ神崎の言葉でいっぱいだった。過去を変えるなんて、馬鹿げている。そんなことが現実にできるはずがない。それに、もし過去を変えたら、今の僕たちの関係にも何かしらの影響があるかもしれない。


「何かあったら言ってね。私は、いつでもあなたの味方だから。」


美咲は僕の手を優しく握りしめた。彼女の温かさが、少しだけ僕の不安を和らげてくれる。それでも、心の中に残った疑念は消えなかった。


「過去を変えたいと思ったことは、ないか?」


神崎の言葉が何度も頭の中で繰り返される。家族を救うことができるなら、僕はどんな代償でも払う覚悟がある。だが、その代償が美咲との未来だとしたら……?僕は一体、どちらを選ぶべきなのか。


翌朝、僕はどうにも落ち着かない気持ちで目を覚ました。昨晩の神崎との出会いが、まるで悪夢のように僕の頭をぐるぐると巡っていた。それが単なる夢か現実か、もはや区別がつかないほど曖昧な感覚だったが、手元には確かに彼から渡された名刺が残っていた。


ベッドに横たわりながら、僕はその名刺をじっと見つめた。神崎翔――それは、ただの偶然の出会いだったのだろうか。あるいは、僕の心を見透かした何かの陰謀か。過去を変える方法なんて現実的に考えれば馬鹿げた話だが、もしそれが本当だったら……。


ふと、由香里の笑顔が頭に浮かんだ。いつも元気で、どこに行くにも僕の後を追いかけてくるあの姿。彼女の笑顔を守るためなら、僕は何だってできる気がした。どれだけの犠牲を払ってでも、家族を救いたいという思いが胸の中に広がっていく。


その日は、仕事に行く準備をしながらもずっとそのことばかり考えていた。会社に向かう途中、通勤電車の中でさえ、周りの景色が頭に入ってこなかった。どうしても名刺に書かれた連絡先に手を伸ばすことができないまま、時間だけが過ぎていった。


会社に着くと、いつも通りの忙しさが僕を迎えてくれた。プロジェクトの進行状況を確認し、次々と溜まっていくタスクに対応する――いつものことだ。だが、今日は違った。頭の片隅にはずっとあの「選択肢」がちらついていた。


「優斗、今日の進捗どう?」


突然声をかけられて振り向くと、親友であり同僚でもある修二が立っていた。彼は僕にとって、数少ない気の置けない友人の一人だ。修二は物事に対して冷静で現実主義な人間だが、その反面、誰よりも周りのことを気にかけてくれる優しさを持っている。


「……ああ、うん。進んでるよ。」


曖昧に答える僕を見て、修二は眉をひそめた。


「なんか変だな。優斗、お前らしくないぞ? 最近、調子悪いのか?」


「いや、別に……」


僕はついと視線を逸らした。修二は僕の嘘を見抜いたかのように、さらに追及してくる。


「まあ、なんかあったなら話せよ。お前が抱え込むと面倒だからな。美咲にも心配かけるなよ?」


「わかってるよ、ありがとう。」


軽く流すように答えたが、心の中では修二の言葉が重く響いていた。確かに、僕は何かを抱え込んでいる。過去の重さと、これからどうするべきかという選択の狭間で、僕は自分の感情を整理できずにいた。


その日の業務が終わり、オフィスを後にするとき、僕はポケットの中にある名刺を再び取り出した。薄暗い街灯の下で、その文字がぼんやりと光を反射していた。電話をかけるべきかどうか、まだ迷っていた。だけど、心の中では答えが出ている。


このままではいけない。僕は何も変えられないまま、後悔の中で生き続けるだけだ。


携帯を取り出し、名刺に書かれた番号をゆっくりと入力していく。指が震えたのは、恐怖ではなく、期待からだった。過去を変えるなんて常識外れのことに賭けるなんて、正気の沙汰ではない。それでも、僕はその可能性に賭けたかった。


数コールの後、電話が繋がった。無機質な声が返ってきた。


「もしもし、神崎だ。」


「……篠原優斗です。あなたに昨日、話しかけられた者です。」


「ああ、覚えているよ。どうだい、決心はついたか?」


彼の声はまるで最初から僕が電話してくることを分かっていたかのように落ち着いていた。僕は一瞬ためらったが、覚悟を決めて答えた。


「過去を変えたい。家族を……救いたいんです。」


その瞬間、静寂が僕の周りを包み込んだような感覚がした。まるで世界そのものが僕の選択を重く受け止めたかのように、周囲の音が遠ざかっていった。


「いいだろう。詳しい話を聞かせてやる。明日の夜、この住所に来い。」


彼が指示した場所は、街の外れにある古びた建物だった。僕はそれをメモし、無意識に頷いた。


「わかりました。」


電話を切った後、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。冷たい風が頬を撫でる中、これから何が起こるのか、想像もつかなかった。ただ、僕の心は家族を取り戻すための希望に満ちていた。


次の日、僕は約束の場所へ向かった。


それは古びたビルの一室だった。街の喧騒から離れたその場所は、どこか現実感が薄く、まるで映画の一場面に紛れ込んだような錯覚に陥った。エレベーターで上がり、指定された部屋のドアの前に立つ。扉をノックすると、すぐに内側から鍵が外れる音が聞こえた。


扉を開けたのは、神崎だった。彼は昨日と同じスーツ姿で、微笑んで僕を迎え入れた。部屋の中は、簡素な机と椅子が並んでいるだけの殺風景な空間だった。窓もなく、外の様子はまるで感じられない。何か不気味な雰囲気を感じつつも、僕は彼に導かれるまま中へと足を踏み入れた。


「篠原優斗、君は本当に過去を変える覚悟があるんだな?」


神崎の言葉に、僕はただ頷いた。何度も心の中で反芻してきたことだ。僕は家族を救いたい。それ以外のことは、今はどうでもよかった。


「いいだろう。それでは、これを使うんだ。」


彼が机の上から差し出したのは、小さなデバイスだった。携帯電話のような形をしているが、どこか違和感のあるデザインだ。未来的というよりも、むしろ異質な感じがした。


「これを使えば、君は過去に戻ることができる。ただし、覚えておいてほしいことがある。過去を変えるということは、未来にも影響を及ぼす。すべてが理想通りになるわけではない。」


僕はその言葉に一瞬戸惑ったが、それでも強く頷いた。もう後戻りはできない。僕は過去を変える。それがどんな結果をもたらそうとも、覚悟はできている。


「これから君が行くのは、事故の起こる直前の時間だ。そこからは君次第だ。注意しろ、時間は限られている。」


神崎の言葉に耳を傾けながら、僕はデバイスを手に取った。震える手を抑えながら、僕はそのボタンを押した。


その瞬間、世界が歪み、目の前が暗転した。

意識が戻った時、僕はすでに過去の世界に立っていた。目の前には見覚えのある光景が広がっている。これは、まさにあの事故の日の朝だ。何もかもが生々しく蘇る。冷たい空気が肌に触れ、冬の独特な乾いた空気が僕の肺に入り込んだ。記憶の中で何度も繰り返し夢に見たあの日と、寸分違わない。


僕は手の中のデバイスを見下ろし、思わず息を呑んだ。信じられない。過去に戻るなんて、現実的にはありえないことだと思っていたのに、本当に目の前にあるのは、十数年前の僕の家族の光景だ。


「お兄ちゃん!今日は映画見に行こうね!」


由香里の元気な声が僕の耳に届く。振り返ると、そこには幼い由香里の姿があった。彼女は、僕を見上げてにっこりと笑っている。その笑顔は、僕の心に焼きついて離れなかった。まるで時を越えて、再び僕の前に現れたように、彼女は何の変わりもなくそこにいる。


僕はその場で固まってしまった。感情が溢れ出し、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。


「……由香里……」


口元から言葉が漏れるが、彼女はそれに気づかず、僕を待っているだけだった。僕は無意識のうちに彼女の頭に手を伸ばし、軽く撫でた。その瞬間、手のひらに伝わる感触が現実であることを改めて実感する。


これは夢じゃない。僕は本当に過去に戻ってきたんだ。


気を取り直して、僕は急いで周囲を見回した。事故が起きたのは、家を出てすぐの交差点。あの時、家族と一緒に歩いていた僕たちは、突然飛び出してきた車に轢かれそうになった。僕がしなければならないのは、その瞬間を変えること。それさえできれば、家族は無事でいられるはずだ。


僕は、由香里の手をそっと握りしめた。彼女は不思議そうに僕を見つめていたが、僕は黙って微笑みかけるだけだった。この手を絶対に離さない――そう心に誓いながら、家を出た。


家族で出かける道すがら、僕は常に周囲に気を配っていた。母が笑顔で僕たちに話しかけ、父はいつも通り新聞を小脇に抱えて歩いている。まさにあの日と同じ光景が繰り広げられているのだが、僕だけがその結末を知っている。


「お兄ちゃん、今日はポップコーン買ってくれる?」


由香里が無邪気に僕に問いかける。僕はうなずき、彼女の小さな手をしっかりと握りしめた。そうだ、まずは由香里を守ることが最優先だ。あの車が飛び出してくる前に、僕は何としても家族を危険から遠ざけなければならない。


そして、その瞬間はすぐに訪れた。


交差点に差し掛かった瞬間、遠くから車のエンジン音が耳に飛び込んできた。僕は思わず息を呑んだ。この音だ。この瞬間が、僕の家族を永遠に奪った。


「止まって!」


僕は声を張り上げ、家族を止めた。母が驚いて振り返り、父も怪訝そうな顔で僕を見つめる。その瞬間、視界の端にちらりと車が見えた。あの車だ――あの日僕たちを襲ったあの車が、交差点に飛び込んでくる。


僕はとっさに由香里を抱きしめ、母と父を強く引き止めた。


「危ない!」


その瞬間、車が勢いよく僕たちの目の前を通り過ぎた。わずか数センチの差で、僕たちは轢かれることなく、その場に立っていた。


胸が大きく波打つ。全身が震えている。だが、僕は確かに家族を守ったんだ。車が去り、僕たちを襲うはずだった悲劇は消え去った。事故は、回避されたんだ。


「優斗、大丈夫?」


母の声が聞こえ、僕は振り返った。彼女は驚いた表情を浮かべながらも、僕を心配そうに見つめていた。父も同じく、何が起きたのか理解できない様子で僕を見ている。由香里だけは、ただ僕の腕の中で無邪気に笑っていた。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


僕は何とか平静を保とうとしたが、胸の奥から溢れ出す感情が抑えきれなかった。涙が一筋、頬を伝った。僕は言葉にならない声で答えた。


「……よかった……本当によかった……」


家族は、無事だ。僕はついに、家族を救うことができた。過去を変えたんだ。


その後、家族と一緒に映画を観に行くことができた。何事もなかったかのように、みんなは普通の家族の日常を取り戻していた。由香里はポップコーンを頬張りながら映画に夢中になり、母と父もリラックスした様子で過ごしていた。


だが、僕の心は奇妙な違和感で満たされていた。過去を変えたことに伴う何かが、胸の奥底に重くのしかかっているような気がしてならなかった。何かが、足りない。何か大切なものが欠けているような感覚。それは、僕の中にずっとあった美咲の存在だった。


映画が終わり、帰宅すると、家族はいつものように夜を過ごし始めた。僕は自室に戻り、ベッドに横たわった。しかし、心の中に残る不安が消えることはなかった。


僕はすぐにデバイスを手に取り、確認した。美咲に連絡を取ろうとしたが、電話の履歴にも、メッセージの履歴にも、彼女の名前はどこにも見当たらなかった。


まさか、そんなはずはない。


僕は慌てて美咲の家に電話をかけた。しかし、繋がったのは知らない声だった。


「はい、川村ですが……どちら様ですか?」


「美咲……川村美咲さんは、いらっしゃいますか?」


「え?……あの、何かの間違いでは?美咲という名前の者は、うちにはいませんが……」


その瞬間、僕の心は凍りついた。まるで世界そのものが崩れ去っていくかのように、現実が僕を包み込んでいった。


美咲が、消えた。


過去を変えた代償として、彼女との未来が完全に消え去ってしまったのだ。僕は、あまりにも軽率に過去に手を伸ばした代償を払ってしまったのだ。家族を救った代わりに、最愛の人を失うという現実。


これが、過去を変えることの代償なのか。


僕はその場に崩れ落ち、呆然と天井を見つめるしかなかった。どうすれば、美咲を取り戻せるのか。どうすれば、この歪んだ現実を元に戻せるのか。


僕は部屋の床に座り込み、ただ呆然と目の前に広がる虚無を見つめていた。美咲が消えた。彼女が僕の人生から、まるで最初から存在しなかったかのように消え去ってしまったのだ。携帯の履歴にも、記憶にも、僕の心には確かに彼女の存在があるのに、この世界では彼女の痕跡が完全に消え失せていた。


頭の中では理解している。過去を変えたことで、未来が変わってしまったのだ。家族を救った代わりに、美咲との未来を失った。神崎が言っていた「代償」とは、これのことだったのか。だけど、それにしても、なぜ美咲が――。


考えがぐちゃぐちゃになっていく。目の前がぼやけて、頭の中に霧がかかったような感覚に襲われた。僕は美咲を取り戻さなければならない。でも、どうやって?


手の中のデバイスを握りしめた。これを使ってもう一度過去に戻れば、何とか美咲を救えるかもしれない。しかし、そう簡単な話ではないことは、痛いほど理解している。もし次に過去を変えたら、今度はどんな代償を払うことになるのだろうか?


――家族か、美咲か。


その選択を、僕は再び迫られるのだろうか。過去に干渉することで、僕が救いたいもののいずれかを失うことになる。だけど、それでも僕は何もしないでいられない。美咲をこのまま消えたままにすることなんてできないんだ。


僕は立ち上がり、ふらつく足で部屋を出た。神崎――あの男にもう一度会う必要がある。彼なら、何か手がかりを持っているはずだ。


翌日、僕は再び神崎の指定した場所へ向かった。古びたビルのエレベーターを上がり、ドアをノックすると、前回と同じように神崎が出迎えた。彼は冷静な表情で僕を迎え入れ、無言で部屋の中へ通した。


「どうやら、過去を変えることに成功したようだな。」


神崎はそう言いながら、机に腰掛けた。彼の表情は何も感情を表していない。まるで、ただの観察者としてこの事態を見ているかのようだった。


「……美咲が消えた。」


僕は彼に向かってそう言い放った。声が震えていたが、どうしようもなかった。


「君が選んだ結果だ。過去を変えれば、何かが変わる。それは最初から君に伝えていたはずだ。」


神崎の言葉は冷たく突き放すようなものだった。彼はまるで、何もかもが当然の結果であるかのように話していた。


「でも、どうして美咲なんだ?なぜ彼女が消えなければならなかったんだ?」


「それが『因果』だよ、篠原君。過去を変えるということは、未来の出来事にも干渉するということだ。君が家族を救ったことで、美咲と君が出会う運命が消えてしまった。それが、この世界における新たな現実だ。」


僕は神崎の言葉に唖然とした。彼はあまりに冷静で、無機質な態度を崩さなかった。僕がどれだけ苦しんでいるかを理解しているはずなのに、まるで自分には関係ないかのように淡々と話している。


「そんな……それじゃ、もう美咲を取り戻すことはできないのか?」


その問いに、神崎はしばらく黙った。そして、ゆっくりと口を開いた。


「理論上、可能性はある。だが、それは極めてリスクの高い行為だ。過去に戻るたびに、さらに別のものを失う可能性がある。君はその覚悟があるのか?」


僕はその言葉に息を飲んだ。確かに、もう一度過去を変えれば、また新たな犠牲が生まれるかもしれない。それが僕自身の存在に関わるものだったらどうなるのか。僕は、何度も頭の中でそのリスクを考えた。


「……それでも、やるしかないんだ。」


僕は決意を固めた。神崎が言うリスクは分かっている。でも、美咲をこのまま消えたままにしておくことはできない。家族を救うことができたのなら、美咲だって救えるはずだ。そう信じたかった。


「いいだろう。だが、次に君が過去を変える時には、さらに大きな犠牲が伴うことを覚悟しろ。因果の鎖は常にバランスを保とうとする。君が手に入れるものが大きければ、その分失うものも大きくなる。」


神崎の言葉は、まるで運命を警告するかのようだったが、僕の心はすでに決まっていた。どんな代償を払っても、美咲を取り戻す。それが僕の決意だった。


「方法を教えてくれ。どうすれば美咲を取り戻せるんだ?」


神崎はしばらく僕を見つめた後、静かにうなずいた。そして、デバイスの新たな設定を始めた。彼の手際は見事で、僕にはその操作がどういう意味を持つのかまるで理解できなかったが、彼の行動には確かな自信があった。


「今度は君が美咲と初めて出会った日へ戻る。そこで、運命を再び繋ぎ直すことだ。ただし、もう一度言っておく。君がそれを成し遂げても、何かしらの代償が生じる。それを受け入れる覚悟が必要だ。」


僕は黙って頷いた。そして、手渡されたデバイスをしっかりと握りしめた。再び過去へ戻るという決断をした今、もう後戻りはできない。


「行け、篠原君。そして、自分の運命を決めるんだ。」


神崎の言葉と共に、僕はデバイスのボタンを押した。


目の前がまたしても暗転し、次に意識が戻った時、僕は美咲と初めて出会った日の光景に立っていた。周囲には昔と同じ街並みが広がっており、まるでタイムスリップしたかのように違和感がない。僕の心臓は高鳴り、汗がにじむ手でデバイスを握りしめた。


この瞬間に、すべてを取り戻さなければならない。美咲との運命を、再び繋ぎ直す必要がある。


僕は、彼女と出会ったカフェへと向かった。そこが僕たちの運命の始まりの場所だった。僕が彼女に声をかけ、そこから二人の関係が始まった。あの日のことを鮮明に覚えている。もし、もう一度やり直すことができれば、彼女と出会い直し、未来を取り戻すことができるはずだ。


カフェに到着すると、そこにはあの時と同じ美咲が座っていた。彼女は一人で本を読んでおり、僕が近づくとちらりと視線をこちらに向けた。その瞬間、胸の奥が熱くなった。彼女がここにいる。それだけで、僕は一瞬で勇気を取り戻した。


「すみません……隣、いいですか?」


僕の声に美咲は顔を上げ、柔らかい笑顔を浮かべた。それはまさに、僕が初めて見たあの美しい笑顔だった。


「どうぞ。」


その一言が、僕たちの運命を再び繋ぎ始めた瞬間だった。だが、その瞬間、何かが胸の奥にざわめいた。すべてが順調にいくわけではない――そう、神崎の言葉が頭をよぎった。


この再会が成功したとしても、僕はまた何かを失うかもしれない。その不安が一瞬頭をよぎったが、僕はそれを振り払った。今は、美咲との出会いを大切にすることが最優先だ。


再び彼女との会話が始まり、僕たちはまるで初めて会ったかのように言葉を交わし始めた。再び運命の歯車が回り始めたのを感じながら、僕は次に訪れるであろう代償に向き合う覚悟を固めた。


僕と美咲は、まるで初めて出会ったかのように会話を交わした。しかし、それは実際には「初めての出会い」ではなく、過去に戻り、運命を再び繋ぎ直すための出会いだった。僕は一つ一つの言葉を慎重に選びながら、彼女との絆をもう一度築こうとした。


カフェの中は、穏やかな音楽とコーヒーの香りが漂い、あの日と全く同じだった。それはまるで運命が再び僕たちを引き寄せようとしているかのように感じた。美咲もまた、どこか懐かしさを感じているような表情を浮かべていた。


「あなた、前にもここに来たことがある?」


美咲がふと、僕に尋ねてきた。彼女の声は柔らかく、親しみのあるものだった。それはまさに、僕が何度も聞いてきたあの声だった。


「……ああ、実は何度かね。ちょっと落ち着ける場所だから。」


僕は少し緊張しながら答えた。本当のことは言えない。彼女には、この瞬間が僕にとってどれほど重大な意味を持つのかを理解させるわけにはいかなかった。僕は美咲とのこの新しい未来を成功させるために、細心の注意を払わなければならなかった。


「なんだか、あなたとは初めて会った気がしないの。不思議ね。」


美咲の言葉は、まるで僕たちの過去の繋がりを薄く感じ取っているかのようだった。その瞬間、胸の奥に暖かいものが広がった。僕たちはきっと再び出会うべくして出会ったのだ。


「僕も……そう思うよ。」


僕は微笑んだ。彼女もまた、微笑んでくれた。その笑顔は、何もかもが元通りになったかのような錯覚を抱かせた。


しかし、その安心感は長くは続かなかった。


数日後、僕たちは順調に距離を縮めていた。過去の出会いがなかったはずのこの新しい時間の中で、僕と美咲は再びお互いを知り合い、親密な関係を築き始めた。あの日と同じように、二人で食事をし、映画を観に行き、そして夜遅くまで話し込んだ。彼女と過ごす時間は、まるで以前のように幸せだった。全てが完璧に思えた。


だが、ある夜、奇妙なことが起こった。


その日、僕は美咲とデートの帰り道で別れた後、家に帰ってきた。何もかも順調に見えた。しかし、家に入ると、ふとした違和感が胸に広がった。玄関に置いてある母の靴が見当たらなかったのだ。


「……母さん?」


僕はリビングに足を踏み入れたが、そこにも母の姿はなかった。いつもいるはずの場所に、彼女はいなかった。家族全員が無事だったはずなのに、まるで母がこの家から消えてしまったかのようだった。


慌てて父に尋ねると、彼はただ首をかしげた。


「優斗、どうしたんだ?母さんは最初からいなかっただろう?」


その言葉に、僕は凍りついた。父はまるで、母の存在そのものを知らないかのように振る舞っていた。まるで彼女が、この家に、僕たちの家族に最初からいなかったかのように話している。


「いや、そんなはずはない……母さんは、ずっとここに……」


僕の言葉は宙に浮いたままだった。父の記憶から母が完全に消え去っているのだ。そして、それは単に父だけの記憶の問題ではなかった。この世界自体が、母の存在を失っていたのだ。


僕は全身が震え始めた。過去に戻り、美咲を取り戻すことができた代わりに、今度は母が消えてしまったのだ。神崎が言っていた「代償」とはこれのことだった。僕は一つの未来を取り戻すために、また別の大切な存在を失ってしまったのだ。


その夜、再び神崎のところへ向かった。頭の中は混乱していて、感情がぐちゃぐちゃに渦巻いていた。母を取り戻すにはどうすればいいのか。美咲との未来は守りたい。けれど、今度は母を失うなんて耐えられない。


神崎は僕がやってくることを予期していたかのように、静かに部屋で待っていた。


「やはり、君は来たな。」


彼は冷静に僕を見つめながらそう言った。その無感情な態度に、僕の苛立ちは募った。


「どうして、今度は母が消えたんだ?これは一体どういうことなんだ!」


僕は感情を抑えきれずに声を荒げた。神崎はただ静かに僕を見つめ、ため息をついた。


「君は因果の鎖を何度も壊そうとしている。それには必ず代償が伴う。過去を変えることは、簡単な行為ではない。君が美咲を取り戻したことで、新たなバランスが崩れた。その結果、母親が消えたのだ。」


「そんな……じゃあ、どうすればいいんだ?僕は母も、美咲も、どちらも失いたくない!」


僕の声は震えていた。神崎の言葉がどれほど残酷であるかを、僕は身をもって実感していた。


「選択肢は二つだ。一つは、過去を全て元に戻し、何も変えなかったことにすること。そうすれば、家族も、美咲も、すべてが元通りになるだろう。ただし、その場合、君は美咲と出会わなかったことになるだろう。」


神崎の言葉に僕は息を呑んだ。それは、結局のところ美咲との未来を完全に諦めるということだった。


「もう一つの選択肢は、さらに過去に戻り、新たな犠牲を覚悟して運命を繋ぎ直すことだ。しかし、そのリスクは計り知れない。何が起こるか、もはや誰にも予測はつかない。」


僕は神崎の言葉を聞きながら、頭の中でその選択肢を何度も反芻した。どちらを選んでも、何か大切なものを失うことになる。どちらも犠牲を伴う選択だ。


「……どうすればいいんだ……」


僕はうなだれ、目の前が暗くなった。どちらの選択肢も、僕にはあまりに過酷すぎた。


「君が決めるんだ、篠原君。運命は常に選択と犠牲の上に成り立っている。君が何を守りたいのか、それが重要だ。」


神崎の言葉は冷たく響いたが、その中に微かな共感が感じられた。彼もまた、かつて何かを選択し、何かを失ったのだろうか。


僕は静かに立ち上がり、再びデバイスを手に取った。今度こそ、最終的な決断をしなければならない。


「……僕は、もう一度過去に戻る。」


神崎は一瞬だけ表情を動かし、そしてゆっくりと頷いた。


「そうか。では、最後の旅立ちだ。」


デバイスを再び手にした僕は、覚悟を決めた。これが最後のチャンスだ。母も美咲も、どちらも守るために、過去へと戻る。


僕はデバイスのボタンを押した。


目の前が暗転し、再び過去に降り立った僕は、全てを取り戻すための最後の旅を始めることになった。しかし、その選択の代償が、さらに大きな波乱を巻き起こすことを、まだこの時の僕は知らなかった。


再び目の前が明るさを取り戻したとき、僕はあの日の朝に戻っていた。家族全員が無事に家を出て、いつものように歩いている。冷たい冬の風が頬に触れる感覚も、太陽が昇り始めたばかりの青白い空も、何もかもが同じだ。しかし、僕の心の中は完全に違っていた。母も美咲も、誰一人失わずに済む道を選ぶための「最後のチャンス」が、目の前にあるのだ。


家族が安全に過ごせるように、僕は過去の自分よりも一歩先を読みながら行動する。事故の起こる交差点に差し掛かる直前、僕は注意深く周囲を見回した。あの日、突如として現れた車の存在を忘れることはない。家族を危険から遠ざけるために、僕は彼らを強引に引き留めた。


「止まって!危ない!」


声を荒げた瞬間、母が驚いた表情で僕を見つめた。


「優斗、どうしたの?」


母の問いに答える余裕はない。あの日の事故を回避するために、僕は彼女たちを押しとどめ、視界の端に現れる車を確認する。そしてその瞬間、車が目の前を高速で駆け抜けていった。家族は無事だった。


再び、僕は家族を救うことができた。しかし、これで終わりではない。この未来を確実に守るために、美咲との運命を繋ぎ直さなければならない。もう一度、美咲と出会う日へと向かうべく、僕は心の中で準備を整えていた。


美咲との出会いを再び確実にするため、僕は過去の出会いの場所であるカフェへと向かった。そこに彼女がいることは確信している。前回と同じように、僕たちは再び運命を紡ぎ直さなければならない。


カフェに到着すると、やはり彼女は座っていた。目の前の光景は、僕が何度も思い描いたものとまったく同じだった。しかし、今回は何かが違う。美咲を守るための決意は変わらないものの、心の中に何か奇妙な感覚が広がっていた。


「こんにちは……またお会いしましたね。」


僕は少し緊張しながら彼女に声をかけた。彼女は再び微笑み、柔らかく答えた。


「ええ、こんにちは。偶然ですね。」


そう言って微笑む美咲の笑顔は、何度も僕が見てきた彼女の表情と変わらない。僕たちは運命的に再び出会ったかのように話を始めたが、心の中には神崎の警告がずっと引っかかっていた。何かが起きる。何かをまた失うことになるかもしれないという不安が、僕の胸を締め付けていた。


美咲との会話は次第に弾み、僕たちは再び親密な関係を築き始めていた。過去に何があったかを忘れ、今この瞬間を楽しむべきだと思いながらも、僕の心の中には疑念と恐怖が混じり合っていた。


数日後、すべてが順調に進んでいるかのように見えた。僕と美咲は再び親しくなり、まるで過去の時間を取り戻すかのように穏やかな日々が続いた。しかし、その幸せは長くは続かなかった。


ある夜、ふと気がつくと、父の姿が見当たらなかった。いつもリビングにいるはずの父が、家の中にいない。母に尋ねても、彼女は僕を不思議そうに見つめるだけだった。


「父さんは、どこにいるの?」


僕が問うと、母は何もわからないという顔で答えた。


「優斗、何を言ってるの?父さんなんて、私たちにはいなかったじゃない。」


その瞬間、頭の中で何かが砕け散ったような感覚に襲われた。信じられない。まさか、今度は父が消えたのか?またしても、過去を変えたことで別の大切な存在を失ってしまったのだ。


僕の記憶には確かに父がいる。けれど、今の現実には彼の存在がまるで最初からなかったかのように扱われている。


「そんな、はずが……」


胸の奥が強く締め付けられるような感覚が広がり、僕は部屋を飛び出した。外は冷たい風が吹き荒れていて、まるで僕の心情を象徴しているかのようだった。


再び神崎のもとへと足を運ぶことになった。彼は、僕の選択の結果がどうなるかを初めから理解していたかのように、静かに座って待っていた。


「やはり、君は来たか。」


その声を聞いた瞬間、怒りと絶望が一気に湧き上がってきた。


「どうして父が消えたんだ!僕は美咲も家族も、全員守りたかったんだ!これじゃ、何も守れないじゃないか!」


僕は神崎に詰め寄り、感情をぶつけた。しかし、彼はただ冷静に僕の言葉を受け止めた。


「君は過去を変え続けた。結果、因果のバランスが崩れ、父親が消えた。これが、君が選んだ運命だ。どちらも守ることは、最初から不可能だった。」


神崎の言葉は冷酷だったが、否定できない真実がそこにあった。過去に干渉するたびに、僕は何か大切なものを失い続けてきた。そして、今度は父がその犠牲になったのだ。


「それじゃ、僕はどうすればいいんだ……。これ以上、何を選べばいいんだ……」


僕はその場に膝をつき、呆然と神崎を見上げた。すべてが無意味に思えた。過去を変えれば誰かが消え、僕はそのたびに大切なものを失っていく。どれだけ足掻いても、完全な未来を手に入れることはできないのか。


神崎は静かに僕を見つめ、低い声で言った。


「君が全てを守りたいのなら、もう一度選択しなければならない。しかし、その代償は計り知れないものになるかもしれない。すべてを元に戻すか、さらなる犠牲を覚悟して未来を進むか、君が決めるんだ。」


僕はその言葉に絶望しながらも、心の奥底で再び決意を固めた。


「僕は……美咲も家族も、誰も失いたくない……」


「では、最後の旅だ。」


神崎は再びデバイスを手にし、僕に手渡した。これが最後のチャンスだ。これ以上過去に干渉すれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。それでも、僕はもう一度立ち上がるしかなかった。


デバイスのボタンを押すと、目の前が暗転し、僕は再び過去へと降り立った。これが最後の旅だ。僕はすべてを取り戻すために、今度こそ何かを選び、犠牲を払うことなく未来を繋ぐための決断を迫られる。


再び目の前に現れたのは、あの日の朝。これが何度目の過去なのか、もはや分からない。すべてを救おうとして過去を変えるたびに、大切な誰かを失い続けてきた。だが、これが「最後の旅」だと神崎は言った。僕はすべてを取り戻し、もう誰も失いたくないと決意している。だが、その代償が何かも分からない。


僕の前には家族がいる。母も、父も、由香里も、みんなが元気で、そして無邪気な笑顔を浮かべている。その姿を見ていると、胸が締めつけられるような感覚に襲われる。これが、本当の幸せなのか。僕は何度もこの光景を取り戻そうとして、何度も失敗した。今度こそ、すべてを守りたい。


しかし、もう一つ忘れてはいけないものがある。美咲だ。彼女もまた、僕にとってかけがえのない存在。今度こそ、美咲と家族の両方を守る。それが僕の最後の願いだ。


「お兄ちゃん、行こう!」


由香里が僕の袖を引っ張る。その手の温かさに、一瞬心が和むが、気を緩めるわけにはいかない。すべての出来事がまるで、予め決められた運命の通りに進んでいるように感じた。


僕はゆっくりと深呼吸し、家族とともに家を出た。あの事故を防ぐため、僕は既に次の展開を知っている。車が突如として交差点に現れるその瞬間、僕はすでに行動に移っていた。


「気を付けて!」


僕は家族を強く引き寄せ、何とか車から守ることに成功した。再び家族を救った。その瞬間、何かが胸に込み上げてきた。安堵感か、それとも恐怖か。過去を何度も変えた代償が今度は何を奪うのか、まだ分からない。


家族が無事に戻ったのを確認し、僕は急いで次のステップへと進んだ。カフェで美咲に出会わなければならない。そこが僕と彼女が再び繋がる運命の場所だ。


カフェに到着すると、やはり彼女はそこにいた。静かに本を読みながら、僕が近づくのを待っているかのように見えた。あの笑顔、あの仕草、すべてが懐かしい。そして、もう一度運命を繋ぎ直すために、僕は彼女に声をかけた。


「こんにちは……」


「こんにちは、またお会いしましたね。」


彼女が微笑んでくれる。その笑顔は僕にとって、何よりも大切なものだ。美咲との会話が進み、僕たちは再び心を通わせ始めた。しかし、心の奥底にある不安は、どうしても消えなかった。


数日が経ち、僕たちは再び親密になった。何もかもが順調に進んでいるかのように見えた。しかし、その平穏は突然崩れ去った。


ある夜、再び家に帰ると、家の中が不自然に静かだった。玄関に入ると、今度は由香里の姿がなかった。家族と一緒に過ごしていたはずの妹が、家のどこを探しても見当たらない。


「由香里はどこだ?」


僕は母に尋ねたが、母は不思議そうに首をかしげた。


「由香里?誰のことかしら?」


その言葉を聞いた瞬間、またしても胸が凍りついた。今度は、由香里が消えた。家族の中で、妹の存在そのものが消えてしまったのだ。


まさか、またか。過去を変えるたびに、次々と何かが失われていく。美咲を取り戻した代償として、今度は妹が消えたのだ。もう、これ以上何をすればいいのか分からなかった。すべてが崩壊していく感覚に襲われ、僕は震えながら座り込んだ。


「これ以上、何をすればいいんだ……」


その夜、再び神崎のもとを訪ねた。彼はいつも通り冷静な表情で僕を迎えたが、その態度が僕の怒りを引き起こした。


「神崎!どうして、今度は由香里が消えたんだ!もう、何もかも無茶苦茶だ!」


神崎は僕の怒りを冷静に受け止め、ため息をついた。


「君が過去を変えるたびに、運命の糸が絡まり、さらに複雑になる。それが因果というものだ。すべてを救うことはできない。それを理解するべきだ。」


「でも……僕は美咲も、家族も、みんなを守りたかったんだ!」


僕は叫んだ。しかし、その言葉が虚しく響くだけだった。神崎の冷静な態度に、怒りや悲しみが混ざり合い、どうしようもない絶望感が広がった。


「君はすでに何度も過去を変え、何かを失い続けてきた。これ以上、過去に干渉することはできない。すべてを元に戻すか、このまま受け入れるか。君にはもう、二つの選択肢しか残されていない。」


神崎の言葉が、僕の胸に重くのしかかった。すべてを元に戻せば、家族も美咲も、誰も失わない。しかし、それは同時に、美咲との未来を諦めることを意味している。そして、このまま過去を変え続ければ、さらなる犠牲が生じる。僕はどちらを選んでも、誰かを傷つけ、何かを失うことになる。


「どうすれば……どうすればいいんだ……」


僕は膝をついて、頭を抱えた。涙がこぼれ落ち、視界が滲む。すべてを失いたくない。家族も、美咲も、誰も失いたくないのに。


神崎は静かに立ち上がり、僕の前にデバイスを差し出した。


「君が最終的に選ぶべきは、君自身だ。運命は常に選択の上に成り立つ。誰かを救えば、誰かを失う。それが君の選ぶ道だ。」


僕はデバイスを見つめた。これが本当に、最後の選択だ。


僕は、最後の一歩を決めた。


「……すべてを元に戻す。」


その言葉を口にするのは、思った以上に辛かった。けれど、これ以上誰かを失うことはできない。僕は家族を守るために、美咲との未来を諦めることを選んだ。


神崎は静かに頷き、デバイスの設定を行った。これが、最後の旅だ。僕はすべてを元に戻し、過去の改変を無かったことにする。そして、最初の状態に戻ることを決意した。


デバイスのボタンを押すと、世界が再び暗転し、意識が遠のいていく。


目を開けると、僕は再びあの日の朝に立っていた。今度こそ、何も変わっていない世界だ。家族はみんな元気で、事故も起こらず、平穏な日々が続いている。そして、美咲との出会いも、全てが消えた。


僕はすべてを元に戻した。それが、僕の選んだ運命だ。


過去を変えることはできたかもしれないが、未来を変えることはできなかった。けれど、これでよかったのだろう。


僕は家族とともに、新しい未来を歩んでいく。その未来の中には美咲はいない。だけど、彼女との思い出は僕の心の中に永遠に残っている。


すべてが元に戻り、僕は日常を取り戻した。家族との時間は幸せで満ちていた。だが、美咲との思い出は、僕の心の中で消えない傷跡として残り続けている。


過去を変えることの代償は、あまりにも大きかった。だが、僕は最後に家族を守り抜いた。それだけが、僕の心の支えとなっていた。


そして、運命が再び僕を試すことがあれば、その時こそ、僕はもっと強く生きていけるだろう。


すべてを取り戻した日々の中で、僕は新たな未来を歩き始めた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る