第五話「帰宅」
お屋敷へと帰ってきた。
山間部にある旧岩崎邸を模して建てられた擬洋風建築の趣ある豪邸で、ガゼボや噴水のある広い庭には四季折々の花や、なにより数多くの桜が植えられており、島民たちからは桜屋敷と呼ばれている。
すぐにお屋敷の中へは入らず、庭にある桜の木々の中で一番太く大きい大桜の前に立った。
この大桜の下で、ボクは春児様と出会ったんだ――
孤児院から引き取っていただき、旦那様に手を引かれてこのお屋敷に足を踏み入れたのは、よく晴れた春の日だった。
春児様はこの大桜の前に立っていらっしゃった。
『春児、この子が今日からこの屋敷で暮らすことになった、お前の従者となる子だ』
旦那様がそうボクを紹介してくださり、春児様は泣きじゃくるボクにこうおっしゃったんだ。
『そんな顔をするな春太郎。私がお前を幸せにしてやる』と――
春児様はお母様を亡くされてからそれほど日が経っていない時だったというのに、それでも暗い顔をしていたボクを励まし、元気付けてくださった。
その時からボクは、一生この人に尽くそうと決めたんだ。
「けど……もう、その一生も……あと二ヶ月なんだって……大桜さん――」
思い出を振り返りながら大桜に手を当てて呟き、玄関へと向かった。
「春児様、ただいま戻りました」
赤絨毯の敷かれた飴色の建材やシャンデリアが光る屋敷へ上がると、夕食時ということもあって、春児様は食堂の席で読書をなされていた。
「ああ、お帰り春太郎。ずいぶんと遅かったじゃないか? 結果はどうだったんだい?」
読んでいた本をパタリと閉じられると、顔を上げてボクをご覧になった。
春児様は愛らしいお茶目な一面を見せられることもあるが、基本的に感覚が鋭く、深い洞察力があり、人の顔色や心を読むことに長けていらっしゃる。
そのため、春児様の前では大抵の人間の嘘などすぐに見抜かれてしまうのだ。
だからボクは、自身の病を絶対に春児様に悟らせないようにするために、お仕えしてから初めて春児様に嘘をつくこと、そしてその嘘を終生つき通すことを覚悟し、口を開いた。
「はい……。実は泉水先生によると、甲状腺の病気と、それに伴う貧血とのことでした……」
「なに? それは大丈夫なのかい?」
「ああ、春児様、どうかお座りになられたままで、今ボクがそちらへ参りますから」
心配に目を見張って驚かれ、立ち上がりかけた春児様を宥めボクは定位置であるその後ろへと立った。
「辛いなら座ってもいいんだよ?」
「ありがとうございます春児様。ですが辛くはありません。ボクは春児様のお側にいると、どんな苦痛も苦悩も立ち所に消えてしまうのです」
嘘偽りのない本心だった。ボクは春児様のお側にいられるだけで、どんな辛いことも苦しいことも忘れ、幸せな心地に包まれる。
「はいはい。それはいいから。その病気は日常生活に支障がでるほどなのかい?」
春児様は顔をお上げになって後ろに立っているボクを見上げられた。首が少し傾げられていたため、傾くほうに艶めく黒髪がさらさらと落ちて、あらわになった陶器のような白いうなじがとてもお美しい。
「いえ、いつもどおりに生活しても問題ないとのことです。ただ、体育の授業等は休んだほうがいいとのことで、しばらくは見学させていただく予定です」
「そうか……辛くなったらすぐに言うんだよ? 春太郎はいつも我慢ばかりするからね……」
「はい。ありがとうございます春児様。そのお言葉だけで、ボクは元気いっぱいですっ」
「ならいいのだけど……」
夕食が運ばれてくるまで、春児様はずっと不安そうにボクを見つめられていた。
「春太郎、今日からは一緒に食べよう」
夕食を前に春児様がボクをご覧になってそうおっしゃった。
「いえ春児様、それはいけません。ボクは春児様の従者なのですから」
「むぅ……ならお父様にも頼んでおこう」
「そうしてむくれる春児様も素敵で愛らしいです」
「まったく……仕方のないやつだね……」
不満げにされながらも夕食を終えた春児様は、最後までボクの心配をされながらご自室へと戻って行かれた。
旦那様は島の会合があるためまだお帰りになられていない。
旦那様が入浴されていないのに、使用人であるボクが先にお風呂へ入ることはしたくないので、部屋に戻ったボクは学園の制服から執事服に着替えて、椅子に腰掛けた。
泉水先生は旦那様にはボクの病気のことを伝える義務がある。とおっしゃっていたので、旦那様にこの想いをどうお伝えすればいいのかを机に向かいながら、ジッと考える。
「素直にお話ししよう……。嘘隠しなく……ボクの本心を……」
そう思案していると、玄関の方から旦那様をお迎えする瀬田さんと、珍しくやや怒っておられるような旦那様の声が聞こえ、ドタドタとした足音が響き――
「春太郎! 春太郎! こちらへ来なさい!」
怒鳴るような旦那様の大声が階下から響いた。
「はっ、はいっ! ただいま参ります旦那様っ!」
急いで部屋から出て階段へ向かうと、ボクより頭一つ大きな長身に、コートを羽織られたままの旦那様が、その端正な甘い顔立ちを苦しげに歪められ、なんと形容したらいいのか分からないような、この十一年間お仕えする中で初めて見るような表情をしていらっしゃった。
その後ろで家令の瀬田さんが心配そうに旦那様の後に続き、階段を駆け上られるた旦那様はボクの腕をお掴みになった。
「私の部屋に来なさいっ!」
「はっ……はいっ!」
「お父様、どうされたのです……?」
いつも温厚で冷静な旦那様の異常ともいえるような行動に、春児様はお部屋を出られて、ボクの腕を掴んで剣呑な表情を浮かべられている旦那様を見て驚かれていた。
「はっ、春太郎がなにかしたのですかっ?」
「……春児、部屋に戻っていなさい」
「いえっ、もし春太郎がお父様を怒らすようなことをしたのなら、それは主人である私の過失ですっ。ですので、どうか春太郎だけを罰することのないようにお願いしますっ!」
そうおっしゃり、普段絶対に旦那様に逆らわない春児様が、通路を塞ぐようにお立ちになられた。
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