環兄ちゃんに連れられて成宮の屋敷を訪れたのは、「居酒屋まるはち」で仕事の話を聞いてから三日後の事だった。



 屋敷の訪れたのは他でもない、面接の為。



 それに通れば俺は晴れてご令嬢の犬となる。



 そんな馬鹿馬鹿しいというか、腹立たしいというか、何とも非常識な仕事の面接を受けにやって来た理由は、ひとつしかない。



 新車のバイク。



 ただこれのみ。



 もちろん安易にその理由に飛び付いた訳じゃない。



 俺なりにちゃんと考えた。



 仕事の内容が犬だと言われたあと、それは一体どういう事なのか聞いた。



 犬の着ぐるみでも着ろって事なのか、はたまたバター犬としてご奉仕しろって事なのか、一体全体どういう事なんだと聞いた。



 環兄ちゃんは「瑠花さんの傍にいるだけだ」と答えた。



 それ以外、特にする事はないらしい。



 とにかく傍にいるだけ――なんだそうだ。



 変な命令なんかされて変な事させられるんじゃないかと懸念を表わしてみたら、「そんな事はない」と環兄ちゃんは言い切った。



 それが本当なら、楽な仕事なのかもしれない。



 何より、環兄ちゃんが八年間もしてた仕事だから、物凄く突拍子もない内容な訳はないだろうと思った。



 犬だと言いながら実際は全く違った感じだったりするんだろうと思った。



 それに、憧れの環兄ちゃんがしてた仕事がどんなもんなのか気になると言えば気になる。



 だから「新車のバイク」と「犬の仕事」を天秤にかけて、「新車のバイク」が勝った。



 まあそれも、仕事をしようって感じじゃなく、一応面接だけ受けておこうって感じの軽いものだった。



 面接で落ちればそれまでの事だし、受かったらとりあえず働いてみて、嫌なら環兄ちゃんに頼んで辞めさせてもらえばいい。



 そんな軽い気持ちで面接に訪れた成宮の屋敷は、予想以上にデカかった。



 ここまでデカい屋敷、肉眼で見たのは初めてだった。



 見上げるほどの高い門の前には、警備の人間がふたり立ってた。



 門を挟むようにして立ってるそのふたりは、警備員然とした服装をしてる訳じゃなく、普通にスーツ姿だった。



 それでも警備してるんだと分かったのは、片手に無線機を持ってる上に、腰に警棒らしき物を差してたから。



 人相も決していいとは言えなかった。



 体つきもスーツを着てても筋肉隆々感がありまくった。



 警備の人間にボディチェックをされたあと門を潜ると、車が十台は停められそうなスペースがあって、その先に石畳のアプローチが玄関に向かって伸びてた。



 これが異様に長かった。



 土地の無駄遣いじゃねえかと呆れた。



 成宮の屋敷の外見は「洋」の要素が一切ない「和」全開のもので、漂う雰囲気は寺とか神社って感じだった。



 上手く言えないけど、洗礼された空気感みたいなものがあった。



 玄関も呆れるほどに広く、入るとすぐにお手伝いだか使用人だか何だか分からない女が現われ、部屋に案内された。



 案内された部屋もバカみたいに広かった。



 多分、応接間なんだろうけど、何人応接する気なんだってくらいに広い。



 推定三十畳はあるような部屋。



 ちょっとした会社の忘年会とか新年会での宴会場として充分使える。



 そのバカに広い部屋の中央には長方形のドデカい座卓があった。



 その座卓の、多分上座と呼ばれる場所に、和装の爺様が座ってた。



 仙人みたいな爺様だった。



 仙人を見た事がある訳じゃないけど、俺が抱く仙人のイメージに果てしなく近かった。



 見えてる毛という毛が真っ白で、矢鱈と長い顎鬚がある。



 体の線が異様に細くて、顔は皺だらけ。



 目が細いらしく皺に隠れて、一見してどこにあるか分からない。



 環兄ちゃんは部屋に入ると仙人風の爺様に向かって「会長」と呼び掛けた。



 つまり仙人爺様は、手広くやってるらしい成宮の会社で一番偉い人って事になる。



 仙人みたいなのに会長らしい。



 仙人爺様はこっちに顔を向けると小さく頷いて座るように手で促した。



 促されるまま環兄ちゃんが仙人爺様の近くに腰を下ろし、俺はその隣に座った。



 まだ一言も発してない仙人爺様の声の予想は嗄れた感じ。



 声すらシワシワって感じなんだろうと思ってた。



 けど。



「その若者が、お前の言っていた後釜か?」


 実際の仙人爺様の声は驚くほどに力強かった。



 声だけ聞けば五十代くらい。



 見た目は推定九十歳なのに。



「はい。身許は俺が保証します」


 環兄ちゃんのその言葉に、仙人爺様は「うむ」と返事をして、細い目を力いっぱいって感じで開く。



 それでも充分に細い目を真っ直ぐ俺に向けると、



「いい犬になれるか?」


 バカな発言をした。



 バカだ。



 バカとしか言いようがない。



 いくつも会社を持ってる偉い爺様だろうと、バカ極まりない。



 人間に向かって「いい犬になれるか?」ってどういうつもりだ。



 すっかりボケちまってるか、生粋のバカかどっちかしかない。



 こんな爺様を会長にしてる会社もバカだ。



 何て質問をしてくるんだと、呆れに呆れてポカンとしてたら、仙人爺様は「うむ」と言った。



 こっちは何も言ってないのに何故か「うむ」と頷いて、



「よかろう」


 更にバカな事を言った。



 何が「よかろう」なのか全く分からない。



 この仙人爺様は大丈夫なのかと心底思う。



 やはりこの爺様はマジモンの仙人で、俺らとは違う次元で生きてるのかもしれない。



 でも実際はそうじゃなかった。



「環が勧める相手なら問題はなかろう」


 とどのつまりがそういう事だった。



 環兄ちゃんがこの屋敷で築き上げた信頼が、仙人爺様の「よかろう」って言葉を導き出したらしい。



 それなら最初から面接なんかしなくていいじゃないかと思う。



「ありがとうございます」


「あとは瑠花次第だ」


 頭を下げた環兄ちゃんに、仙人爺様はそう言って、俺に目を向けた。



 そして今までで一番目を大きく開き、



「若者よ。これだけは言っておく。儂の孫娘の瑠花は可愛い。もし瑠花がお前を飼う事にしたとしても、何があっても瑠花に手を出すんじゃないぞ。手を出したら、お前の人生を終わらせてやる。どんな手を使ってでも――だ」


 直球で脅してきた。



 遠回しにする気なんて更々ないって感じだった。



 しかも年季の入った凄みのある声を出された。



 その筋の人間なのかと疑うほどの本格的な凄みに気を取られて、本来なら気になるであろう言葉をスルーしてしまった。



――瑠花がお前を飼う事にしたとしても。



 普段なら「飼う」って言葉に反応してたと思う。



 そりゃマジモンで犬扱いじゃねえかと、バカも程々にしとけよと、仙人爺様に思ってたと思う。



 何だったら口に出してたかもしれない。



 言っちゃいけないと思いつつ、いい加減「お前、バカだろ」と言ってたかもしれない。



 けど、凄みのある声に完全に気持ちを持っていかれてスルーしてしまった。



「では、瑠花さんに挨拶をしてきます」


 もう一度頭を下げた環兄ちゃんに、仙人爺さんは「うむ」と言った。



 そうして環兄ちゃんが腰を上げようとしたから、俺は慌てて頭を下げて一緒に立ち上がった。



「くれぐれも、瑠花に手を出すんじゃないぞ」


 応接間を出ていく間際、背後からまた凄みのある声を出されて、「はあ」と間の抜けな返事をした。



 どれだけ可愛いのか知らねえけど俺はそこまで不自由してねえよ――と、言ってやりたい気持ちでいっぱいだった。



 可愛いって理由だけで手え出したりなんかしない。



 そこそこ可愛い女のセフレは何人かいるって話。



 そうも釘を刺されると、逆に手え出してやろうかとすら思えてくる。



 まだ人生終わらせたくねえから、出したりしねえけど。



 応接間を出ると、廊下を屋敷の奥に向かって進んだ。



 矢鱈と長い廊下はそのうち、庭に面した廊下に続いた。



 ずっと真っ直ぐって訳じゃない。



 途中でコの字に曲がってたりする。



 一体この屋敷はどれだけ敷地があるんだと愕然とするほどの長さだった。



 その、庭に面した広くて長い廊下を歩きながら、こういうのをテレビで見た事があると思った。



 時代劇で出てくる殿様の城の「奥」って呼ばれてる場所がこんな感じだった。



 昔見たそれ系のテレビでは、こういう廊下で「奥」の女同士が火花散らして睨み合ってた。



 その「奥」の廊下と成宮の屋敷の廊下の感じ――というか雰囲気――が似てた。



 まあボキャブラリーに乏しい俺だからそう感じただけなんだろうけど。



 そんな「奥」的廊下の一番奥にあたる障子の前で環兄ちゃんは足を止めた。



 でもその先は行き止まりって事はなかった。



 廊下は右に曲がってる。



 右側に壁があるから先が見えないだけで、廊下はまだ続いてるらしい。



 でも屋敷の建物自体は、廊下が右に曲がってる所で終わりだった。



 その先は庭。



 庭にいくつかの小屋のような物もある。



 障子は、廊下が曲がってる所からは結構手前の場所にあった。



 その障子の前で環兄ちゃんは腰を下ろした。



 そして居住まいを正して、「瑠花さん」と障子の向こうに声を掛けた。



 返事はなかった。



 障子が開く事も、開く気配もなかった。



 それでも環兄ちゃんは暫く居住まいを正した姿勢のまま待ってた。



「瑠花さん」


 一分以上の時間を置いて、もう一度声を掛けた。



 でも返事はなかった。



「今日で最後となりました」


 障子に話し掛ける環兄ちゃんの声は何だかちょっと暗い。



「明日からは、今俺の隣にいる或斗が瑠花さんの犬になります」


 暗い声で「犬」と言う。



「もちろん、瑠花さんが気に入ればの話です」


 どうあっても「犬」の部分は推していきたいらしい。



 お陰で暗い雰囲気作りたいのか、そういう雰囲気ぶっ壊したいのか、さっぱり分からない。



 環兄ちゃん本人は至って真面目な声出してるから、余計に可笑しい。



 何もそこまで意地になって「犬」推しじゃなくてもいいんじゃないかと、只管ひたすら思う。



「お世話になりました」


 ひと際真剣な声を出して、環兄ちゃんは頭を下げた。



 それでも障子の向こうから返事はなかった。



 当然障子が開く事もなかった。



 徐に立ち上がった環兄ちゃんは「行くぞ」と俺に目顔で言う。



 来た通りに廊下を戻り始めると、環兄ちゃんが俺の隣に並んだ。



「ここまで来る道順は覚えたか?」


 聞いてくる環兄ちゃんは真っ直ぐ前を向いたままで俺に目を向けない。



「道順って廊下の? まあ、何となく」


 答える俺が環兄ちゃんに目を向けてる事に気付いてるはずなのに、まるで気付いてないかのように真っ直ぐ前を向いたまま。



「明日からはお前ひとりで来るんだ。ちゃんと覚えておけ。そして今いた場所まで行ったら、そこで待ってろ」


「……待ってろ?」


「そうだ。障子が開くのを待て」


「はあ? それってどういう――」


「どういうもこういうもない。言ったままだ。瑠花さんが障子を開けるまで待て。絶対にこっちから開けるな」


「開けるなって、どんだけ待つんだよ!? 今だって全然開かなかったぞ!? つーか、何で環兄ちゃんが声掛けてんのに瑠花って奴は障子開けねえんだよ!? 中にいなかったのか!?」


「いや、いる」


「んじゃ、何で開けねえんだよ!?」


「怒ってるからだ」


「怒ってる?」


「俺が今日でこの屋敷からいなくなる事を怒ってる」


「はあ?」


「 三日前に知らせたんだが、それ以来ずっと会ってくれない」


「三日前って、俺とまるはち行った日だろ? いなくなるのってもっと前に決まってたんじゃねえの?」


「正式に決まったのは二ヶ月前だ。恩恵についての話を聞いたのは半年前だが」


「なら何で三日前に言うんだよ? そんなギリギリで言ったから怒ってるって事か?」


「違う。こうなると分かってたからギリギリまで言わなかったんだ」


「こうなるって?」


「怒る事は最初から分かってた」


「つーか、さっきから怒ってる怒ってる言ってっけど、要は拗ねてんだろ? 環兄ちゃんがいなくなるから不貞腐れて出て来ねえんだろ。そんなのほっときゃいいじゃんか。別に環兄ちゃんが気にする事ねえよ」


「うん?」


「気にしてんじゃん。さっきから。ずっと気にしてんじゃん。あそこに行く途中からずっと気にしてたろ。俺、気付いてたし。そん時は何気にしてんのか分かんなかったけど」


「お前は本当、俺の事よく見てるな」


「今更だろ」


 俺の言葉に環兄ちゃんはほんの少し口許を緩めた。



 でもその目は真っ直ぐ前に向けられたままだった。



「とにかく、お前は障子が開くのを待つんだ。分かったな?」


「待つってどんくらい?」


「三日か四日か――まあ、長くても一週間もすれば開くだろうな」


「はあ!? それまでずっと待てって!? 泊まり込めっつーのかよ!?」


「時間になったら帰っていい。で、翌朝からまた待て。但し、障子が開くまでは毎日行け」


「冗談だよな?」


「マジだ」


「はあ!? 何でだよ!?」


「瑠花さんがその気になるのを待つんだ」


「その気!?」


「次の犬を飼う気って事だ。その気になれば障子を開く。それからお前を飼うかどうか決める」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。さっきからおかしな単語が飛びまくってんぞ!? 飼うって何だよ!? 何でそこまで犬推しなんだよ!? おかしいだろ!」


「犬推しも何も犬だからそれ以外に言いようがない。それより会長も言ってたが、もしこの仕事が決まっても、瑠花さんが可愛いからって絶対に手を出すなよ」


「いやいや、その事よりもまず犬推しについてもっと話し合――」


「手を出したら会長が何かするよりも先に俺がお前を殺す」


 思いっきり脅迫の言葉を吐き出し、ようやく俺に目を向けた環兄ちゃんは、全盛期の頃と同じ鋭すぎる目をしてた。



 数年振りに見たその目付きにビビった俺の口からは、もう犬推しについての話は出なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る