第三話 犬が粗相
1
そもそも「平和」ってもんは、感じ方が人それぞれに違う。
例えば紛争地域に住んでる人たちからすりゃ、紛争が終わればとりあえずは「平和」なんだろう。
仮令、飢えや病気が蔓延してたとしても、紛争がない環境が当たり前になるまでは、「平和」であるに違いない。
だとしたら、多分今の俺は「平和」だ。
ルカの「犬」という仕事を始めて二ヶ月。
突然、「宇宙人を捕まえに行くぞ!」などという戯言に付き合わされる事も、あれ以来ない。
週に五日、同じ場所でボーッとしてるだけで金が貰える上に、新車のバイクまで手に入った。
平和だ。
すこぶる平和だ。
ただ、断じて「穏やか」ではない。
「おい! ハチ公!」
真後ろで寝転がって漫画の本を読んでる俺に、勉強してるルカが呼び掛けてくる。
この距離感にその音量は必要ねえだろうって感じの大声で。
しかも振り返ればすぐそこに俺はいるのに、ルカの視線はテーブルの上のノートに向けられたまま。
「おい! ハチ公!」
すぐに返事をしなかったら、更なる音量でまた呼ばれた。
「用があんなら振り返りゃいいだろうが」
面倒臭えって思いながらも体を起こしてルカの隣に座ったら、こっちを一瞥したルカに「そこにいたのか、ハチ公」と、冗談か本気か分かんねえ事言われた。
でも、こういう訳の分かんねえ感じにも、そろそろ慣れてきた。
つーか、まともに会話が出来る相手じゃないから無視するのが一番だと悟りを開いた。
――ただ。
「何か用かよ」
「何が?」
悟りは完璧じゃない。
どこから無視するか、その境界線は未だにはっきりしないまま。
お陰でイラつく事もしばしば。
チッ――と舌打ちをして元の場所に寝転がったら、またすぐに「おい! ハチ公!」と呼ばれた。
余裕で無視してたら、何度目かの「おい! ハチ公!」のあと、「ハチ公おおおお!」と叫ばれた。
鬱陶しい事この上ない。
ルカの突飛な行動に付き合わされるような事がなくて「平和」でも、突飛な発言に翻弄される「穏やかさ」が皆無な日常。
鬱陶しいって言葉以外、何て言えばいいのか分からない。
もう一度起き上がって、「何だよ」と言ったら、眉間に皺を寄せた顔を向けられた。
そして、「ウロウロするな!」と、歯をむき出して怒ってきやがった。
どうせ、「ウロウロしてねえだろ」って
座ってるルカの横。ノートを真っ直ぐ見てたとしても、俺の体の一部分くらいは視界に入るはず。
予想通りと言うべきか、それ以上ルカは何も言わなかった。
代わりに、勉強しながらチラチラと横目でこっちを見てくるから面倒臭いんだが。
最近気付いた事だけど、ルカは俺の居場所をよく確認する。
頻度は日によって違うけど、傍にいるかどうかを確かめる。
まるで犬が飼い主を探すように――なんて皮肉を言ってやりたくなるくらい。
しかもどうやらその「確認」スキルは俺にのみ発動されているらしい。
何で俺だけなのかを考えた。
もしや俺を気に入ってやがるのかと思った。
でもその考えは一瞬浮かんだだけで、本当の理由に気が付いた。
ルカは俺を信用してない。
少なくとも、環兄ちゃんに寄せてたような信頼を俺には持ってない。
そう思うと、ちょっとムカつく。
お前が望むから大の大人が翻弄された挙句、この俺が「犬」なんてもんをやる羽目になってるっつーのに、この状況の原因を作った本人が、巻き込まれた俺を、二ヶ月も経ってるっつーのに信用しないなんてのはどういう了見だって話。
そんなに俺が信用ならねえんだったら、本物の犬を飼えばいいだろって事。
だけどまあ、給料はいいし、バイクはもらえたし、ルカはそこそこ可哀想な境遇にいる奴だから、今のところは黙って「犬」をやってやるけども。
ただ、俺はいつまでも優しい人間じゃねえぞって事を、いつか言ってやりたいとは思う。
快適な温度に保たれてる部屋にいるから、庭の方から聞こえてくる暑苦しい蝉の鳴き声が子守唄みたいな役割になり始めて、徐々に眠くなってきた。
読んでた漫画の本を畳の上に放り投げて、仰向けになってる頭の下に枕の代わりに両腕を入れた。
瞼を閉じるとさっきまでよりも聴覚が敏感になって、蝉の鳴き声に混じって、ルカがノートに文字を書く鉛筆の音がする。
それがやけにリズミカルだから、更に眠気を煽られた。
自然と出た大きな欠伸。
一瞬だけ止まった文字を書く音。
再びノートを滑るように走り出す鉛筆の音が聞こえると、体がドッと重くなった。
好きな時に昼寝出来る仕事なんて他にはねえよな――と、「犬」の仕事の少ない利点に感謝しつつ完全に睡眠の世界に入ろうとした。
――直後。
「――あああああ!」
野太い、雄叫びのような声と、こっちに向かって廊下を走ってくる騒々しい足音が突如聞こえてきて、ぶったまげて飛び起きた。
比喩じゃなく、マジで飛んだ。
俺ってこんな動き出来んの!?って感じに、二センチくらい宙に浮いた。
「な、何だ!?」
何が何だか分からねえけど、とにかく尋常じゃない事態が発生したと、体を起こして庭に通じる障子の方に目をやった矢先、そこが左右に勢いよく開いた。
開いた障子の向こう。
庭に面してある廊下に、スーツ姿の若い男が立ってる。
がっちりとした体型に、オールバックの髪。眉尻の上がった、意志の強そうな濃い目の眉。鼻筋も通ってるし、各部位の配置もほぼ左右均等だったから、確かに「整った顔」ではある。
だけど、目付きが悪いのと顎髭がある所為で第一印象としては「怖い顔」だった。
ただ強面の男は笑ってた。
満面の笑みを浮かべてた。
その視線は真っ直ぐルカに向けられてる。
そして。
「瑠花!」
男は抱き止めてやると言わんばかりに両手を広げると、この距離でそんな音量は必要ねえだろうと思えるほどの大きな声でルカを呼んだ。
そこで気付いたのは、さっき廊下を走ってくる足音と一緒に聞こえてた雄叫びのようなものが、「瑠花ああああ!」って言ってたんだって事。
その読みに間違いがないって分かるのは、目を向けた先のルカが全く驚いてないから。
こいつは最初から分かってた。
男が自分の名前を叫びながら走ってきてる事も、それが誰なのかって事も。
そして俺にも、この男が誰なのかって事は今は分かる。
こいつはルカの二番目の兄貴だ。
未だ待ち構えるように両腕を広げてる男の片方の腕には、免税店の紙袋がふたつぶら下がってる。
海外出張帰りの長男って可能性よりも、海外にいるって噂を聞いてた次男って可能性の方が高い。
そういう、ちゃんとした観察からの推測だからまず間違ってはいないと思う。
ただ不思議なのは、ルカが無表情な事。
こっちが引くくらいの笑顔の兄貴とは対照的に、ルカは頬の僅かな筋肉すら動かさない。
兄貴の方を真っ直ぐ見てるけど、広げられてる腕の中に飛び込もうとしてる気配は微塵もない。
どっちの兄貴にも溺愛されて育ったって聞いてただけに、ルカのこの反応は予想外だった。
嬉しそうに走っていって抱き付くくらいが日常茶飯事って感じの育てられ方してるかと思ったのに。
しかし兄貴は笑顔を絶やさず両腕を広げたまま。
障子の向こう側とこっち側の温度差が半端ない。
家庭教師の平野は動じてなかった。
でも今の今まで開いてた参考書を閉じはした。
障子が開いて十秒くらいは経ってんのに、誰も一言も話さない。
これは一体どういう状況なのかと思った矢先、徐にルカが口を開いた。
「帰国は明日だって聞いてた」
その声は表情と同じで抑揚がなかった。
嬉しそうな感じはこれっぽっちもない。
思ってた「兄妹仲」と違ってる。
ルカの反応だけが――だけど。
「早く瑠花に会いたいから予定を一日前倒しにしたんだよ!」
お前ちょっとうるせえよ――と言いたくなるような音量で事情を説明した兄貴は、笑顔は継続したままだけど広げてた両腕は元に戻した。
感動の再会は諦めたらしい。
逆に、今までに一度でも、求めてるような再会を果たした事があるのかと疑問に思う。
ルカ相手じゃ無理だろう。
常に予想の斜め上を行くんだから。
「ふーん」
嬉しさなんてほんの少しも感じさせない適当な返事をしたルカは、それでも静かにノートを閉じた。
直後に兄貴がズカズカと部屋の中に入って来て、俺がいるのとは反対側のルカの隣に腰を下ろした。
「土産があるぞ?」
満面の笑みを浮かべる兄貴と。
「ありがとう」
無表情で兄貴の方を見ようともしないルカ。
にも拘らず、
「可愛い奴め!」
兄貴は何を血迷ったのかと思う台詞を吐いて、ルカを抱き寄せると頭をグリグリ撫でた。
大雑把な手の動きで、髪の毛をグチャグチャにされるルカは、無抵抗でやられるがまま。
表情を変えないから、気が済むまでやらせてやってるだけ感が凄い。
ルカらしくない気がして違和感がある。
兄貴はクンクンとルカの髪の匂いまで嗅ぎ始めた。
溺愛もここまで来ると、気持ちが悪い。
強面だから余計に変な感じがする。
いや。やっぱルカの反応が反応だからだろう。
髪をグシャグシャにされた挙句に匂いまで嗅がれてるルカが俺に目を向けた。
そして小さく溜息を吐くと、
「ハチ公、今日は帰れ」
ふてぶてしい声で命令をしてきた。
帰っていいって言われるのは有り難いが、抱いてた違和感が大きくなった感は否めなかった。
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