売られた貧乏貴族が幸せをつかむまで

夏野小夏

売られた貧乏貴族が幸せをつかむまで

(いい天気。こんなに晴れやかな気分でいられるなんて思ってもみなかった)


 馬車の揺れは穏やかで、窓の外を流れる景色は初夏の緑に満ちていた。だがイリアの心は過去の記憶に揺れていた。5年前、王国学園での日々。あの苦い思い出は、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。



 イリアは貧乏貴族だった。伯爵令嬢ではあったが、実家は貧乏。質素なドレス、慎ましい食事、そして孤独。華やかな学園生活を送る他の貴族子女とはまるで違う世界に生きていた。唯一の慰めは勉学であり、常に首席を争うほどの秀才だった。だがその優秀さがかえって周囲の反感を買っていた。


「イリア、また図書館? あなたって本当に地味よね。勉強ばかりして何になるの?」レイチェルは高価なレースで縁取られた扇子で顔を隠し、嘲るように言った。「もっと華やかな社交界のことを学んだ方がいいんじゃない? まぁ、あなたには縁のない世界だけど」


カイルも同意するように頷き、「イリア、君は勉強なんて無駄なことをしていないで、家を建て直す方法を考えたらどうだい? はっきり言うけど、今の君の家と結婚することは俺にとって不名誉なことだ」と冷たく言い放った。


イリアは感情を押し殺し静かに答えた。「ご忠告痛み入ります。しかしいつか、この努力が役に立つと信じています」


カイルが憧憬の目を向けていたのは、侯爵令嬢のレイチェルだった。華やかな美貌と裕福な家柄。レイチェルは貧乏なイリアを嘲笑し、カイルを掌で転がしていた。

「カイル、イリアったら本当に可哀想。あんなに勉強しても、何にもならないのに」


レイチェルは甘えた声で言った。カイルもまた侯爵家との繋がりを求めて、レイチェルに媚びへつらっていた。


「レイチェル様は本当に美しく聡明な方だ。イリア、君も見習うといい」


 イリアは彼らの嘲笑と軽蔑を毅然と受け止めていた。ひとり図書館で過ごす時間が唯一の心の安らぎだった。分厚い書物に囲まれ、知識の世界に没頭することで、現実の辛さを忘れられた。



 そんなイリアにある日、ひとりの青年が話しかけてきた。アルバート、商人の息子だった。


「こんにちは、イリアさん。いつも図書館で勉強されているんですね。僕はアルバートです」


彼はイリアの学力に感銘を受け、積極的に交流を求めてきた。


「イリアさんの本の選び方は実に興味深い。今度、一緒に読書会でもどうでしょうか?」


図書館で初めてアルバートに話しかけられた日のことを、イリアははっきりと覚えていた。周囲の貴族子女の冷たい視線の中で、アルバートだけがイリアに温かい言葉をかけてくれた。


そんなアルバートにカイルは警告した。

「アルバート。あんな貧乏貴族と仲良くして、何のメリットがあるんだ? 俺の忠告を聞かないと、後で後悔するぞ」


 周囲もまた、イリアがアルバートに取り入ろうとしているのだと噂した。最初のうちは、イリアもアルバートの好意を素直に受け入れることができなかった。


「いえ、結構です。私はひとりで勉強したいので」


しかし、アルバートはめげずにイリアに話しかけ続けた。


「無理強いはしないよ。でも、もし気が変わったら声をかけて。いつでも歓迎するよ」


 周囲の人間はレイチェルを気にして、イリアに話しかけるものはいなかった。それでもアルバートだけは全く気にせずに話しかけ続ける。


 彼の誠実な態度に、次第にイリアの心も開かれていった。

「アルバートさん、いつもありがとうございます。お話、楽しいです」


また、外にも積極的に誘ってくれた。

「イリアさん、今度街で開かれる展覧会に行きませんか? あなたの好きな画家の作品が展示されているそうです」


「ええ、ぜひ!」イリアは嬉しそうに答えた。アルバートとの会話はいつも刺激的で、新しい世界を見せてくれた。



カイルはふたりの親密さを格好の口実と捉え、ついに婚約破棄を通告した。「イリア、俺たちは終わりだ。お前の家とつながっても俺には何の得もない」冷酷な言葉とともに婚約破棄を告げられた日の午後は、空の色さえも灰色に染まっていたように感じた。


「そうですか、分かりました」イリアは静かに頷いた。


 イリアは深い悲しみと屈辱に打ちひしがれた。カイルを愛していたわけではない。ただ、これからの未来に希望を持てなかった。

 そのことを知ったアルバートは、静かにしかし力強い声で言った。「イリアさん、心配しないでください。5年後、卒業したらあなたを迎えに行きます。僕を信じて待っていてください」


イリアは驚き、そしてわずかな光を感じた。伯爵家から商人の家に嫁ぐことは、例え大きな商会であっても身分違いとして簡単ではない。普通であれば、家名を守るために別の貴族との縁談を強制されるだろう。「……5年後。それまで、期待せずに待っています」イリアは精一杯の強さで答えた。


(ありがとうございます、アルバートさん。信じて、待っています)



 学園を卒業し、実家に戻ったイリアは予想通り他の貴族との縁談を迫られた。


「お前の家のために、子爵家との縁談を取り付けたぞ。感謝しろ」


しかし、イリアはアルバートとの約束を胸に、全ての縁談を断り続けた。

「申し訳ありません、父上。ですが、私は結婚する気はありません」


 縁談を断るイリアは家族からも煙たがられた。

 5年という長い時間、不安と孤独に苦しめられることもあった。それでもマメに送られてくる手紙に慰められ、「イリアさん、元気ですか? 僕は順調に商会を大きくしています。もうすぐあなたを迎えに行けます」アルバートの言葉を信じて待ち続けた。

 また、イリアは少しでも商会の手伝いを出来ないかと、商人としての勉強も始めていた。




そして約束の5年が経った。アルバートは宣言通り、見違えるほどの成功を収めていた。彼は自ら商会を立ち上げ、類まれな商才で事業を拡大させていた。そしてイリアの家に莫大な財産を提示し、結婚の承諾を勝ち取ったのだ。


「伯爵様、イリアさんを僕にください。必ず彼女を幸せにします」

周囲の人々はアルバートの成功とイリアの幸運に驚き、そして羨んだ。



 今、イリアはアルバートの待つ商会の屋敷へと向かっている。使用人すら連れずに。窓の外に広がる緑は5年前とは違って、希望に輝く未来を象徴しているように見えた。過去の苦しみはアルバートの深い愛情によって癒され、新しい人生への期待に胸が膨らんでいた。


「もうすぐアルバートさんに会える……!」馬車はイリアの新たな人生の始まりへと、力強く進んでいく。






 馬車は大きく弧を描き、噴水と花壇を擁した壮麗な屋敷の前に止まった。鉄の門扉には精緻な装飾が施され、白亜の壁は初夏の陽光を浴びて輝いている。


(なんて素敵なお屋敷……)


かつて伯爵家の令嬢として数々の貴族の邸宅を見てきたイリアでさえ、息を呑むほどの美しさだった。それは古びた伯爵邸とはまるで異なる、活気に満ちた華やかさ。そして何より温かさを感じさせるものだった。


馬車の扉が開くと、階段を駆け下りてきたアルバートの姿が目に入った。5年前より逞しくなった体躯、精悍さを増した顔立ち。だが優しい眼差しは変わっていなかった。


「イリアさん! ようこそ、我が家へ!」


アルバートの声に屋敷の使用人たちが一斉に頭を下げた。老執事と思しき男性を筆頭に、メイド、庭師、料理人。皆が笑顔でイリアを迎える。生まれて初めてこれほどの歓迎を受けたイリアは、驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。


「……アルバートさん」


緊張でかすれた声で呼びかけると、アルバートは優しく微笑んでイリアの手を取り、屋敷へとエスコートした。


「長旅、お疲れさまでした。ゆっくり休んでください。なんでも言ってくださいね」


 屋敷の中は外観と同じく洗練された美しさだった。高い天井の広間には豪奢ながらも落ち着いた雰囲気の調度品が置かれ、大きな窓からは陽光が降り注いでいる。使用人たちは皆、イリアに細やかな気配りをしながらも必要以上に近寄ることなく、程よい距離感を保っていた。アルバートの心遣いが伝わってきて、イリアは安堵の息を吐いた。


 その日の夕食は、豪華絢爛の一言に尽きた。新鮮な海の幸、山の幸をふんだんに使った料理の数々は、どれも伯爵邸では考えられないような贅沢なものばかり。食卓を彩る美しい花々、柔らかなキャンドルの灯り、そして何よりもアルバートの温かい言葉がイリアの心を満たしていく。


 夕食後、暖炉の火が優しく揺らめく応接室でふたりは向かい合って座った。


「イリアさん、改めて結婚を承諾してくれて、本当にありがとう」


アルバートは真剣な表情でイリアを見つめ、小さな箱を差し出した。中には、輝くダイヤモンドが埋め込まれた美しい指輪があった。


「これは……」


「ささやかながら、結婚指輪です。式は挙げられませんでしたが僕の気持ちの証です」


イリアは感極まって言葉が出なかった。そっと指輪を受け取り左手の薬指にはめると、ひんやりとした感触が心地よかった。


「アルバートさん、本当にありがとうございます」


涙で潤んだ目でアルバートを見つめると、彼は優しく微笑み返した。


「これから、一緒に幸せになりましょう」


その夜はふたりの未来について語り合った。イリアはこれまで誰にも話せなかった、商会の手伝いをするために勉強していたことを打ち明けた。


「まさか、イリアさんが……!」


アルバートは驚き、そして深く感銘を受けた様子だった。


「素晴らしいです! ぜひ、一緒に商会を盛り上げていきましょう!」


イリアは力強いアルバートの言葉に勇気づけられ、未来への希望に胸が膨らんだ。


 会話の中で、アルバートはレイチェルとカイルの近況についても話してくれた。レイチェルの家は戦争の影響で財産を失い、没落寸前だという。カイルは侯爵家との繋がりを保つため、レイチェルとの結婚を余儀なくされたらしい。


「因果応報、というやつでしょうか。僕は稼がせて貰いましたけどね」


と、アルバートは黒い笑顔で言った。


(アルバートさん、なにもしてませんよね……?)


イリアはかつて自分を嘲笑ったふたりへの同情よりも、アルバートとの出会いへの感謝の気持ちでいっぱいだった。


「アルバートさん、あなたと出会えて本当に良かった」


イリアは心からの感謝を込めて、アルバートにそう告げた。アルバートは優しくイリアの手を握りしめ、温かい笑顔で応えた。


「僕もです、イリアさん。あなたと出会えたからこそ今の僕があります」


暖炉の火の温もりとアルバートの深い愛情に包まれて、イリアは過去の苦しみを乗り越え新たな人生へと踏み出していくのだった。



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