深い眠りから覚めて瞼を開くと、サツキの部屋のベッドにいて、全てが夢だった――なんて事はなかった。



 そんな事はないだろうとは思ってたけど、そんな事はなかった事にがっかりした。



――何で夢じゃねえんだ、バカ野郎。



 起きてすぐにムカついた直後、襲ってきた脱力感も半端なかった。



 思うにルカは吸血鬼のような要素がある。



 あいつの傍にいるだけで、気力やら体力やらが吸われていく。



 俺はそのうち生気まで吸われてミイラ化してしまうんじゃないかと本気で思う。



 部屋にある便所で用を足して、とりあえず部屋を出た。



 部屋に風呂もあったからシャワーでも浴びたかったけど、下着の替えもないから諦めた。



 階段を下りた所に温厚そうな男が立ってて、俺を見るや否や「お待ちになってます」と告げてきた。



 誰がだよ――と言いたいところだけど、誰の事だか分かってる。



 俺が思ってる通りの奴じゃなかったらかなり有り難い。



 男が廊下を歩いていく後ろをついて行くと、またしてもバカに広い部屋に着いた。



 多分この別荘の中で一番広い部屋だと思われる。



 俗に言うリビングって所だろう。



 俺には幼稚園にあるような小さめの体育館にしか見えないんだが。



 ふざけた広さのリビングには、デカい暖炉まであった。



 ソファや応接セットの大きさも規格外だし、壁に掛かってるテレビのデカさも規格外だった。



 更に入口の対面の壁がガラス張りで、すぐ外にあるプールが見えるようになってるから、余計に広く見える。



 本当は庭が見えるように造ってあるんだろうけど、プールがデカすぎてプールメインに見せようとしてる感じがする。



 まだプールに入れる季節じゃないのに、水が張ってある事に驚いた。



 水が澄んでるって事は入れっ放しで年中放置してある訳でもないらしい。



 そこに水張るだけでどんだけ水道代が掛かるんだろうかと、下世話な事まで思った。



 まあそんな下世話な事を考える時間は、ほんの数秒だったんだけど。



 リビングにはソファがいくつも置いてあって、奥まった場所にあるソファにルカが座ってるのが見えた。



 今日はグレーのパンツスーツを着てるルカは、優雅に紅茶なんかを飲んでやがった。



 数時間前まで鼾を掻いて涎を垂らして寝てたくせに、優雅な感じを醸し出してるのに唖然とした。



 優雅を決め込むルカは当然、



「おい」


「…………」


 呼び掛けたところで無視をする。



 こっちに目を向ける事もなく、「優雅」を続行中。



「おい、ルカ」


 少し刺々しい声を出して近付いて行っても、まるで知らん顔。



 それどころか、勢いよく歩き出したのはよかったが、リビングの入り口からルカがいるソファまで結構距離があるから、近付くのに時間が掛かって、勢いが萎えた。



 こういうのは「おい」って呼び掛けてから三歩くらいで近付けるのが理想なんだと初めて知った。



 それ以上の歩数があると何だかおかしな感じになる。



 歩けば歩くほど勢いは萎えるし、妙に冷めてきて、滑稽に思えてくる。



 どうやら俺を脱力させたり疲労させたりするのはルカだけじゃなく、成宮が所持する建物の所為でもあるらしい。



 三歩で辿り着けば肩を掴んでただろうけど、大股で結構歩いたから、着いた直後にルカの斜向かいにあるソファに座るという選択をした。



 もうこの時点で何か格好悪い。



 刺々しい声で「おい」と呼んでいながら、近付いた途端にソファに座って、しかもちょっと息が切れ気味な感じだから格好悪い。



 近くにいるルカが優雅だから、更に俺は格好悪い。



 ソファに足を組んで座ってるルカは、澄ました顔をしてた。



 俺をこんな場所に引っ張ってきた事に対して悪びれる様子は一切なかった。



 ソーサ―を左手に持ち、右手でカップを持つルカは、紅茶をひと口飲むとそれらをテーブルの上に置いた。



 その態度から、これでようやく俺の話を聞くんだろうと——。



「ルカ」


「…………」


 思ったのは間違いだったらしい。



 ルカは一瞬たりともこっちを見ない。



 もちろん聞こえてない訳じゃなく、聞こえた上での完全無視。



 それを示すように、鼻の穴がちょっと膨らんでるのが腹立たしい。



「ルカ」


「…………」


「おい、ルカ」


「…………」


「こっち向けや」


「…………」


「話があんだよ!」


「…………」


「おい――」


 ルカ――と、大きな声を出そうとした瞬間、物凄く嫌な事が頭に浮かんで一気に意気消沈した。



 嗚呼、嫌だ。



 マジで嫌だ。



 途轍もなく嫌だ。



 何がそんなに嫌かって、



「……ルカ特別捜査官」


「何だ?」


 思った通りな事が果てしなく嫌だ。



 リムジンの中でルカが俺を呼んでた呼び方を思い出し、もしやと思って「特別捜査官」と付けてみたら、ルカは物凄い勢いで俺の方に顔を向けた。



 その鼻の穴が喜びでピクピク動いてるのが腹立たしい。



 そう呼んで欲しいと分かった自分も腹立たしい。



 出来れば永遠に気付かないでいたかった。



「一体いつまでここにいるつもりだ?」


 気を取り直して、無駄であろう質問を口にすると、ルカは眉間に皺を寄せ凶悪な表情をつくる。



 そんな表情したいのは俺の方だっていうのに、何故かルカは睨みまできかせてきた。



「着替えも何も持ってきてねえんだよ。風呂にも入りてえんだよ。お前が何を捕まえようと勝手だけど、俺は帰りてえんだよ。夜までには帰るんだろうな? つーか、俺は今日休みだぞ」


 文句を言うにつれて顔の険しさを増したルカは、俺がそこまで言い終わるとフッと表情を元に戻した。



 そして飛び上がるようにしてソファから立ち上がり「心配ない」と、物凄く不安を掻き立てる言葉を吐いた。



「着替えは用意してある。風呂に入ればいい。むしろ入れ。ハチ公特別捜査官、お前ちょっと臭いぞ。酸っぱいニオイがする。宇宙人を捕まえたら帰る。宇宙人を捕まえるのは夜だと相場が決まってる。風呂から出たら聞き取り調査に行く。さあ、風呂に入れ」


 矢継ぎ早にそう言ったルカは、「着替えはあのおじさんが持ってる」と、リビングの入り口に立っている、温厚そうな男を指差した。



 突っ込みどころ満載で疲れる。



 まず本人を目の前にして「臭い」と言うな。



 更には「酸っぱいニオイがする」なんて絶対に言うな。



 俺だって自分が汗臭い事は承知してる。



 二度目のセックスは邪魔されたけど、その前に一度がっつりセックスして、その汗を流さないまま呼び出されてこんな所に連れて来られて、寝て起きたんだから当たり前に汗臭い。



 股間がちょっと痒い気がしないでもない。



 こんな事ならサツキの家でシャワーを浴びてから出掛けりゃよかったと心底思うけど、あの時はまさかこんな所に連れて来られるなんて思ってなかったんだから仕方ない。



 俺本人ですらそうやって「仕方ない」と思ってんだから、他人のお前が「臭い」なんて絶対に言うな。



 その上、宇宙人を捕まえるのは夜だと相場が決まってるって話は今まで聞いた事がない。



 そんな相場知らねえし、知りたくもねえ。



 つーか、宇宙人を捕まえたら帰るって、それって一生帰れねえって事じゃねえか。



 それ本気で言ってんなら、誘拐されましたって警察呼ぶぞって話になる。



 でもそれよりも気になる発言がある。



 それが気になりすぎて他の事はどうでもいいとすら思ってしまう。



――「あのおじさん」はないだろう。



 お前の屋敷で働いてる、お前の我儘に付き合ってこんな所までついて来てる、見るからに温厚そうな年上の男性に対して、「あのおじさん」はねえだろう。



 何だその、名前を知らないんです的な感じは。



 いくら何でも失礼だろ。



 つーか、まさかマジで名前知らないんじゃねえよな?



 そんな素っ頓狂な事は絶対にないよな?



 いや、有り得る。



 こいつに限っては有り得る。



 一回そう思ったらもう絶対にそうなんじゃねえかってくらいに有り得る。



 このどうしようもねえ「お嬢様」は、



「……『あのおじさん』の名前は?」


「知らない」


 世間の常識からかなり掛け離れた世界で生きてやがるから。



 温厚そうな男は、俺が「お嬢様の犬」の仕事を始めてから今日までの間、家庭教師の次にルカの傍にいる事が多かった。



 飯を持ってきたり、茶を持ってきたり、時には草履を持ってくる、ルカの世話係のようなこの男を、俺は環兄ちゃんが言っていたルカの「執事」だと思ってた。



 なのに、だ。



 この「お嬢様」は、その男の名前を知らないときた。



 もし執事じゃなくても、毎日身の回りの世話をしてくれてる、この温厚そうな男の名前を知らない意味が分からねえ。



 お前それは余りにもフリーダムすぎやしねえかと心の底から思う。



 金持ちだろうと貧乏だろうと大人だろうと子供だろうと、そんな事は一切関係ない常識ってもんがあると思う。



 身近にいる人の名前は知っていて当然ってのも、その常識のひとつだ。



 そういう常識なしに生きてんのがすげえ。



 よく十六年間無傷で生きてきたもんだ。



 もうこうなると逆に、何で家庭教師の平野の名前は知ってんだって思うくらいだ。



 呆れてモノも言えないってのはこういう事なんだろう。



 呆れたって気持ちと同じくらい愕然として、何を言っていいのか分かんねえ。



 そんな俺の気持ちなんて露知らず、温厚そうな男の名前を知らない事を全く悪びれず、澄ました顔をしてるルカはリビングの入り口に向かって歩き始める。



 そして、そのルカの背中を呆然と見つめるしか出来ない俺に振り返ると、



「酸っぱいから早く風呂に入れ、ハチ公特別捜査官」


 それだけ言って、背を向けてリビングを出ていった。



 酸っぱい「ニオイ」じゃなく、自身が酸っぱくされてしまった俺は、それでも呆然と突っ立ってる事しか出来ず、ルカが名前を知らない温厚そうな男に声を掛けられるまでの一分間、口をポカンと開けたバカ面を晒してた。



「着替えを持って行きますから、お部屋でシャワーを浴びて下さい」


 温厚そうな男にそう言われ、断る理由もないから部屋に戻ってシャワーを浴びた。



 酸っぱいとまで言われたから髪も体も二回洗った。



 シャワーを浴び終わって部屋に戻ると、ベッドの上にどういう訳か紺色のスーツが置いてあった。



 これが着替えなんだろうけど、どういう理由でスーツなのかさっぱり分からない。



 それでも着替えはそれしかないから着る以外になく、着てみるとサイズがちょっとデカかった。



 ただ生地はめちゃくちゃよかった。



 スーツとかよく分かんねえけど、そんな俺でもいい生地だって分かるくらいの触り心地だった。



 ご丁寧にもネクタイまで用意されてて、本音を言えば嫌だけど、着けざるを得なかった。



 これからルカにどこに連れていかれるか分かったもんじゃない。



 ネクタイ着用が義務付けられてるような場所に連れていかれるかもしれない。



 そんな場所一体どこなんだって思うけど、相手が金持ちなだけに何があるか分からない。



 いや、相手がルカなだけに油断出来ないと言った方が正しい。



 別にルカがどこに行こうが俺が付き合う義理なんてないんだけど。



 つーか、俺は本来なら今日は休みだから付き合わなくていいんだけど。



 どういう訳だかその事を完全に失念していた。



 一緒に行かなきゃならないと何の疑いもなく思ってた。



 着替えて部屋を出るとドアの近くに温厚そうな男が立ってた。



 俺に気付くと「瑠花様は玄関でお待ちです」と告げてきた。



 わざわざその伝言をする為だけにそこにいたんだと思ったけど、どうやら本当の用件はそれじゃなかった。



「此度は急な事でして」


 俺に一歩近付き、ヒソヒソとした声で話し掛けてきた温厚そうな男は、



「必要な人員の都合がつきませんでした」


 困ってるって事を顔いっぱいに表わしてる。



 そりゃそうだろう。



 困って然りだろう。



 つーか、困る事しかないだろう。



 困らない要素が何ひとつない。



 ただ。



「今お屋敷の方で準備をしてまして、整い次第必要な人材は全てこちらに参ります。夕方までには全員着くかと思います。それまで貴方に瑠花様をお守りして頂きたい」


 その「困った」の矛先が俺に向けられる。



「は?」


 そう聞き返すしかなかった。



 何を言えってんだ。



「護衛の者が到着するまでの間、瑠花様をお守り下さい」


 会社で言うなら休日出勤させられた挙句、自分の仕事じゃない仕事までやれって言われて、



「え? 俺が?」


 困惑に彩られた疑問の他に何を言えってんだ。



「貴方しかいないので」


「あんたは!? あんたが守りゃいいじゃねえかよ!」


「わたくしは、別荘に残ってやらなければならない事が沢山あります。それに瑠花様はわたくしが同行する事を厭うでしょう」


「運転手は!? リムジン運転してた奴は!?」


「帰りました」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 護衛って、守るって、それってボディガード的な意味か!?」


「そうです」


「で、でも俺は護衛のプロじゃねえぞ!? 何か狙われてんだろ!? 成宮の人間は狙われてるって聞いたぞ!? 誰か襲われたって話も聞いたぞ!?」


「ええ、薫子かおるこ様が襲われました」


「誰!?」


「瑠花様のお兄様の奥様です」


「長男の嫁か!?」


「そうです」


「ってか、女が襲われてんじゃねえかよ! ならルカも襲われる可能性大じゃねえか! なのにド素人の俺に守れってか!?」


「そうです」


「そうですって――ええ!? ひとりふたりならまだしも、束になって襲ってきたらどうすんだよ!?」


「身を挺して守って頂ければ」


「身を挺してって――」


「わたくしは瑠花様の身の安全だけを案じています。瑠花様がご無事なら他は何も望みません」


「…………」


「瑠花様を命に代えてもお守り下さい」


「…………え? 冗談?」


「いえ」


「ふざけてるとか?」


「一切ふざけてません」


「そ、その言い方だと俺はどうなってもいいって感じじゃねえか!?」


「そのつもりで言ってます」


「ああん!?」


何卒なにとぞ――」


 瑠花様をお守り下さい――と、ルカに名前も覚えてもらっていない温厚そうな男は、「お嬢様の犬」である俺に頭を下げた。



 言われてる事がどうであろうと、遥かに年上の男に頭を下げられると何も言えなかった。



 グッと言葉に詰まってしまった。



 それでも「分かった」と了承はしなかった。



 出来る訳がない。



 護衛なんて冗談じゃない。



 女を襲うようなやからから守るなんてとんでもない。



 マジでひとりやふたりならどうにかなるかもしれねえけど、それ以上となるとどうしようもねえ。



 飛び道具なんて出てきた時には、相手がひとりでもどうしようもねえ。



 そして何より。



「遅いぞ、ハチ公特別捜査官」


 守ってやりたいと思う相手じゃねえ。



 護衛の仕事を押し付けられて渋々玄関に向かったら、仁王立ちしたルカにまず文句を言われた。



「出掛けるのやめようぜ」


 無理だと思いつつも提案してみたら、



「ああ! そうだ! パンケーキ!」


 訳が分からん言葉が返ってきた。



「パンケーキにしよう!」


 繰り返されたところで、微塵も意味が分からない事をもう一度言ったルカは、「さあ、行くぞ!」と張り切った声を出し、さっさと外に出ていった。

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