第1章

第1話

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


 それは肺活量を測っていたわけでも、気功を練習していたわけでもない。

 自分の部屋で、口から魂が抜け落ちそうなほどの溜息をついていたのだ。

 その理由は二つある。一つは当然ながら雨宮さんの一件のこと。暴力事件があったのは一週間ほど前のことだが、彼女はその日から十日間の停学処分となってしまったのだ。それに責任を感じていた僕は、思い出すたび溜息が止まらなくなるのだった。

 ただ、担任教師からは、これでも軽い方だと聞かされていた。相手は鼻を骨折していたらしく、しかも僕をいじめている証拠がない状況での一方的な暴力だったこともあり、本来であれば二十日以上の無期停学か退学が通例だったらしい。しかしあの事件後に呼び出された僕が勇気を振り絞り、集まった保護者たちの前で涙ながらにいじめの事実を告白したこと、また、いじめていた側もその事実を素直に認めたことで、彼女の処分は軽くなったそうだ。

 ちなみにだが、そのいじめていた側全員も、彼女と同じ十日間の停学処分に収まった。そのような軽い処分で済んだのは、彼らに反省の意思が見られたことが理由だったようだが、本心かどうかはまだわからない。

 そして僕は、あのとき教室で会話したのを最後に雨宮さんと会えていない。できればすぐにでもお礼と謝罪の気持ちを伝えたかったのだが、彼女の自宅住所はもちろんのこと、電話番号もSNSのアカウントも……なにも知らない僕には為す術もなかった。

 そして今日は日曜日。折角の休みで外は晴天だというのに、僕は自宅二階にある自室に籠り、落ち込みながら深い溜息をついていたのだ。

 しかし溜息の理由はそれ一つではない。もう一つの理由、それは。

「ちょっと、サブ。集中してる?! ちゃんとブラも着けてよ」

 その声の主が今、僕の部屋に居座っていたことだ――。


 僕のことを『サブ』と呼ぶ相手、それは『鈴木二心(にこ)』。僕の姉だ。

 ただ、姉といっても同じ歳で同じ誕生日、そして同じ親を持つ姉弟(きょうだい)――すなわち僕たちは二卵性の双子なのである。だが、彼女は小学から高校までずっと私学の女子校に通っているため、僕に双子の姉がいることを知る同級生はいないだろう。

 とはいえ『二心』自身を知る人は多い。なぜなら、彼女は母が代表を勤めるモデル事務所に小学生の頃から所属し、今ではJKのカリスマ的存在として雑誌に名前や顔が出ることも多いファッションモデルだったからだ。

 地味で根暗でぼっちな僕とは別の世界線で生きる姉。僕の目には彼女の生き方が眩しく映し出され羨ましく思っていたが、そんな彼女にも一つ問題があった。それは、母に溺愛され箱入りだったこともあり、世間知らずで自信家で我儘で傲慢なお嬢様(モンスター)に育ってしまったことだ。それが原因で周りからは疎まれることもあるようだが、当の本人は『私を妬んでるだけよ』とまったく気していないから、余計にたちが悪い。

 ちなみに彼女が姉弟の上から二番目だから『二心』、そして僕が三番目だから『三郎』と名づけられた。そして一番上には名前に『一』が付く長女『一蓮(いちれん)』がいるのだが、彼女は僕たちと離れて暮らしている。というのも四つ年上の一蓮姉さんは、大学が近いという理由から、母と離婚して別居している父との同居を選んだからだ。余談であるが、父はあまりにも適当でいい加減な生き方をする人で、それに我慢の限界を迎えた母が家から追い出したそうだ。その適当さは、姉弟の中で唯一父が考えた『三郎』という名からもわかるだろう。というのも、僕たちが生まれた日、母から『女の子の名は《二心》にするから、男の子の名はあなたが決めて』と言われた父は、それこそ適当に『三郎』と書いた出生届けを、母に確認することなく勝手に役所に出したというのだから驚きで――いや、今そんなことはどうでもよかった。

 話しを戻そう。今、大きな溜息がでるほど問題となっていたのは、二心が突然僕の部屋にきて、無理矢理に女装をさせ始めたことだったのだ――。


「あのさ、二心。僕にブ、ブラとか勘弁してくれないかな……」

「なに言ってんの。ブラ着けないとシルエットがおかしくなるでしょ」

 ベッドに腰掛け長く綺麗な黒髪を櫛で梳かしながら、冷静な様子でそう返答する二心。そんな彼女の目の前には、用意されたウィッグを被り、パン一の状態で姿見を確認しながら必死にブラを着けている僕がいる。

 僕に女装趣味はないし、こんな羞恥プレイに喜ぶ性癖もないのだが、昔から二心の頼みは強く断ることができない。なぜなら彼女の機嫌を損ねると、あとが怖いからだ――。


「確認だけどさ。目の前で弟に女装させてる自分がおかしい、ってことはわかってるよね?」

「だからぁ、さっき説明したでしょ? 明日、すんごく大事な取材があるんだけど、それに着ていくお洋服がどうしても決まらなくてね。客観的に全体を見て決めたいと思ったのよ」

「だからって、なんで僕なのかな……。あ、そうだ。それなら二心が着た姿を、僕がスマホで撮ってあげるよ」

「それも考えたけど、スマホだと画面が小さいからわかりずらいのよね」

「だったらモデル仲間の女子に頼んだら? 二心は友達多いんだし……」

「それなら事務所にあるマネキンでも一緒。そうじゃなくて、サブだからいいのよ」

「僕だから? どういうこと?」

「確か小学五年のときに二人で遊んでいて、お母様のウィッグを着けて私の服を着てもらったことがあったでしょ? あのとき、私に瓜二つだったことを思い出したから」

「ああ……。そう言えばそんなことあったね。確かにそっくりでびっくりしたけど」

「二卵性とはいえ、姉弟なんだから似ている部分も多いのよね。だってあのとき、お母様でさえ見分けがつかなかったくらいだもの。今だってそうよ。身長も体型も似てるから、たぶんサブに着てもらうのが一番参考になるはず――」

「ほらっ、着終わったよ! これでいい?」

 早く終わらせたい僕は、二心がコーディネートした洋服一式を急いで身に付けると、お嬢様が挨拶するかのように両手でスカートの裾をつまみ、くるりと回転してみせた。

 するとそれを見た二心は、両手を顔の前で拝むように合わせて、目をキラキラとさせながらベッドから立ち上がる。

「すごい! サイズぴったりじゃないの! サブは身長いくつだっけ?」

「この前の身体測定で、一七三センチだったかな」

「やっぱりね。私とまったく同じだわ」

「二心は女子の中では背が高い方だよね。それならこういう可愛い系より、かっこいい系の方が似合うんじゃない?」

「それなら普通でしょ。私みたいなデカ女がこういうの着ることに意味があるの。同じような身長で可愛い服着れない人の参考になるでしょ。それが私のお仕事の一つなの」

「そっか……。なるほど」

「そんなことより、ほら。ちょっとこっち来なさい。仕上げしてあげるから」

「……仕上げ? まだなんかするつもり?!」

 すると二心は僕の手を引いて目の前に正座させると、持参した鞄からいろいろ取り出して僕の顔にメイクをし始めるのだった。

「ちょ、ちょっと! そこまでする必要ある?!」

「あるでしょ! 男の顔のままでそんな格好されても、キモすぎて見てられないから! それにしても……毎日ご飯食べてるのよね?」

「ご飯? 小食だけど三食ちゃんと食べてるよ。なんで?」

「痩せすぎでしょ。肩も腰も腕も……男とは思えないほど細いし。お尻は私の方が大きいんじゃない? 私と同じくらいの身長でこのサイズの服を着られる男がこの世にいたなんて驚きよ。だって私、かなり厳し目の食事制限してるしね……」

「そうなんだ。二心は見えないところでも、いろいろと努力してるんだね。偉いよ――」


(二心とこんな話するのは初めてだったな。最近は会話することも減ったけど、僕は誰よりも二心のことを理解しているつもりだ。トップデモルであり続けるために人の何倍も努力していること。学校との両立を周りに反対させないために勉強も頑張ってること。我儘で自信家だけど、そういう努力の裏づけがあることを僕は知ってる。でもこの負けず嫌いな性格は、幼い頃からずっとだった。どんなことに対しても人目も気にせず一所懸命で、なにかで一番になるたび僕に報告しにきてくれた二心。そしていつも『頑張ったね』と声をかけ頭を撫でてあげると、嬉しそうに笑ってたっけ――)


 そんなことを思い出していた僕は、いつの間にか無意識に二心の頭に向かって右手を伸ばしていた。するとその手を反射的に掴んだ彼女は、顔を真っ赤にして睨み返してくる。

「ちょ、ちょっと……。まさか、頭撫でようとしたんじゃないわよね……」

「あっ! ち、違うよっ! あ、頭にゴミついてたから!」

「ならいいけど! もし頭撫でてたら、キモすぎて顔面タコ殴りにしてたところよ。それと急に変なこと言わないで。キモイから」

「二心が偉いって言ったこと? 思ったことを言っただけだよ。僕と違って本当に頑張ってるしさ。すごいよ」

「それがキモいって言ってんの。でもさ……サブも勉強して、私よりも上の高校に合格したじゃん。あんたもさ……その……頑張ってるんじゃないの? お母様もめずらしく褒めてたし。でも、この前はいろいろ大変だったみたいね……」

「そっか。母さんから聞いたんだね。学校でのこと――」

「よし、できたわよ! ほら、やっぱり! 予想通り……いや、予想以上だわ! 鏡見て!」

 興奮する二心を落ち着かせながら、二人並んで全身を映す姿見を確認する。と同時、僕は絶句してしまった。なぜならそこに映っていたのは、二人の二心だったからだ。いや、そのうちの一人は当然僕なのだが、あまりにもそっくりで自分でも見分けがつかないほどに瓜二つだったのだ。


(嘘でしょ……。本当にこれが僕? 冴えない僕がこんなキラキラした姿に……。それもトップモデルと言われる二心になれるなんて――)


 僕はその嬉しさで、にやけた顔を戻すことができなくなる。

「キモい。なにニヤニヤしてんのよ。お願いだから、変なことに目覚めたりしないでよね」

「な、なに言ってんの?! ちょっとびっくりしてただけだよ」

「サブって女性っぽい声だけど、声変わりしたのよね? ちょっと高い声出してみて」

「高い声? えっとぉ……。あー、あー、あー、あー、あーーーーー」

「はい、そこ! その高さで私と似てるかも……あれ? あんた喉仏どこにやったのよ」

「知らないよ! そんなの気にしたことない。ずっとこうだよ」

「髭もほとんど生えてないし、女性ホルモンが多いのかしら……。それにしても、ほんと瓜二つね……。一卵性だと言っても誰も疑わないと思うわ。顔だけじゃなくて、身長も体型も声もそっくり……。自分のクローン見てるみたいで変な感じ」

「ということはさ。メイク落とした二心は、僕みたいな顔に――」

「それ以上言ったら殴るわよ。スマホの顔認証ができなくなるくらいにね」

「い、言いません……」

 そんな感じでふざけていたのも束の間、そのあと僕は着せ替え人形かのように、何着もの服を着さされることになった。そして二時間ほど経過し体力も限界に近づいたとき、やっと二心が明日の取材で着ていく服を決断したのだった――。


「それじゃ、二心。今着てるこの上下で決まりってこと? でもこの服、ほんと可愛いと思うよ。これなら明日の取材もばっちりじゃないかな」

 姿見に映る自分を見ながら、まんざらでもない顔をしてしまう僕。すると二心はベッドの上に散乱している服の中から一組の上下を手にとって見せてきた。

「私が明日着るのは、こっちにするから」

「あ、そうなんだ……。でも確かに、そっちのセットも可愛いよね。僕もソレかコレのどちらかだとは思ってたんだ」

「へぇ……。私と同じ好みだなんて、センスあるじゃん……」

「僕にセンスはないと思うけど……着てみてなんとなく気持ちが上がったのがこの二つだったからね。でもそれじゃあ、今着てるこの服のお披露目はまた今度ってことか。ちょっと残念」

「……だったらそれ、あんたにあげるわ」

「……はい?」

「だから、そんなに気に入ったのなら、サブにあげるって言ったの。今日のお礼」

「あははは。二心、なに言ってんの? 僕が女子の服もらっても着るときないじゃん」

「確かにそうよねぇ。でもそれ買ったばかりのお洋服でさぁ。誰にも見てもらえないのは可哀想だしぃ。どうしよっかなぁ……。あ、いいこと思いついた」

 そう言ってニンマリとした二心は、またとんでもないことを言い出した。


「今からその格好で外に出てお披露目してきてよ」

 その言葉を聞いて一瞬で背筋が寒くなった僕。

「……え。ちょ、ちょっと待ってよ。なに言ってんの? 冗談?」

「冗談じゃないって。本気だから。いい天気だし、ぶらっと散歩でもしてきたらどう?」

「ひ、一人……で?」

「当たり前でしょ。同じ顔の二人が並んで歩いてたら目立つし」

「いやいや、駄目でしょ! 冗談やめてよ。もう終わりなら脱ぐからね」

 すると二心は僕の肩に手を置き、真面目な顔で迫ってくる。

「なに脱ごうとしてんのよ。だから、マジだって。今から任務を与えるから、それが終わるまでそれ脱いじゃ駄目だから。達成できなかったら、これ晒すわよ」

 二心がそう言って手に持つスマホには、僕が姿見の前でブラを着けている写真が映し出されていた。そして不適な笑みを浮かべながら指で次々にスワイプし、連写したかのように僕が女子になっていく様を見せてくるのだった。

「さ、晒すってどこに?!」

「私がアカ持ってるSNSのすべてによ。おそらく数万人が見ることになるわね」

「脅迫?! 意味わかんないよ! なんで? なんのため? 誰が得するの?!」

「あははは。脅迫は半分冗談だけど、こうでもしないと外に出ようとしないでしょ? ずっと家に籠って落ち込んでるみたいだし、見てらんないわ。だからその格好で外に出て、気分転換でもしてきたらどうかなって……」

 恥ずかしそうに目を逸らしながら、そう提案した二心。ここで僕は、その言動の意味を推し量った。おそらくだが、僕が学校でいじめられていたことを知った彼女は、僕を励まそうとしてくれたのだろう。それをシンプルに言葉で伝えることが照れくさかったため、こういう遠まわしな方法を選んだのかもしれない。

 しかしだ。さすがに僕が女装して外へ出るのは無理がある。

「その気持ちは嬉しいんだけど……。気分転換の方法、間違ってない? だってさ。こんな姿で外に出て、同級生とか近所の人とかに見られたら、僕の人生終わりだよ」

「ふふふ。それは絶対に大丈夫よ。そのまま外に出ても絶対に男だってばれないから。実際に目の前で見てる私が言うんだから間違いないし、今のサブは誰がどこからどう見ても鈴木二心そのものだから心配ないわ」

「まあ、確かに自分で見ても二心にしか見えないけど……」

「だったらさ。今日は私を信じて欲しいな……」

「……二心?」

「……私がね。辛くてもモデル続けられるのは、いろんな可愛い服が着れて、そのたびに新しい自分に出会えるからなの。疲れた心がリセットされて『もう一回頑張ろう』って思えるのよ。だから、サブもその姿で街に出て、新しい自分を感じてみて欲しいな。学校でなにがあったのか細かくは知らないけどさ。今だけは全部忘れて楽しんできなさいよ」

「二心……ありがとう。そんな風に考えてくれてたなんて嬉しいよ。でもさ……やっぱりごめん! この格好で外に出るのはちょっと厳しいかな。あはは……」

 すると煮え切らない態度の僕にイラつき始めた二心の表情が、温和モードから冷酷モードへと切り替わるのがわかった。そして再び手にしたスマホをちらつかせてくる。

「それじゃあ、この写真、アップしてもいいのね?!」

「い、いや、それは冗談だってさっき――」

「半分冗談って言ったのよ。ということは半分本気だから。私が、やると言ったらやる女なのは知ってるでしょ? さぁ、どうする?! 外に行くの? 行かないの? どっち?! 今すぐ決めなさい。でないと『#(ハッシュダグ)弟が変態すぎる』で投稿するから!」

「わ、わ、わかった! わかったから、待って!」

「じゃあ、行くのね? お姉ちゃん、嬉しいわ」

「二心は、ほんとにやりかねないから怖いんだよ! もう……それじゃあ勇気だして、ちょっとだけ冒険してくるけど、ちょっとだけだよ? すぐに帰ってくるからね」

「よく言った。それでこそ私の弟よ。今は妹だけど」

「でもなぁ……。本当に大丈夫かなぁ。怖いよ……」

「そんなに心配しなくても大丈夫。もし外でなにかあっても連絡くれたら、すぐに助けに行くから。それで『姉弟で遊んでて罰ゲームやってましたぁ!』とかでも説明すりゃ大丈夫でしょ。あ、ごめん……。『罰ゲーム』って言葉は禁句だったわね」

「別に禁句じゃないから……。でも助けてくれるって聞いてちょっと安心したよ。で、さっき言ってた『任務』ってなに? 外でなにしてきたらいいの?」

「ああ、それね。なににしようかしら。それじゃあ……駅前のモールで可愛い系のブラ買ってきて。Dカップだから」

「……僕で遊ばないでくれるかな。それと、弟にDカップとか言わないでくれるかな」

「冗談よ。んじゃ、駅前にできたコーヒーショップで適当になにか買ってきて――」


 そのあと部屋を出た僕と二心は、一階にいる母に見つからないよう静かに階段を降り、玄関まで到達することに成功した。

 しかしここへきて、履いていく靴を決めてなかったと気づいた二人。僕はその焦りと緊張で心拍数が一気に跳ね上がるが、まったく動じていない二心は音を立てないよう静かに靴箱を開け、どれにしようかと選び始めた。

 その表情は僕とは対照的で、どこかワクワクしながらこの状況を楽しんでいるかのようだ。それを見てふと、よく二人で遊んでいた幼い頃を思い出す。その頃の僕たちはとても仲がよく、なにをするにもいつも一緒だった。その情景がフラッシュバックした僕は、自然と心が落ち着き、つられて笑顔になるのだった――。


『ほらっ。これでどお?』

 小声でそう言いながら、白いサンダルを差し出してくる二心。僕はそれを受け取り、駄目元で履いてみたのだが、そこで奇跡が起こる。なんと、僕は二心の靴が普通に履けてしまったのだ。僕たち姉弟は服だけでなく靴のサイズまでもがまったく同じだったと判明したのだ。

 その事実にテンションが上がり、無言のままハイタッチして喜びを表現した僕と二心。その勢いにも助けられ、僕は意気揚々と玄関の扉を開けることができた。そして外に広がる新しい世界へと足を踏み出したのだった。


 ■■□□■■□□■■□□■■


 僕に行くよう二心が指定した『駅前にできたコーヒーショップ』。そこは家から歩いて十五分ほどであり、それほど遠くはない距離だったが、そのショップへ近づくにつれ僕の足取りは重くなる。なぜならそこは若者に人気がある有名店で、常にその客の七割以上がJKであると噂の、僕みたいな陰キャ男子にとっては超絶アウェイな場所だったからだ。

 そんなショップに、まさか女装して行く日が来ようとは。そこでもし万が一、僕が女装だとばれてしまったら、いったいどうなってしまうのだろうか。写真を撮られ『店にやばい男いてマジやばいw』などとSNSに晒され、それが軽くバズったりなんかして、同級生に見つかって冷やかされ、僕は学校に行けなくなって……。と、そんな嬉しくもない未来予想図が頭の中でループしてしまう。

 それに、二心は『絶対に大丈夫』と言っていたが、その判断が正しかったのかも疑わしい。というのも、すれ違う人の多くが僕をやたらと見ているように思えて仕方がないからだ。それもどことなくだが、皆がニヤニヤと嘲笑っているかのようにも思え、そんな光景が更なる疑心暗鬼を引き起こしてしまうのだ。

 その結果、目的地まであと少しというところで僕の足はピタリと止まり、それ以上前に進めなくなってしまった――。


「やっぱ、もう帰ろっかな。でもなぁ。二心、怒るだろうなぁ……」

 そう呟いたあと、人目につかない場所へ移動する僕。メタセコイアの木が一直線に植えられた綺麗な並木道。その脇の木陰にあった鉄柵にもたれ、並行して流れる川を眺めながら大きな溜息をついた、そのときだった――。

「こんにちはぁ」

 不意に横から声をかけられ息を呑む僕。それでも『まさか僕に挨拶したわけじゃないよな』と自分に言い聞かせ、視線を川から動かさず無視を決め込んでみた。しかし。

「あの……。こんにちはぁ……」

 再び耳に入る声。確実に横数十センチのところに人が立っている。それも女性だ。

 これはどう考えても僕が挨拶されている状況。それでも一縷の望みに賭ける僕は、警告音かのように鳴り響く心音を感じながら、まずはその声と逆方向を確認してみた。……しかし誰もいない。続けて背後を確認する。……が、目に入る人はいない。その結果に『やっぱ僕かぁ』と小さく呟きながらも覚悟を決めた僕は、恐る恐るその声の方向へと顔を向けてみた。

 そして目に映った人物。その女性を見た僕の口からは、大阪出身である父親譲りの『んなアホな……』という関西弁が無意識に飛び出てしまうほど、激しく混乱するのだった。

 なぜならそこに立っていたのは、紛うことなき雨宮さんだったからだ――。


「あれ? 関西の人……? どうかしました?」

「え、ち、ちがっ……。なな、なんでもないよ!」


(いや、なんでもなくないよ! 最悪だ……。見られてしまった……。それも雨宮さんに! わざわざ向こうから声をかけてきたってことは、完全にばれてるってことだ。でもなんで? どうしてここに?! 今まで外で出会うことなんてなかったのに、どうして今日に限って雨宮さんが――)


 錯乱する僕が次の言葉を考えている間、雨宮さんが心配そうに声をかけてきた。

「驚かせてしまって、すみません。今、ちょっとお時間いいですか?」

「時間?! え、えっとぉ……。う、うん。大丈夫――」


(いや、大丈夫なわけないよ! 考えろ! いったいどうすればいい?! どう言い訳すれば……。なにかうまい言い訳を……。言い訳……。そうだ! 二心だ! なにか問題が起きたら電話しろと言われてたじゃないか! 今がまさにそのとき! すぐに来てもらって、助けてもらって……って、あれ? んんんん? ちょっと待てよ……。今、『すみません』って言われたような気がする。語尾も『ですか?』だったような。敬語? この僕に? この前は普通にタメ口だったのに? ということは……もしや雨宮さん、僕だと気づいてない?! そうか! 彼女は僕のことを『二心』だと思って話しかけてるのかも――)


「私、天河学院の生徒で雨宮という者なんですけど、フォトグラファー志望でして――」


(フォトグラファーってなんだっけ? 高そうな一眼レフのカメラを手に持ってるから、カメラマン志望ってことか。そう言えば雨宮さんの私服姿……初めて見たな。ライトグレーのデカTに黒い細パンツ姿でピアスして……かっこ可愛い。二心……というか僕が着てるヒラヒラしたお嬢様系とは真逆だなぁ。僕もこんな服着たら、かっこ可愛くなれるのかな……ってそうじゃない! そんなこと考えてる場合じゃないでしょ! とりあえずうまく誤魔化して、早くここから逃げないと! でも普通に声出したら絶対にばれるから、なるべく高い声にして……。 それで二心っぽく、横柄で上から目線な感じで――)


「な、なにかご用かしら?!」


(やっぱ無理! なんか恥ずかしい! ごめん、二心――)


「突然、すみません。もしよろしければ写真のモデルになっていただけないでしょうか! お姉さんがとてもお綺麗で可愛くてびっくりして! 是非、撮らせて欲しいなって――」


(えぇ? 綺麗? 可愛い? 僕が?! あ、そうか。今の僕は二心なんだから、正しくは『二心が』そう見られてるのか。とはいえ、容姿を褒められるなんて生まれて初めてだし、すごく嬉しい。こんな僕とは違って、二心は毎日のようにこんなこと言われてるんだろうな。ほんと、双子とは思えない……って、そうじゃない! 僕が写真のモデルだって?! 無理無理無理無理無理無理無理無理。そんなの恥ずかしいし、ポーズとかできないし、絶対ボロがでる! 受けたら駄目だ。やんわりと断ろう。でも、おそらくだけど、雨宮さんは二心のことを知らずに声をかけてきたみたいだな。だったら、無理に二心を真似て話す必要もないか――)


「あ、ありがとうございます。でも……モデルはちょっと。ごめんなさい……」

「ああ……ですよねぇ。わかりましたぁ! 突然、無理言ってすみませんでした」


(雨宮さん、とても残念そうな顔してる。なんだか申し訳ないな。それに、もう少しでいいから、このまま話していたい。こんな感じで別れるのは、なんか嫌だ――)


「えっとぉ。ちなみにですけど、その写真って、どこかに出したりします?」

「え? 出すっていうのは……SNSとかですか?」

「そうですね。SNSにあげたり、応募したり、展示したり……」

「今そこまでは考えてないですけど……あ! もしかしてどこにも出さないなら、OKってことですかぁ?!」

「まあ、それなら……。でも、どこにも出す予定のない写真撮っても意味ないですよね」

「そんなことないです。お姉さんの写真は、私の宝物になりますから!」

「宝物?」

「だって、写真ってすごいと思いませんか? 心が動かされる景色って出会えるのは一瞬で、過ぎ去ったらもう二度と目にすることができない。でも、写真ならその一瞬を切り取ることができるんです。それってすごい宝物じゃないですか!」

 そう言って目を輝かせる雨宮さん。そんな彼女を見た僕は、新たな一面が知れて少し嬉しくなった。しかしその大切な写真に、女装した僕が写っていいのだろうか――そんな思いが頭の中をよぎる。

「写真大好きなんですね。その『宝物』っていう意味、わかるような気がします。でも私は……その宝物にはなれない――」

「なれますよ!」

「そ、そうですか……?」

「当然じゃないですか! 私、ここに写真撮りに来たの初めてだったんですけど、こんな綺麗なお姉さんに偶然出会えたことが、ほんと奇跡! ほんと可愛すぎるし! マジ天使! マジ女神! だって同じクラスにプロのモデルやってる友達がいて、その子もめっちゃ可愛いくって、可愛い子は見慣れてたはずなんです。それなのに! 今日、お姉さんを見た衝撃は――」

「ちょちょちょ、ちょっと、待って! ストップ!」

「はい?」

「も、もう、それくらいで……。結構です……」

 僕は必死で雨宮さんの言葉を止めた。なぜなら、興奮した彼女が大声で熱弁したため、すれ違う人たちが次々に足を止め、僕たちに注目し始めてしまったからだ。雨宮さんもそれに気づいたようで、顔を真っ赤にしたまま固まってしまう。

 そんな僕たちはアイコンタクトをしたあと、その場から逃げるように駅前へ向かって歩き始めるのだった――。


「……ごめんなさい。お姉さんに恥ずかしい思いさせちゃいましたぁ」

「大丈夫ですよ。で、でも……『お姉さん』って呼ばれるのも恥ずかしいから、やめて欲しいです。私も同じ高二ですから」

「えぇ?! タメですか?! 見えない……。背も高くて大人っぽく見えたんで、年上なのかと思ってました……けど、あれ? 私、高二って言いましたっけ?」


(しまったぁ! なにやってんだぁ、僕は! 確かに彼女は学年まで言ってなかったように思う! これはまずい……。話せば話すほどボロがでるぞ。ここをなんとかうまく乗り切って、早く写真撮ってもらって退散しないと――)


「聞いてます?」

「……は、はい! 聞いてますよ」

「おかしいな。前にどこかで会ったかなぁ? 高二って言ってないような」

「会ったことないですよ。それと、高二って言ってましたよ」

「そうかなぁ。言ってないと思うけど。絶対言ってない」

「ううん。言いましたよ。絶対に言いました」

「ほんとにほんと?」

「ほんとにほんとです。天河学院二年の雨宮です……って」

「すごい。高校だけじゃなくて、私の名前まで覚えてくれてる……」

「私、記憶力いいですから。だから間違いないですよ」

「そっかぁ。ま、いっか。それじゃ、お姉さん……じゃなくて、えっとぉ……」

「あ、名前? 私のことは……二心って呼んでください」


(念のため、危険だから『鈴木』は言わない方がいいか。それにしても雨宮さん。同じ学年ってわかったからなのか、タメ口にシフトしようとしてるな。やっぱり、友達の多い人ってこういう距離の詰め方って上手だ。でも僕には難しいから、今のまま丁寧口調でいこう――)


「ニコ? 外国の人?」

「あははは。私は日本人です。『二つの心』って書いて『ニコ』って読みます」

「可愛い名前! ということは、そっかぁ。下の名前教えてくれたんだね! 『二心ちゃん』って呼んでいい? 私は『美月』で。美しい月で『ミツキ』ね」

「美月さん……」


 雨宮さんの下の名前を口にすることができた僕は、嬉しくて顔がにやけてしまう。

 と同時に、雨宮さんは僕にカメラを向けて『カシャリ』とシャッターを切るのだった。

「え?! もしかして、今の撮りました?!」

「あははは! ごめんねぇ! 今すんごくいい表情してたから、思わず撮っちゃったぁ!」

 そのあと、駅前近くの川辺で突如始まった撮影会。緊張する僕は全身がガチガチになりながら、不自然な笑顔で下手なポーズをとってみる。

 それがよくなかったのだろうか。雨宮さんは五分ほど撮影しただけで、カメラを降ろしてしまうのだった――。


「はい、お疲れ様! 終わったよぉ」

「も、もう、終わりですか?」

「うん。いいの撮らせてもらったよ。ありがとう!」

「本当……ですか?」

「え? どうして? 本当だよ?」

「だって、私はポーズも下手で表情も硬くて、モデルとしては全然駄目だったはずです。ごめんなさい……」

 すると雨宮さんは首を横に振り優しく微笑みながら、僕にカメラの画面を見せてくる。

「謝るのはこっちだよ。本当は撮影会はなしでもよかったの。だって最初の一枚目で、こんな素敵なのが撮れてたから――」


 そこに映しだされていた写真、それは僕が雨宮さんの名前を口にしたときの顔だった。

 メタセコイヤの鮮やかな新緑を背景にして、恥ずかしそうに微笑みながら『美月さん』と口にした瞬間の写真。それはとても綺麗でキラキラとしていて心が動かされる、そんな素晴らしい写真だった。

 数日前までクラスでいじめられていた僕が、こんな表情で笑える日が来るなんて。ふと、そんな幸せが胸に込み上げると、僕は涙が溢れそうになった――。


「あれ? 二心ちゃん?!」

「な、なんでもないです。ごめんなさい」

「本当に?! 大丈夫?」

「ごめんなさい。最近ちょっと、いろいろあったから……」

「そうなんだ……。私でよかったら、話聞くよ?」

 そう言って心配そうに僕の顔を覗き込む雨宮さんが目に入る。

 すると突然、胸が締め付けられるように苦しくなった――。

(この姿で会えるのはこれが最初で最後。今日が過ぎたら、もうこんな風に雨宮さんと話すことはできなくなる。でも、わかってるんだ。これ以上、深入りしては駄目だってことは。この先へ踏み込んでしまったら、雨宮さんを傷つけることになるかもしれない――)


 ふとそんなことを考えたとき、僕のスマホがブルブルと震え始めた。

 その画面には『二心』と表示されている。

「ご、ごめんなさい。ちょっと……」

 そう断ってから、声が聞こえないよう数歩離れて電話に出る僕。

 すると意外にも心配そうにする二心の声が聞こえてくるのだった。

『ちょっと、サブ! 大丈夫?!』

「え、えぇ? そんなに慌ててどうしたの?」

『いや、慌てるでしょ! 全然帰って来ないから! 変態行為で現行犯逮捕でもされたんじゃないかと心配になって――』

「あ、あぁ。なにもないよ。大丈夫だから。心配かけてごめん」

『あ、あんたの心配なんかしてないし! 今のサブは私の顔なんだから、なにかトラブったら私が被害受けるかもしれないでしょ?! それが気になっただけよ!』

「わ、わかった。わかったから。今からすぐ帰るから」

『ったく、もう……。それじゃあ、誰にもばれず、コーヒーはちゃんと買えたのね』

「あ。コーヒーはまだ買ってない」

『はぁぁぁ?! 今どこよ?!』

「さっき駅前に着いたとこ」

『ちょっとぉ……。なんで十五分くらいの距離歩くのに一時間もかかってんの……。あんた子供なの? 初めてのおつかいなの?! 牛歩なの? 帰りも一時間かけるつもりなの?!』

「わ、わかったから! ごめん! すぐに買って帰るから」

『もういいから! 早く帰ってきなさい!』

 返事を待たずに電話が切れる。

 と同時に『大丈夫?』と後ろから突然声をかけられ、僕は飛び上がりそうになった。

「み、美月さん!」

「なにかトラブル?」

「い、いえ! だ、大丈夫です! 早く帰ってきなさいって家から電話で……。だから、ごめんなさい! ここで失礼します! さようなら!」

 焦った僕は無理矢理に別れを告げ、その場から逃げるように走り去った。

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