第六話「旦那様」

「春児様……」


 そのお優しさに涙がこぼれそうになる。


「春児……言葉足らずな私も悪いが、なにか勘違いしているようだね。私は春太郎を怒るつもりも罰するつもりもないんだ。春太郎はなにも悪いことなんかしていなんだからね。だから心配せずに部屋に戻っていなさい」


「でっ、ですが……」


「ちょっと大事な話があるんだ。もちろん、怒るつもりじゃない。むしろその逆さ。だから心配するな春児。母さんに誓おう」


「わ……わかりました……」


 旦那様の奥様であり、春児様のお母様である咲季さき様はボクがまだこのお屋敷に来る前に、病気で夭折ようせつされている。


 そのためボクは写真でしかそのお姿を知らないが、春児様に似たとてもお美しいお方だ。


 旦那様は今でも咲季様を愛されており、度々勧められる後添のちぞえの話を聞くことすらイヤだと全てお断りになられている。


 旦那様が奥様にかけて誓うときは、なにがあっても絶対に嘘をつかないというとこなのだ。それをご理解されている春児様はまだ不安そうになされながらも自室へと戻って行かれた。


「瀬田、今から春太郎と大事な話がある。ないとは思うが、誰も、特に春児を絶対に部屋に近づけないでくれ」


「かしこまりました」


 腕を引かれながら書斎へ入ると、旦那様は振り向いてボクをご覧になった。


 四十代とは思えないほどお若く見えるその甘く凛々しいお顔には、暗い影がさし、その瞳はボクが今まで見てきた中で一番悲しい色をしていた。


「泉水から聞いたよ……」


「はい……」


「春太郎……っ」


 旦那様はボクを抱きしめてくださった。


「旦那様……っ」


 力強い抱擁に心が震え、涙がこぼれる。


「……どうしてっ……どうして春太郎が……っ!」


「旦那様……仕方ありません……っ。これが……これが運命なのです……っ」


「どうして、どうして延命治療しない春太郎……っ? 金のことなら心配するな! いくらだって出す! この島の機材じゃダメなら本土だって海外だって、いくら出してもいいっ! 最高の機関で最高の治療を受けさせよう……っ!」


「旦那様っ……ありがとうございます……っ。そう言っていただけるだけで……っ、春太郎は世界一の幸せ者ですっ……!」


 旦那様のお優しさに涙が止まらなかった。こうして引き取っていただいたこと、今まで衣食住に不自由することなく育てていただいたこと、学校に通わせていただいたこと、お給金をいただけていること、そしてなによりも春児様の従者にしていただいたこと。


 旦那様には数え切れないご恩しかないのに、旦那様はさらにそうおっしゃってくだ

さる。ボクはなんて幸せ者なんだろう――


「旦那様……っ。旦那様になにも恩返しできずに逝く、この春太郎をお許しください……っ」


「バカなことを言うんじゃないっ。お前は血は繋がっていなくとも、私の息子だ……!」


 その上にこのようなことまで言っていただけるボクは、世界で一番の幸せ者だ。そう思うと涙が止まらない。


「旦那様……っ」


「こんな時にまで人のことばかり心配して……っ」


 ボクは涙を流し続け、旦那様はボクが落ち着つくまで待ってくださった。


「……座りなさい春太郎」

「はい……」


 向かい合わせに座る。


「……本当に、延命治療は受けないんだね?」


「はい旦那様」


 しっかりと旦那様の瞳を見つめてお答えする。


「それは……私に経済的負担や、そういった諸々の迷惑を考えて、受けないと決めたわけじゃないんだね?」


「……はい。こう言ってしまうと、旦那様のご好意を当たり前だと思っているような、厚顔無恥な人間だと思われてしまうかもしれませんが、この春太郎、正直にお話しします」


 しっかりと旦那様を見つめ、本心を打ち明ける。


「ボクは、春児様にお仕えすること、そして、春児様の笑顔を見ることが生きる意味なのです。それは、なににも代え難いほどに……例え、自分の寿命よりも。です」


「春太郎……」


「たしかに延命治療を受ければ、多少は長く生きることができるかもしれません。ですが、そうなるとボクは春児様にお仕えすることができなくなり、そしてなによりも、ボクの病気を知った春児様は……自惚れかもしれませんが……きっと、悲しんでしまわれます……。その笑顔が見られなくなってしまいます……。ボクには……それは、自身の死よりも堪えがたいことなのです……」


 旦那様は組んだ両手に力を込めてボクをご覧になった。


「春太郎の望みは、病気を隠したまま、春児と共に生き、そして……運命を受け入れる……。それで……いいんだね?」


「はい、旦那様――」


 真っ直ぐに力強く頷いた。


「わかった……それが春太郎の望みなら、そうしよう……」


「ありがとうございます旦那様」


「本当なら縄で縛って無理矢理強制入院させたいんだが……春太郎は一度決めたらやり通す子だからね……」


「申し訳ございません……」


「それに……そんなことをしたら、春太郎の心が死んでしまうね……」


 旦那様は力なく俯いてしまわれた。


「どうして……春太郎のような若者がこんなことに? なぜ私のような人間が生き長らえるんだ……?」


「旦那様……そのような悲しいことをおっしゃらないでください。ボクは、旦那様や春児様には、ご健勝でご多幸で、一秒でも長く生きて欲しいと思っているのです」


「……辛くなったらすぐ私に言いなさい……。それと春太郎の病気のことだが、瀬田にだけは話しておく……。それに、延命治療を受ける気になったのなら、すぐに言うんだ。いいね?」


「はい。全て旦那様にお任せします」


「春太郎……」


 旦那様はボクの両手を握ってくださった。


「咲季のときにも思ったが……運命は……病気は残酷だ……。身代わりになってやれないから……」


「旦那様……」


 握られた両手から、旦那様のご心痛が伝わってくる。だからボクは申し訳なくなった。旦那様に恩返しができないどころか、そのお心を痛ませてしまったこの身の弱さに。


「それがお前の望みなら、春児には絶対に秘密にしよう……瀬田!」


 ガチャリと扉が開き、瀬田さんが姿を現した。


「聞こえていたな?」


「……はい」


「一応、一から説明する」


 旦那様は瀬田さんにボクの病気、そしてボクの余命があと二ヶ月もないこと、そしてそれに伴う不測の事態や日常生活でのフォローをすること、そしてボクの病気を誰にも秘密にすることを瀬田さんに命じられた。


 それを聞いた瀬田さんは目に涙をためて、ボクを抱きしめてくださった。


「私のような老人が長生きして……どうして春太郎さんのような、未来ある若者が命を落とさねばならないのか……」


 その夜、遅くまで旦那様や瀬田さんとこれからどうやって病気を誤魔化しつつ、日常生活を送るかを話し合った。

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