始まった非日常。

第8話

「疲れたぁ」


そう心の中で呟いたはずの言葉は、知らぬ間に口から溢れていた。


今日も今日とて、仕事で疲れ切った身体を引きずるようにして帰宅する。


一歩一歩と足を進めるたびに、疲労感が重く伸し掛かるような気分に襲われた。


ようやく見えてきた自宅の窓を縋るように見れば、ぼんやりと明かりが付いている。


私はその柔らかな明かりに誘われるように、無意識に歩くスピードを上げた。


自宅に着き、予想した通りに鍵の掛かっていない引き戸を勢い良く開けると、玄関にはもう見慣れ始めた男物のローファーが並べられていた。


「…千宙。アンタ、また来てんの?」


その光景に少し呆れたように声を掛けながらも、廊下を進む足は少しだけ弾んでいる。


電気が付いている居間に辿り着くと、広々とした畳の上には座布団を枕にして寝転び、呑気に小説を読んでいる学ラン姿の千宙がいた。


「よぉ、おかえり。」


千宙は寝転がった体勢のまま、小説から視線を外して私を見上げると、特に表情を変えることもなくそう言う。


家主の私を差し置いて堂々と寛いでいるその様子は、なんともふてぶてしくて思わず溜め息が出る。


集団リンチに遭い、ボロボロだった千宙を拾ったあの日からもう二週間が経つ。


あれから、千宙は三日に一度くらいの高頻度で私の家に現れるようになった。


帰りたくないなどと言いつつも、随分あっさりと帰っていく千宙を追いかけたあの夜。


夜の闇に溶け込んだ背中に何を血迷ったか、小説を無理矢理に押し付けて読み終わったら返しに来いなんて言ってしまった。


今考えても、本当に私らしくない行動だったと思う。


ずっと他人とか関わることを諦めていた私が、まさかこんな何を考えているのかよく分からない男子高校生と関わりを持とうとするなんて。


自分自身説明出来ないような感情に驚きつつも、少しだけこの味気ない日々が意味を持ち始めたようにも思えて微かに心を踊らせている自分も居る。


千宙はそんな私の言葉をどう受け取ったのか知らないが、あの日から遠慮無しに何度も我が物顔で私の家に訪れた。


確かにまた家に来て良いとは言ったけれど、まさかこんな頻繁にやって来るとは思ってもいなかった。


千宙は学校が終わるとそのままの足で私の自宅にやって来ては、渡した鍵を使って勝手に入り浸っている。


そんな面白いものも無い家だけど、私が仕事から帰ってくると千宙は決まって小説を読んでいることが多かった。


時には畳の上で気持ち良さそうに眠っていたり、ボッーとスマホを弄っていたりすることもあったが、基本的には千宙は小説ばかり読んでいた。


家主が不在であろうと構わずに、今もゴロンと畳の上に寝転がって小説を読み耽っている姿はまさに自由奔放という言葉が良く似合う。


本当に、図々しい奴だ。


思えば、二週間前に出逢った時から千宙はずっと図々しかった。


ボロボロの状態でゴミの上に倒れ込む千宙に、心配して声を掛ければほっとけと吐き捨てられるし、寝坊してバタバタしながらも気を遣って帰るように促せば、何故か長時間居座り勝手に部屋を探索して小説を読んでいた。


私の想像を越えた行動ばかりする千宙には、振り回されてばっかりだ。


それでも、そんな千宙の前だから私も何かを恐れて自分を演じることもなく、気楽に接することが出来るのかもしれない。


そんなことを考えながらも、ふと畳の上で寝転んだまま小説を読む千宙に視線を向ける。


二週間前は傷だらけだった顔はだいぶマシになり、生徒手帳で見た写真通りに美形な男子高校生へと戻りつつあった。


散々殴られていた頬は腫れが引いてシュッとした綺麗な輪郭を現し、青黒く肌を染めていた痣も随分薄くなっている。


腫れ上がっていた重たい瞼はくっきりとした二重に戻り、唇の瘡蓋も取れてあの出逢った当初の痛々しい姿が少しずつ癒えてきたように見えてホッとする。


あの夜、千宙が何故あんな集団リンチに遭っていたのかは今だに分からない。


あまり触れられたくないことかもしれないので、私から不躾に聞くことは出来ずにいる。


何より、千宙に嫌な思いはさせたくなかった。


千宙が集団リンチに遭うほどのトラブルを抱えた人間なのか、ただ理不尽に虐げられたのか分からないけど、どっちにしろ私はあの深い闇が広がる悲しい瞳をしていた危なっかしい千宙を放ってはおけなかっただろう。


不意に畳の上で寝転がって小説を読んでいた千宙が、パラリとページを捲くって口を開く。


「なぁ、この本ってお前の趣味?」


「え?」


突然投げかけられた言葉にハッとして、千宙が掲げる小説へと視線を向ける。


千宙が読んでいた小説は、私が高校生の頃に買った爽やかな表紙の青春小説だった。


確か内容は高校生の男女が出逢い、日々の生活の中でゆっくりと恋心を育んでいくそんな物語だったような気がする。


「そうだけど?」


何でそんなことを気にするのか不思議に思いながらもそう返せば、「へぇー。」と千宙はまた自分から聞いたにも関わらずに興味無さげに言った。


その態度にムッとしつつも、「何でそんなこと聞いたの?」と苛立ちを抑えながら聞く。


すると、千宙はゆっくりと寝転がっていた身体を起こして顔をしかめた。

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