第1章

第1話

「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


 それは肺活量を測っていたわけでも気功を練習していたわけでもない。

 自分の部屋で口から魂が抜け落ちそうなほどの溜息をついていたのだ。

 その理由は二つある。

 一つは当然ながら雨宮さんの一件のこと。暴力事件があったのは一週間ほど前のことだが、彼女はその日から十日間の停学処分となってしまったのだ。

 ただ担任教師からは、これでも軽い方だと聞かされていた。相手は鼻を骨折していたらしく、しかも僕をいじめている証拠がない状況での一方的な暴力だったこともあり、本来であれば二十日以上の無期停学か退学が通例だったらしい。しかしあの事件後に呼び出された僕が勇気を振り絞り、集まった保護者たちの前で涙ながらにいじめの事実を告白したこと、また、いじめていた側もその事実を素直に認めたことで、彼女の処分は軽くなったそうだ。ちなみにだが、そのいじめていた側全員も反省の意思が見られたことから、彼女と同じ十日間の停学処分に収まったらしい。

 そして僕は、あのとき教室で会話したのを最後に雨宮さんと会えていない。できればすぐにでもお礼と謝罪の気持ちを伝えたかったのだが、彼女の自宅住所はもちろんのこと、電話番号もSNSのアカウントも……なにも知らない僕には為す術もなかったのだ。

 そして今日は日曜日。折角のお休みで外は晴天だというのに、責任を感じていた僕は自宅二階にある自室に籠り落ち込みながら深い溜息をついていたのだ。

 しかし溜息の理由はそれ一つではない。もう一つの理由、それは――。


「ちょっと、サブ。集中してる?! ちゃんとブラも着けてよ」

 その声の主が今、僕の部屋に居座っていたことだ。


 僕のことを『サブ』と呼ぶ相手、それは鈴木二心(にこ)。僕の姉だ。

 ただ姉といっても同じ歳で同じ誕生日、そして同じ親を持つ姉弟(きょうだい)、すなわち僕たちは二卵性の双子なのである。だが彼女は小学から高校までずっと私学の女子校に通っているため、僕に双子の姉がいることを知る同級生はいないだろう。

 とはいえ『二心』自身を知る人は多い。なぜなら彼女は母が代表を勤めるモデル事務所に小学生の頃から所属し、今ではJKのカリスマ的存在として雑誌に名前や顔が出ることも多いファッションモデルだったからだ。


「あのさぁ二心。僕にブ、ブラとか勘弁してくれないかな……」

「なに言ってんの。ブラ着けないとシルエットがおかしくなるでしょ」


 地味で根暗でボッチな僕とは別の世界線で生きる姉。僕の目には彼女の生き方が眩しく映し出され羨ましく思っていたが、そんな彼女にも一つ問題があった。それは、母に溺愛され箱入りだったこともあり、世間知らずの自信家で我儘で傲慢なお嬢様(モンスター)に育ってしまったことだ。それが原因で周りからは疎まれることもあるようだが、当の本人は『私を妬んでるだけよ』とまったく気していないから余計にたちが悪い。


「確認だけどさ。目の前で弟に女装させてる自分はおかしい、ってことはわかってるんだよね?」

「だからぁ! さっき説明したでしょ? 明日大事な取材があるんだけど、それに着ていくお洋服がどうしても決まらなくてね。客観的に全体を見て決めたいと思ったのよ」


 ベッドに腰掛け長く綺麗な黒髪を櫛で梳かしながら冷静な様子でそう返答する二心。そんな彼女の目の前には用意されたウィッグを被り、パン一の状態で姿見を確認しながら必死にブラを着けている僕がいる。

 僕に女装趣味はないし、こんな羞恥プレイに喜ぶ性癖もないのだが昔から二心の頼みは強く断ることができない。なぜなら彼女の機嫌を損ねると、あとが怖いからだ。


「だからってなんで僕なのかな? あ、そうだ。それなら二心が着た姿を僕がスマホで撮ってあげるよ」

「それも考えたけどスマホだと画面が小さいからわかりづらいのよね」


 ちなみに彼女が姉弟の上から二番目だから『二心』、そして僕が三番目だから『三郎』と名づけられた。そして一番上には名前に『一』が付く長女『一蓮(いちれん)』がいるのだが彼女は僕たちと離れて暮らしている。というのも四つ年上の一蓮姉さんは、大学が近いという理由から母と離婚して別居している父との同居を選び――いや、今そんなことはどうでもよかった。話しを戻そう。今、大きな溜息がでるほど問題となっていたのは、二心が突然僕の部屋にきて無理矢理に女装をさせ始めたことだったのだ。


「だったらモデル仲間の女子に頼んだら? 二心は友達多いんだし」

「それなら事務所にあるマネキンでも一緒。そうじゃなくてサブだからいいのよ」

「僕だから? どういうこと?」

「確か小学五年のときに二人で遊んでいて、お母様のウィッグを着けて私の服を着てもらったことがあったでしょ? あのとき私に瓜二つだったことを思い出したから」

「ああ……。そう言えばそんなことあったね。確かにそっくりでびっくりしたけど」

「二卵性とはいえ姉弟なんだから似ている部分も多いのよね。だってあのとき、お母様でさえ見分けがつかなかったくらいだもの。今だってそうよ。身長も体型も似てるからサブに着てもらうのがおそらく一番参考になるはず――」

「ほらっ着終わったよ! これでいい?」

 早く終わらせたい僕は二心がコーディネートした洋服一式を急いで身に付けると、お嬢様が挨拶するかのように両手でスカートの裾をつまみ、くるりと回転してみせた。するとそれを見た二心は両手を顔の前で拝むように合わせ、目をキラキラとさせながらベッドから立ち上がる。

「すごい! サイズぴったりじゃないの! サブは身長いくつだっけ?」

「この前の身体測定で一七三センチだったかな」

「やっぱりね。私とまったく同じだわ」

「二心は女子の中では背が高い方だよね。それならこういう可愛い系より、かっこいい系の方が似合うんじゃない?」

「それなら普通でしょ。私みたいなデカ女がこういうの着ることに意味があるの。同じような身長で可愛い服着れない人の参考になるでしょ。それが私のお仕事の一つなの」

「そっか。なるほど」

「そんなことより、ほら。ちょっとこっち来なさい。仕上げしてあげるから」

「……仕上げ? まだなんかするつもり?!」

 すると二心は僕の手を引いて目の前に正座させると持参した鞄からいろいろ取り出して僕の顔にメイクをし始めるのだった。

「ちょ、ちょっと! そこまでする必要ある?!」

「あるでしょ! 男の顔のままでそんな格好されてもキモすぎて見てられないから! それにしてもあんた……毎日ご飯食べてるのよね?」

「ご飯? 小食だけど三食ちゃんと食べてるよ。なんで?」

「痩せすぎでしょ。肩も腰も腕も、男とは思えないほど細いし。お尻は私の方が大きいんじゃない? 私と同じくらいの身長でこのサイズの服を着られる男がこの世にいたなんて驚きよ。だって私、かなり厳し目の食事制限もしてるしね」

「そうなんだ。二心は見えないところでも、いろいろと努力してるんだね。偉いよ」


(二心とこんな話するのは初めてだったな。最近は会話することも減ったけど、僕は誰よりも二心のことを理解しているつもりだ。トップデモルであり続けるために人の何倍も努力していること。学校との両立を周りに反対させないために勉強も頑張ってること。我儘で自信家だけど、そういう努力の裏づけがあることを僕は知ってる。でもこの負けず嫌いな性格は幼い頃からずっとだった。どんなことに対しても人目も気にせず一所懸命で、なにかで一番になるたび僕に報告しにきてくれた二心。そしていつも『頑張ったね』と声をかけ頭を撫でてあげると嬉しそうに笑ってたっけ)


 そんなことを思い出していた僕は、いつの間にか無意識に二心の頭に向かって右手を伸ばしていた。するとその手を反射的に掴んだ彼女は、顔を真っ赤にして睨み返してくる。

「ちょ、ちょっと。まさか頭撫でようとしたんじゃないわよね……」

「あっ! ち、違うよっ! あ、頭にゴミついてたから!」

「ならいいけど! もし頭撫でてたらキモすぎて顔面タコ殴りにしてたところよ。それと急に変なこと言わないで。キモイから」

「二心が偉いって言ったこと? 思ったことを言っただけだよ。僕と違って本当に頑張ってるしさ。すごいよ」

「それがキモいって言ってんの。でもさ……サブも勉強して私よりも上の高校に合格したじゃん。あんたも、その、まぁ、頑張ってるんじゃないの? お母様もめずらしく褒めてたし。でもこの前はいろいろ大変だったみたいね……」

「そっか。母さんから聞いたんだね。学校でのこと――」

「よし、できたわよ! ほらやっぱり! 予想通り、いや予想以上だわ! 鏡見て!」

 興奮する二心を落ち着かせながら二人並んで全身を映す姿見を確認する。と同時に僕は絶句してしまった。なぜならそこに映っていたのは二人の二心だったからだ。いや、そのうちの一人は当然僕なのだが、あまりにもそっくりで自分でも見分けがつかないほどに瓜二つだったのだ。


(嘘でしょ……。本当にこれが僕? 冴えない僕がこんなキラキラした姿に……それもトップモデルと言われる二心になれるなんて)


 僕はその嬉しさで、にやけた顔を戻すことができなくなる。

「キモい。なにニヤニヤしてんのよ。お願いだから変なことに目覚めたりしないでよね」

「な、なに言ってんの?! ちょっとびっくりしてただけだよ」

「サブって女性っぽい声だけど声変わりしたのよね? ちょっと高い声出してみて」

「高い声? えっとぉ。あー、あー、あー、あー、あーーーーー」

「はいそこっ! その高さで私と似てるかも。あれ? あんた喉仏どこにやったのよ」

「知らないよ! そんなの気にしたことない。ずっとこうだよ」

「髭もほとんど生えてないし、女性ホルモンが多いのかしら。それにしても、ほんと瓜二つね……。一卵性だと言っても誰も疑わないと思うわ。顔だけじゃなくて身長も体型も声もそっくりね。自分のクローン見てるみたいで変な感じ」

「ということはさ。メイク落とした二心は僕みたいな顔に――」

「それ以上言ったら殴るわよ。スマホの顔認証ができなくなるくらいにね」

「い、言いません」

 そんな感じでふざけていたのも束の間、そのあと僕は着せ替え人形かのように何着もの服を着さされることになった。そして二時間ほど経過し体力も限界に近づいたとき、やっと二心が明日の取材で着ていく服を決断したのだった――。


「それじゃ、二心。今着てるこの上下で決まりってこと? でもこの服ほんと可愛いと思うよ。これなら明日の取材もばっちりじゃないかな」

 姿見に映る自分を見ながら、まんざらでもない顔をしてしまう僕。すると二心はベッドの上に散乱している服の中から一組の上下を手にとって見せてきた。

「私が明日着るのは、こっちにするから」

「あ、そうなんだ。でも確かに、そっちのセットも可愛いよね。僕もソレかコレのどちらかだとは思ってたんだ」

「へぇ。私と同じ好みだなんてセンスあるじゃん」

「僕にセンスはないと思うけど着てみてなんとなく気持ちが上がったのがこの二つだったからね。でもそれじゃあ、今着てるこの服のお披露目はまた今度ってことか。ちょっと残念」

「だったらそれ、あんたにあげるわ」

「……はい?」

「だから、そんなに気に入ったのならサブにあげるって言ったの。今日のお礼」

「あははは。二心はなに言ってんの? 僕が女子の服もらっても着るときないじゃん」

「確かにそうよねぇ。でもそれ買ったばかりのお洋服でさぁ。誰にも見てもらえないのは可哀想だしぃ。どうしよっかなぁ……。あ、いいこと思いついた!」

 そう言ってニンマリとした二心は、またとんでもないことを言い出した。


「今からその格好で外に出てお披露目してきてよ」


 その言葉を聞いて一瞬で背筋が寒くなった僕。

「……え。ちょ、ちょっと待ってよ。なに言ってんの? 冗談? 冗談だよね?」

「冗談じゃないって。本気だから。いい天気だし、ぶらっと散歩でもしてきたらどう?」

「ひ、一人で?!」

「当たり前でしょ。同じ顔の二人が並んで歩いてたら目立つし」

「いやいや、駄目でしょ! 冗談やめてよ! もう終わりなら脱ぐからね」

 すると二心は僕の肩に手を置き真面目な顔で迫ってくる。

「なに脱ごうとしてんのよ。だからマジだって。今から任務を与えるから、それが終わるまでそれ脱いじゃ駄目よ。達成できなかったら、これ晒すから」

 二心がそう言って手に持つスマホには、僕が姿見の前でブラを着けている写真が映し出されていた。そして不適な笑みを浮かべながら指で次々にスワイプし連写したかのように僕が女子になっていく様を見せてくるのだった。

「さ、晒すってどこに?!」

「私がアカ持ってるSNSのすべてによ。おそらく数万人が見ることになるわね」

「脅迫?! 意味わかんないよ! なんで? なんのため? 誰が得するの?!」

「あははは。脅迫は半分冗談だけど、こうでもしないと外に出ようとしないでしょ? ずっと家に籠って落ち込んでるみたいだし見てらんないのよ。だからその格好で外に出て気分転換でもしてきたらどうかなって」

 恥ずかしそうに目を逸らしながら、そう提案した二心。ここで僕はその言動の意味を推し量った。おそらくだが僕が学校でいじめられていたことを知った彼女は、僕を励まそうとしてくれたのだろう。それをシンプルに言葉で伝えることが照れくさかったため、こういう遠まわしな方法を選んだのかもしれない。

 しかしだ。さすがに僕が女装して外へ出るのは無理がある。


「その気持ちは嬉しいんだけど……気分転換の方法、間違ってない? だってさ。こんな姿で外に出て同級生とか近所の人とかに見られたら僕の人生終わりだよ」

「ふふふ。それは絶対に大丈夫よ。そのまま外に出ても絶対に男だってばれないから。実際に目の前で見てる私が言うんだから間違いないし、今のサブは誰がどこからどう見ても鈴木二心そのものだから心配ないわ」

「まあ確かに自分で見ても二心にしか見えないけど……」

「だったらさ。今日は私を信じて欲しいな」

「……二心?」

「私がね。辛くてもモデル続けられるのは、いろんな可愛い服が着れて、そのたびに新しい自分に出会えるからなの。疲れた心がリセットされて『もう一回頑張ろう』って思えるのよ。だからサブもその姿で街に出て新しい自分を感じてみて欲しいな。学校でなにがあったのか細かくは知らないけどさ。今だけは全部忘れて楽しんできなさいよ」

「二心……ありがとう。そんな風に考えてくれてたなんて嬉しいよ。でもやっぱりごめん! 無理! この格好で外に出るのはちょっと厳しいかな。あははははは……」

 すると煮え切らない態度の僕にイラつき始めた二心の表情が、温和モードから冷酷モードへと切り替わるのがわかった。そして再び手にしたスマホをちらつかせてくる。

「それじゃあ、この写真アップしてもいいのね?!」

「い、いやそれは冗談だってさっき――」

「半分冗談って言ったのよ。ということは半分本気だから。私がやると言ったらやる女なのは知ってるでしょ? さぁどうする?! 外に行くの? 行かないの? どっち?! 今すぐ決めなさい。でないと『#(ハッシュダグ)弟が変態すぎる』で投稿するから!」

「わ、わ、わかった! わかったから待って!」

「じゃあ行くのね? お姉ちゃん嬉しいわぁ!」

「二心はほんとにやりかねないから怖いんだよ! ……それじゃあ勇気だして、ちょっとだけ冒険してくるけど、本当にちょっとだけだよ? すぐに帰ってくるからね」

「よく言った。それでこそ私の弟よ。今は妹だけど」

「でもなぁ。本当に大丈夫かなぁ。怖いよ……」

「そんなに心配しなくても大丈夫。もし外でなにかあっても連絡くれたら、すぐに助けに行くから。それで『姉弟で遊んでて罰ゲームやってましたぁ!』とかでも説明すりゃ大丈夫でしょ。あ、ごめん……。『罰ゲーム』って言葉は禁句だったわね」

「別に禁句じゃないから。でも助けてくれるって聞いてちょっと安心したよ。で、さっき言ってた『任務』ってなに? 外でなにしてきたらいいの?」

「ああそれね。なににしようかしら。それじゃあ駅前のモールで可愛い系のブラ買ってきて。A……Bカップだから」

「僕で遊ばないでくれるかな。それと弟にAとかBとか言わないでくれるかな」

「冗談よ。駅前にできたコーヒーショップで適当になにか買ってきてちょうだい」


 そのあと部屋を出た僕と二心は一階にいる母に見つからないよう静かに階段を降り、玄関まで到達することに成功した。

 しかしここへきて履いていく靴を決めてなかったと気づいた二人。僕はその焦りと緊張で心拍数が一気に跳ね上がるが、まったく動じていない二心は音を立てないよう静かに靴箱を開け、どれにしようかと選び始めた。

 その表情は僕とは対照的で、どこかワクワクしながらこの状況を楽しんでいるかのようだ。それを見てふと、よく二人で遊んでいた幼い頃を思い出す。その頃の僕たちはとても仲がよく、なにをするにもいつも一緒だった。その情景がフラッシュバックした僕は自然と心が落ち着き、つられて笑顔になるのだった。


『ほらっ。これでどお?』

 小声でそう言いながら白いサンダルを差し出してくる二心。僕はそれを受け取り駄目元で履いてみたのだが、そこで奇跡が起こる。なんと僕は二心の靴が普通に履けてしまった。僕たち姉弟は服だけでなく靴のサイズまでもがまったく同じだったと判明したのだ。

 その事実にテンションが上がり無言のままハイタッチして喜びを表現した僕と二心。その勢いにも助けられ僕は意気揚々と玄関の扉を開けることができた。そして外に広がる新しい世界へと足を踏み出したのだった。

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