第七話「朝の春児様」

 朝――


「ううん……」


 結局ほとんど眠ることができなかった。

 不安と恐怖の夜を過ごし、差し込んだ朝日に少しだけ安堵を覚える。


「大丈夫……まだ生きてる……。元気だ……」


 自分に言い聞かせて何度か深呼吸して起床し、執事服に着替え、顔を洗い、身だしなみを整え、八時五分前に春児様のお部屋へと向かった。


 旦那様のお言い付けで、春児様は祝日・正月・盆休み以外、平日は六時、休日は八時までに起きる決まりとなっていらっしゃるのだ。


 コンコンコンコン――


「春児様、朝ですよ。起きていらっしゃいますか?」


「うーん……」


「入ってもよろしいですか?」


「うーん……」


 春児様は朝にお弱い。ボクはその返事とも唸り声ともとれるお声を聞いて部屋の扉を開けて中へ入った。


 大きな天蓋付きのベッドの中で春子様は天使のような寝顔を浮かべてお休みになられていた。


 ずっと眺めていたくなるほど愛らしい寝顔に、この瞬間が永遠に続けばいいのにと強く思う。


「春児様、朝ですよ。起きてください」


「う~ん、今日は日曜なんだよ? あと五分……いや……あと三時間は寝かせておくれ……」


「残念ならがそういうワケにはまいりません。旦那様のお言い付けですから」


「むぅ~仕方ない……。起きるとしよう……」


 上半身を起こされた春児様は寝ぼけ眼で宙を見ていらっしゃる。


「おはようございます春児様」

「おはよう……はるた……うーん……」


 パタリとベッドへ倒れる春児様。


「春児様、朝でございます」


「まだ朝じゃない……」


「もう八時です」


「夜の……?」


「朝のです」


「ふぅむ……」


 しばらくして、春児様がしっかりとお目覚めになられる。


「春太郎、髪をいてくれ」

「かしこまりました」


 起きあがり、鏡台の前に座った児様の美しい黒髪を櫛で梳く。

 流れるようにサラサラと、それでいて潤いとハリがある。


「…………」


 やっぱり春児様はすごい。こうしているだけで、永遠に想えた夜の不安も恐怖も一瞬で消えてしまった。


「春太郎……?」

「……はい?」


 少し呆けていたボクはそのお声でハッとする。


「どうしたんだい? なんだか心ここにあらずのように見えるけど?」


 鏡台に写る春児様の心配そうな瞳と目が合う。


「逆です春児様。春児様の素晴らしさを改めて思い知っていたのです」 


「ふふっ、なんだいそれは? 私を褒めてもなにもでないよ?」


「春児様は存在されているだけで奇跡のような存在なのです。お側にはべることができることは人として最高の栄誉。これ以上なにを求めましょう?」


「あははっ、今日の春太郎はいつにもましてあついね」


「そうかもしれません」


 髪を梳き終え先に部屋を出、寝巻きから私服へとお着替えになられた春児様と共に食堂へ向かう。


「そういえば春太郎、昨日のお父様の話はなんだったんだい? なにやら凄い剣幕だったけれど……」


 春児様は朝食を摂られながら、さも今そのことを思い出されたように、何気なさを装ってお尋ねになられた。


「はい。実は旦那様が島の会合で泉水先生と会われたそうで、そのときボクの病気についてお話をお聞きになり、それでご心配なさってくださったのです」


「ああ……。なるほど、そういうことか」


 ボクが笑顔を浮かべると春児様はホッとしたように緊張していた表情を緩められた。


「お父様は病気に対して敏感だからね。そういうことだったのかい……安心したよ」


 春児様は人の顔色や心を読むことに長けていらっしゃるが、ことボクに関してはそれが働かないのだ。


  自分で言うのもおこがましいが、春児様は心からボクを信頼してくださっている。


 だから普通ならバレてしまうような嘘でも、ボクが言えば春児様は信じてしまわれるのだ。


 その後春児はご機嫌なご様子で朝食を召し上がられ、ボクの言葉を信じて安心されている笑顔に心が痛んだ。



「さて、と……」


「春児様、本日はいかがなされますか?」


「うん? 特に用事もないから、部屋か外で読書でもしようかと思っているよ」


 ボクはここだと思って春児様の正面に立つ。


「? どうしたんだい春太郎?」


「春児様、実はこの春太郎、春児様にお願いしたいことがございます」


「なに? 春太郎からお願いなんて珍しいね。いや、初めてじゃないかい?」


「そうかもしれません」


「言ってくれ。春太郎は私にとってかけがえのない存在だからね。私にできることならなんでもしてあげるよ」


 そう優しく微笑んでくださった。


「では……非常に僭越なのですが、秘密のお願いになりますので、できれば二人きりになれる場所でお聞きしていただきたく……」


「わかったよ、なら私の部屋へ行こう」


「ありがとうございます春児様」


 春児様のお部屋へと入り、椅子に座って二人向き合う。


「じゃぁ、言ってみてくれ、春太郎のお願いはなんだい?」


「っ……ボクに……」


 この言葉を発するのは、想像以上に重かった。


 決したはずの意をさらに決して椅子から降り、方膝をついて口を開く。


「ボクに、春児様の恋を応援させてくださいっ!」


「なっ……」


 その言葉を聞いた瞬間、春児様のお顔がボッと紅潮する。


「ななな、なにを言ってるんだい春太郎、わわわ、私の恋? な、なんのことかな?」


「春児様、この春太郎、こと春児様に関しましては、春児様以上に春児様のことを存じ上げてございます。誠が……好きなのですよね?」


「…………」


 春児様は頭から煙が出そうなほど耳から首元まで真っ赤になって俯いてしまわれた。


「今日はどうしたんだい春太郎? そんな冗談を言うなんてらしくないじゃないかい」


「春児様、この春太郎、冗談で言っているのではございません。真剣なのです――」


 ジッと切り揃えられた前髪から覗く美しい青い瞳を見つめる。


「う……うん……」


 観念されたように、そう、消え入りそうな声で、けれどもはっきり肯定なされた。


「ボクに、その恋を応援させてくださいっ」


「なっ、なんで春太郎は私の恋を応援してくれる気になったんだい?」


 左手で赤くなった顔を隠されながらそうおっしゃった。

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