第二十八話「春児様と誠」

「春児はここへ来たのは初めてなのか?」


「いや、小学校の頃一度だけ課外授業で来たことがあるんだ……。あまり楽しくはなかったけどね」


「? どうしてだ?」


「私は桜花家の次期当主だからね。お父様や家の名を汚さないためにも、みっともなくはしゃぐようなことはできなかったんだ。本当は楽しくて仕方なかったのに、自分でも笑ってしまうくらいおすまししていたよ。それを分かってくれていたのは、春太郎だけだったね……」


 そんな春児の愁いを帯びた表情に誠はぐっと心が動かされ、なにか言葉にできない、感じ入る、こみ上げる感情が起こった。だから、春児と握っている手に痛くないくらいに力を込めて、その手を引いた。


「ほら、そろそろイルカのショーが始まるらしいぜ、言ってみようぜ!」

「あっ、こっ、こらっ」


 今度は誠が春児の手を引いて、イルカのショーの会場へと足を進めた。


「わぁっ! すごいっ! すごいぞ誠っ! イルカが輪をくぐってるぞ!!」


 春児はイルカショーに大層喜んでいる様子で、握っている手に無意識に力が入り、空いている左手でショーのイルカたちを指差しながら声をあげていた。


 常にクールで表情を崩すことのない春児は学園では、冷たい美人、彫像の美女、などと形容されており、誠もそのように感じていたが、今目の前で子共のようにはしゃぎ無邪気な笑顔を見せている春児は、冷たくも彫像のようでもない。ただの可愛らしい女の子だと感じ入り、同時にそれだけ自分に心を許してくれていることを嬉しく思った。


 一島民である自分と島の主、支配者とも言える桜花家の一人娘であり、次期桜花家当主である春児の恋路など端からありえないと思っていた誠であったが、そんなことは関係なく、桜花春児という人物を、ただの一人の可愛らしい女の子なのだと、深く意識したのだった。


 同時刻・桜屋敷・ガゼボ――


「ほんと、春太郎さんはなんでもできますよね」


 屋敷から持ってきた古琴で流水を奏でている春太郎を見ながら、ころねがそう言った。


「ありがとうころねちゃん。でもそんなことないよ。ボクはできないことばかりさ。それで自分がイヤになるくらい」


「それは春太郎さんが完璧を求めすぎているだけです。春太郎さんほど万能な人がそんなことを言ったら、普通の人なら嫌味だと思われますよ」


「そうかもしれないね。だけど、気心の知れたころねちゃんだからこそ本音が言えるんだよ」 


「……そう言われると悪い気はしないです」


 ころねは頬を赤らめて玉露をすすった。


「ころねちゃんの言うとおり、ボクは完璧を求めてるんだ。なにせ、ボクのご主人様は完璧な人だから」


「春児さんもまた人です。確かにすごい人ですけど、けして完璧ではないですよ」


「そうだね。人間は完璧になんてなれないよ。どこまでいっても、三分の三だよ。限りなく一に近くても、一にはなれないから」


 三分の一は0.3333……、つまり三分の三も1ではなく、0.9999……限りなく1に近い1ではない全く別のものだと、少なくとも春太郎はそう思っていた。


「春太郎さん、その言葉好きですよね。昔からよく言います」


「そうかも。わかりやすくて好きなんだ」


「なら、春児さんも1じゃないと分かってるんですか?」


「もちろんだよ」


 そう返事はしながらも、ニコニコと古琴を奏でる春太郎は、絶対に春児を1と、完璧な存在と思っているのだろうなと思いながら、ころねは桜餅を口にした。


 水族館――


 イルカのショーも見終わり、辺りがセピア色に染められていく黄昏時、春児と誠は海上展望台へと足を進めていた。展望台といっても高い場所にあるわけではなく、周囲に遮蔽物のない平らな場所に、手すりと望遠鏡が設置され、そこからどこまでも続く水平線が見渡せるという場所だった。


 今は周囲に人もなく、海上展望台は春児と誠の二人きりであった。


「今日はとっても楽しかったよ誠。ありがとう」


 春児は望遠鏡に背を向けて、誠の正面に立ち、笑顔を浮かべた。セピア色の世界で、茜色の夕陽と、それをキラキラと反射させる海を背にした春児は、そしてその笑顔は、言葉にできないほど美しかった。美しいと誠は思った。


「ああ、俺も楽しかった。春児の意外な一面も見れたしな」


 そう言って少しからかうように笑った誠に、春児は切れ長の睫毛の長い瞳を細めて、唇の端を少しだけ上げるような微笑を返す。


「誠、私をからかうには、まだまだ早いよ――」


 そう告げた春児の顔は、先ほどまでの子供のようなものでなく、妖艶と言っても過言ではないほどに艶やかで、歳不相応なほどに大人びていて、肌が粟立つような色気があった。誠はまた違った春児の一面に魅せられ、ドキリと胸が高鳴った。


 春児はそのまま自分に魅入られて動けないでいる誠へと足を進め、その両腕を誠の首の後ろへ回した。


「はっ……春児……」


 蛇に睨まれた蛙のように動けないでいる誠に春児は顔を近づけ――


「チュッ――」


 その頬に口付けをした――


「春児……?」


「これは、親愛の証だよ……。今はまだ、ね?」


「…………」


 このとき、誠は完全に心を射抜かれた。


 そう宣言して、誠の瞳を真っ直ぐに見つめながら、春児は腕をゆっくり離した。


「誠、今日は楽しかったよ。ありがとう。また学校で会おう――」


 春児は動けないでいる誠を残して、その場を後にした。


 誠には見えていなかったが、春児は顔だけでなく耳や首まで、今までにないほど赤くなっていたのだった。

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