第二話 犬と宇宙人


 夏目漱石氏に最上級の敬意を払って言う。



――吾輩は犬である。名前は「ハチ公」。



 もちろん「ハチ公」は本当の名前じゃない。



 俺には両親がつけてくれた「或斗」っていう立派な名前がちゃんとある。



 が、あるひとりの厄介な人間は俺を「ハチ公」と呼ぶ。



 そいつにどうして「ハチ公」なのかと聞いたところ、



「忠犬の名前といえばハチ公だから」


 なんて言葉が返ってきた。



 その答えには、ひとつふたつ突っ込みどころがある。



 まず「忠犬ハチ公」の「ハチ公」は愛称であって、忠犬と言われてる有名なあの犬の本当の名前は「ハチ」だ。



 だから「名前といえば」と言うなら「ハチ」が正しい。



 まずそこから間違ってる。



 でもまあ名前だ愛称だってのは大した問題じゃない。



 大きな問題は他にある。



 驚く事なかれ、俺は「犬」じゃない。



 二足歩行バリバリの人間様だ。



 更には忠実でも何でもない。



 過去の女に軽薄だと言われた事はあっても、忠実だと言われた事はこれまでの人生一度としてない。



 それを踏まえて考えると「ハチ公」と呼ばれるのは相当な勢いでおかしい。



 いやもうそもそもそこまで深く考えなくても「ハチ公」と呼ばれるのはおかしい。



 常識的に有り得ない。



 にも拘わらず、あるひとりの厄介な人間は俺を「ハチ公」と呼ぶ。



 ルカという名前の、バカな女が「ハチ公」と呼ぶ。



 抵抗しなかった訳じゃない。



 むしろ「ハチ公」と呼ばれる事に全力で抵抗した。



「ハチ公だと!? 俺の名前は或斗だ!」


 まずそう言った。



「妹はソプラノか?」


 すぐそう返された。



「ふざけんな! 兄弟なんかいねえんだよ!」


 速攻で切り返した。



「何が?」


 訳の分からねえ返しをされた。



 この会話だけでもルカって女が相当に厄介だというのは、誰にでも理解してもらえると思う。



 因みにこのあとは何を言おうと総無視された。



 まともな会話は出来ねえ。



 こっちの話を聞いてんのか聞いてねえのかもイマイチ分かんねえ。



 会話のキャッチボールが一回出来れば奇跡のようなもので、一分と会話は続かない。



 それでも一応は何度か抵抗を試みた。



 当然だ。「ハチ公」なんて呼ばれ方冗談じゃねえから。



 とは言え、やっぱり会話が成立しない相手に何を言っても無駄だった。



 結局俺は「ハチ公」と呼ばれる事に対しての抵抗を諦めた。



 諦める以外の手立てはなかった。



 そんな、全く話の通じない、非常識で厄介な人間の代表みたいな奴の傍にいるのが俺の仕事。



 この仕事に就いて一週間。



 絶対に雇われないだろうと思ってたのに何故か雇われて一週間。



 雇われたってより、雇われてしまった感満載のこの仕事は、断ろうにも断れなかった。



 やりたくないと、雇われてしまったその日すぐにこの仕事を紹介してきた環兄ちゃんに言ってみたら、「やれ」と命令された。



 折角仕事に就けたんだからやれるだけやれ――と、命令してきた時の環兄ちゃんの声が全盛期の頃に人を脅す時に使ってた低い声だったから、ビビってそれ以上何も言えなかった。



 つまり俺は現在、強制労働中。



 やりたくない仕事を無理矢理やらされてる。



 基本的仕事の内容はこれ以上ないくらいに楽。



 こんな事で給料貰えていいのかって思うくらいに楽。



 だけどそれは「基本的内容が」なだけで、傍にいる相手がルカの場合は違う。



 これが他の相手の傍にいるってならマジで天国みたいな仕事場だと思う。



 傍にいる相手が普通の奴だったら、こんな楽な仕事この先絶対に見つけられないと、感謝すらするかもしれない。



 ただ如何せん傍にいる相手がルカなだけに、毎日脱力感と倦怠感と疲労感に苛まれる。



 俺を「ハチ公」と呼ぶ、本人曰く「俺の飼い主」であるらしいルカは、会話が出来ないだけじゃない。



 よく分からない言葉を発する。



 だから何を言ってるのかさっぱり分からない事がある。



 それはもう朝イチから始まる。



「ハチ公、もしお前がアルファズならどうする?」


 今朝も今朝とて障子を開けた直後に、開けてすぐの部屋にいたルカから謎の問いが飛んできた。



 こういう訳の分からない問いは二日に一度飛んでくる。



 どう反応していいのかさっぱり分からない。



「あ?」


 だからとりあえず聞き返してみたら、憎々しげな表情をつくり、チッと思い切り舌打ちをされた。



 でも俺はキレない。



 この仕事に就いて一週間にして既に悟りを開いた。



 ルカ相手にキレたって疲れるだけだ。



 全てを流してしまうのが自分の為になる。



 何事もなかったかのように部屋に入って、ルカの近くに腰を下ろした。



 ルカはデカい座卓に向かって座ってる。



 基本的にルカはこのデカい座卓しか置いてない部屋にいる。



 一日の殆どをこの部屋で過ごす。



 どういう理由でだかは知らないが、ルカは高校に行ってない。



 頭が悪すぎて行けないって訳ではないと思う。



 金さえ積めばどんだけ頭が悪くたって入れる高校ってのはあるみたいだし、こんなにドデカい屋敷に住んでるルカが高校に行きたいと思えばどうとでもなるもんだろうから、本人が行きたくないんだろうと予想してる。



 そしてルカは高校で教わる勉強を家庭教師から教わってる。



 高校には行かずに家庭教師に教わるって事が金持ちのステータスなのか何なのか知らないが、そんなに勉強したいなら学校に行けばいいのにとは思う。



 まあ金持ちには金持ちの、俺ら一般人には分からない何かがあるんだろう。



 その、家庭教師との勉強もこの部屋で、飯を食うのもぼんやりするのもこの部屋だ。



 つまり俺がこの仕事に就く前――廊下でずっと待ってた時――ルカはわざとこの部屋を使ってなかった。



 廊下にいる俺に気配を悟られないように、ずっと隣の部屋にいた。



 これは予想でも何でもなく、ルカの家庭教師に聞いた真実。



 どうしてそんな事をしたのかと言えば、不機嫌だったかららしい。



 何で不機嫌だったのかは知らない。



 そんな事はどうでもいいし、知りたくもない。



 デカい座卓がある部屋を真ん中にして左右に部屋がある。



 ひとつはプロジェクターやパソコンなどが置いてある部屋で、もうひとつは寝室らしい。



 俺はどっちにも入った事がないから、どんな風なのかは知らない。



 俺が廊下で待ってる間、ルカが家庭教師といたのは、プロジェクターやパソコンが置いてある部屋らしい。



「おはようございます」


 腰を下ろして程無くすると、障子が開いて家庭教師がやって来た。



 この屋敷にいる奴らはどいつもこいつもバカばかりだけど、この家庭教師の平野って奴はまだマシな方だと思う。



 俺の事を「犬」と言うが、それ以外は今のところまともだ。



 会話も成立するし、聞けば色々と教えてくれる。



 そして、



「平野、もしお前がアルファズならどうする?」


「そうですね、何か人の為になる事が出来ればと思います」


 ルカと謎の会話が出来る希有な人物だ。



 だから現時点では唯一頼りになる人物って事になる。



 家庭教師の返事に納得したらしいルカは「うん」と言って座卓の上にあったノートを広げた。



 それからすぐに勉強が始まって、俺は大きな欠伸をした。



 何もやる事がない。



 ルカの傍にいるって事以外、俺がする事は何もない。



 元々勉強なんて嫌いなんだから、他人が勉強してる所を見て面白い訳がない。



 退屈極まりない。



 勉強してる間、話し掛けちゃいけないって訳じゃない。



 むしろルカと家庭教師は何だかんだと世間話的なものをしまくってる。



 でも俺がその会話に入る事も、自ら話し掛けていく事もない。



 何故なら、



「アルファズは本当にいると思うか?」


「私には分かりません。でもいないとは言い切れないでしょう」


 このふたりは全く以って何の話をしてるのかさっぱり分からない会話ばかりするから。



 話し掛けても無駄なだけだと、仕事の初日に理解した。



 訳の分からない話をされて疲れるのがオチだ。



 説明を求めてもルカにされる説明は更に訳が分からない。



 家庭教師が説明しようとすると、何故かルカはそれを遮る。



 更には三割の割合で話し掛けても無視される。



 それならいっそ、端から黙ってる方がいい。



 煙草でも吸おうかと立ち上がると、これでもかってくらいに眉を顰めたルカが俺を見上げた。



「煙草だ、煙草」


 行き先を告げるとルカはフンッと鼻を鳴らして、ノートに視線を戻す。



 そんなルカの頭に向かって小さな溜息を吐き出し、廊下に置いてある灰皿の載った盆の所に向かった。



 煙草を吸う事は許可されてるけど、ルカの部屋ではダメらしい。



 だから煙草を吸う時はわざわざ廊下に出る事になる。



 最初の方こそそれを面倒臭いと思ったけど、今じゃ退屈な時間を少しは潰せるからこれでいいと思ってる。



 庭に足を放り出す格好で廊下に座って煙草に火を点けた。



 離れた場所で数人の庭師が庭の手入れをしてるのが見えた。



 今日もすこぶる天気がよくて、庭は温かい春の陽射しに包まれてる。



――平和だ。



「おい、ハチ公」



――俺の後ろ側以外は。



 嫌々ながらに振り向くと、ルカは憤然として俺を見てた。



 どうやらさっさと元の場所に戻らない事が気に入らないらしい。



 まだ煙草をふた口しか吸ってないのに戻って来いと思ってるらしい。



 戻ったところで何をする訳でもないのに。



「もうちょい待ってろ」


 少々睨みを利かせてそう言ったら、鼻の頭に皺をつくったルカに「カーッ!」と威嚇するような声を出された。



 待つのが嫌なら嫌で、それを伝えるのには他にも方法があるんじゃねえかと思う。



 何も「カーッ!」と獣みたいな威嚇の声を出す事はねえと心底思う。



 それに対して一体どういう反応をして欲しいのかすこぶる不思議に思う。



 分かりやすい脱力感に襲われて、煙草の火を消し腰を上げた。



 戻りたくないオーラ全開で部屋に入って元の位置に座った。



 そうしてしっかり腰を下ろしたあと。



「お座り!」


 思いっきり指を差された。



 ルカの人差し指が目に入るんじゃねえかって距離だった。



 もしかしたら目を突こうとしたのかもしれねえ。



 この女は話す言葉どころか、行動すらもよく分からねえ。



 何で環兄ちゃんがこんな女の傍に八年間もいたのか謎で仕方ない。



 もしや弱みか何かを握られてたんじゃないだろうかと疑ってしまう。



 戻ったところで結局何もする事がなかった。



 ただジッと、勉強してるルカの傍にいた。



 昼飯の時間になって三人分の弁当が運ばれてきて、それを食い終わるとまた勉強が始まった。



 だから俺はまた退屈な時間を過ごした。



 三時頃に一旦勉強をやめて、俺とルカは庭に出た。



 日課の「散歩」ってやつだ。



 この散歩の間にお手伝いだか使用人だかが、数人掛かりでルカの部屋の掃除をする。



 その所為で三十分ほど庭を散策する事になる。



 散歩の途中一切会話はしないが、ルカは必ず一度は落ちてる細い枝を拾って投げる。



 たまに枝を見つけられない時はそこら辺にある小石を投げる。



 当然拾って来いってつもりで投げてるんだろうが、俺がそんな物を拾いに行く訳もない上に、小石だった場合は投げたのがどれだか分からなくなってしまう始末。



 それでもルカは投げる。



 思い切り振り被って投げる。



 枝だと物凄く手前に落ちるし、小石だと肉眼じゃどこに落ちたのか分かんねえくらいに飛んでいくけど、飽きもせずに毎日振り被って投げる。



 バカなんだ。



 バカの相手をして散歩を終えて戻ると、いつものように座卓の上におやつが用意されてた。



 大抵の場合がケーキで、紅茶と珈琲も用意されてる。



 その時には、俺らが散歩に行ってる間にどこかに行ってる家庭教師が、既に戻ってきてる。



 だから三人でおやつを食う。



 そのあとはまた勉強。



 で、五時になったら俺はすぐさま帰宅する。



 それでようやくバカから解放される。



 俺の仕事の時間はこんな感じに過ぎていく。



 今のところずっとこんな感じの時間を過ごしてる。



 因みに一番面倒なのは、ルカが便所に行く時は何故か俺もついて行って、便所の前で待ってるって事。



 そこまで傍にいなきゃいけない意味が分からない。



 それでもまあ、やってやれない仕事じゃない。



 疲労感も倦怠感も脱力感も半端ないけど、やれない仕事じゃない。



 九時から五時までの仕事だし、その間だけ我慢してりゃいいだけだから。

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