第9話

 先生の長い説明が終わったあと、生物室では二人一組になっての実験が開始されていた。しかし皆が楽しそうに取り組んでいる中、僕と雨宮さんはずっと無言だ。というのも、実験のことでなにか相談し合えればよかったのだが、その手順は配られた教材に詳しく書かれていたため、無理に会話する必要もなかったからだ。

 すると突然、『くくくっ……』と笑いをこらえる声が耳に入ってくる。雨宮さんの声だ。ただその声は僕にだけ聞こえていたらしく、向かい側に座る西園寺さんは実験に夢中でまったく気づいていない。


(ここしかない――)


 そう思った僕は勇気を振り絞り、周りには聞こえないほどの小さな声で雨宮さんに話しかけてみた。

「ど、どうしたの? 雨宮さん」

「……ごめん。思い出し笑いしちゃった」

「思い出し笑い? なんのこと?」

「さっきのやり取りのこと。鈴木くんと亜理紗、仲いいなと思って」

「そ、それ、西園寺さんに聞かれたら、また僕が怖い目に合うよ……」

「あははは。そうだね。でも、いいコンビだよ」


(僕が『三郎』として会話していることが、とても不思議だ。しかも笑っている雨宮さんと話せたことが嬉しい。これって、もしかすると『三郎』の僕でも友達になれるんじゃないか――)


 そんなことを考えながら実験を続けていると、驚くことに今度は雨宮さんの方から話しかけてきた。それも耳元で囁くように。

「さっき、亜理紗が席を替わろうとしてくれたでしょ? なんでかわかる?」

「僕の隣に移動しようとしたこと? わからないけど……」

「鈴木くんだけに教えるけど……。誰にも言わないでね」

「……う、うん」


「私ね……。男性恐怖症なんだ」


「……!」

「だからね、私のことを心配して替わってくれようとしたんだよ。これ知ってるの、家族以外だと先生と亜理紗だけだから」

 突然のその告白に驚いた僕は、実験の手を止め固まってしまった。そして返す言葉に迷っていると、それに気づいた雨宮さんは首を横に振りながら説明を続けてくれた。

「でも、そんなに深刻な状況でもないから大丈夫なんだよ。以前に比べると最近はちょっとマシになってきてね。普段の生活くらいなら問題なくって、少し離れて話すくらいなら大丈夫になってきたんだ。でも、すぐ隣まで近づくのはまだちょっと難しいかなぁ。だから手をつなぐのなんて絶対無理でね。あははは。困ったもんだよ」


(まさか雨宮さんが男性恐怖症だったとは……。前に彼女が、『男女で友達にはなれない』と話していた本当の理由はこれだったのかも――)


 そんな考えが頭をよぎる。と同時に、頭に浮かんだ一つの疑問があった。

「い、今は大丈夫……なのかな? 僕と近いような気もするけど」

「それが不思議なことに、なぜか鈴木くんは大丈夫なのだよ」

「え? 僕なら大丈夫……って、ど、どうして……」

「だから、それがわからないから不思議なのだよ。あははは。なんでだろ?」

「ぼ、僕に聞かれても……」

「実はさ、鈴木くんを初めて見たとき、なぜか君なら大丈夫かもって思えたんだよね。理由はわからないんだけど、なんかそんな気がして。だから、あのとき――私が停学になったときね、試しに限界まで顔近づけてみたんだ」

「だ、だからあんなことしたの?!」

「そう。試すなら今だ! ってね。あははは。ごめんね」

「そういうことだったんだ……。それで、実際問題なかったってこと?」

「そうなの。他の男子ならあんな距離、絶対無理。試すことすらできないよ。だから、確信したんだ。やっぱり私は鈴木くんが――」

「……僕が?」

「あ、いや、わ、私は鈴木くんが……相手なら問題ない! と確信したって話だよ」

「そうなんだね。でもその理由がわかれば、克服できるヒントになるかもしれないよね」

「それね。たぶんだけど、鈴木くんが中性的な感じなのが原因かもって思ってる。いつも前髪下ろして伏し目がちだからわかりづらいけど、君ってよく見たら女子っぽいところあるから。だって身体は細くて指も細いし、肌も綺麗で白くて、まつげも長くて……」

 じっと見つめながら顔をぐっと近づけてくる雨宮さん。恥ずかしくなった僕は、たまらず顔を逸らしながら両手で壁を作った。この人の距離感は普通じゃない。

「ちょっ、ちょっと近いっ! ぼ、僕は男だからね!」

「あ。ご、ごめんね。ついまた試してみたくなって。でもさ、余計なお世話かもしれないけど、もっと前髪上げて顔見せた方がいいと思うけどなぁ。その方が明るく見えるし、もっとお顔が見えた方が嬉しい……あ、その……、み、みんな嬉しいと思うなぁ」

「そうかな……。そんなの初めて言われたよ。どちらかといえば、顔色もよくなくて気持ち悪がられるタイプで――」

「そんなことないよ。鈴木くんは気持ち悪くなんかない。少なくとも私は、そんな風に思ったことなんて一度もないよ」

「雨宮さん……」

「もしそんなこと言う奴がいたら、また私が一発殴って……は駄目か。叱ってあげる。あははは」

「あ、ありがとう……」

 嘘のない真っ直ぐな目で肯定された僕は、今まで散々だった人生が救われた気がした。そして今ならなんでも言えそうな勇気が沸いてくるのだった。

「あの……。雨宮さん」

「ん? なあに?」

「前に、男女で友達になるのは難しいって言ってたでしょ?」

「うん……。そだね」

「その……僕でも難しいのかな」

「それって、もしかして……」

「僕と友達になって欲しい」

 やっと伝えることができたその言葉。

 熱くなる身体。激しく響く心音。

 あまりの緊張で、雨宮さんの顔を見ることができない。

 でも恐くはない。絶対に大丈夫だ。自分を信じろ。

 なぜなら雨宮さんは、男性恐怖症でありながらも、僕なら大丈夫だと言ってくれた。

 そして……僕のことが好きだと言ってくれた。

 だから、答えは『YES』に決まっている――。


「……ごめん。鈴木くん……ごめんね」


 人生そう甘くない。僕は見事に撃沈したのだ。

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