第9話
「なんか、お前ん家の本って似たような恋愛ものばっかなんだけど。好きなわけ?」
「ん?」
千宙の指摘に、私は一瞬戸惑う。
そんなに同じような小説ばかり読んでいただろうかと思いつつも改めて思い返せば、確かに私が学生時代によく好んで読んでいたのは淡い青春小説が多かったような気がする。
それこそ、友達一人居ない私の暗い学生生活とは真逆で、爽やかで女の子が憧れるようなキラキラとした物語が多かった。
「いや、別にそんな好きってわけじゃないけど。なんとなく?」
千宙の問いかけに、過去の自分が何でそんなジャンルばかり読んでいたのかも良く分からなくてそう曖昧に答えれば、「へぇー。あ、そう。」と千宙は相変わらず雑に言う。
人の話を興味無さげに受け流す千宙のこの態度にも、もう段々と慣れてきたような気がする。
「そんなこと言っても、ちゃっかり読んでるじゃん。」
ペラリと引き続き小説のページを捲くった千宙に、私は視線を向けて言う。
正直、私は千宙がそんなジャンルの小説を黙々と読んでいる方が意外だった。
千宙は私の学生時代とは違って、美形で垢抜けている男子高校生だ。
集団リンチに遭って傷だらけだったものの、その容姿や雰囲気はスクールカースト上位に君臨してそうな印象があった。
「んー。ま、正直読めりゃ何でも良いし。」
千宙のその投げやりな言い方には、小説の内容に興味があるというよりもただ活字を追っていたいだけのような気がする。
確かに、私も以前は訳もなく小説を読んで頭を空っぽにしたい時期もあったので、読めれば何でも良いという千宙の気持ちは分からなくはない。
気を取り直したように、再び小説に視線を落とした千宙の瞳を囲う長い睫毛が、活字を読み込むように瞬きするたびに小さく揺れる。
その整った容姿は、さぞかし学校で女子からの人気があるだろう。
けれど、何処か冷めたような瞳でボッーと活字を追っている当の本人からは、そういった恋愛事に興味があるようにはとても見えなかった。
恋愛、か。
私には、心底無縁なものだと思う。
いつだって自分のことばかりに必死で、誰かを想う余裕なんて少しも持っていない。
もはや、誰かとそうゆう繋がりを持つことに諦めさえも感じている。
しかし、そんな私でも学生時代、少なからずそうゆうものに憧れを抱いていた時期もあった。
脳裏に浮かんだのは何度も思い返す、あの白い壁に囲まれた空間だ。
消毒の匂いが漂い、カーテンが揺れる窓からは優しい光が差し込む保健室。
そんな保健室に似つかない、一つの黒い影。
優しい保健室の先生が微笑みかけた先には、いつもあの人が居た。
高校生の頃、集団生活から逃げるように頻繁に保健室へ通っていた私は、よく保健室のベッドの上で顰めっ面で居座っていたその人に遭遇した。
私よりも一つ年上の先輩は、学校内でも有名な問題児でしょっちゅう授業を抜け出して保健室でサボっているようだった。
沢山のピアスを開けて制服を着崩し、如何にも不良というような格好をした先輩は、誰も近寄らせないピリついた雰囲気を放っていて怖くて苦手だった。
けれど、そんな常に不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた先輩が唯一、表情を柔らげる瞬間を私は知っていた。
あの頃、無意識に焼き付けた先輩の表情が、今でも色褪せることなく私の心の深いところに記憶されている。
「おい、聞いてんのかよ?」
「っ!?」
不意に聞こえてきた声に、思考に沈んでいた意識が現実へと帰される。
飛んできた声に視線を向ければ、パタンと小説を閉じた千宙が呆れた顔で此方を見ていた。
「なんか疲れてんなら、もう帰るわ。」
そう言うと千宙は立ち上がり、居間の隅に置いていた薄っぺらい鞄を肩に掛ける。
千宙が手早く帰り支度をする様子をポカンと眺めながらも、私は慌てて口を開いた。
「え、まだ居ても大丈夫だよ?」
「いや、今日は帰るわ。」
私の言葉に千宙は少しだけ目を細めると、手に持っていた小説を軽く掲げた。
「これ、借りて良い?」
「いいよ。」
お決まりになりつつあるが、基本的に千宙は私の家に来るたびに一冊本を借りていく。
そして、本を読み終えると私の家に返しにやって来て、帰る時はまた新たに別の本を借りていくのだ。
スクールカースト上位に君臨していそうな見た目に似合わず、千宙は意外と読書家だった。
本を読む量は、私が一番本を読んでいた高校生の頃と同じくらいだろうか。
一般的よりも、遥かに活字を読み込むスピードが速いように感じた。
小説を薄っぺらい鞄の中に入れて、ゆったりとした足取りで玄関に向かう千宙の後を追う。
ローファーを履き、ガラッと引き戸を開けた千宙は何か思い出したように立ち止まると、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「ん。」
「えっ!何!?」
ポケットから手を引き抜いた千宙は、私に向かって放物線を描くように手の中のものを投げる。
「それやるよ。」
突然のことに慌てて投げられたそれをキャッチすれば、千宙は「じゃあな。」と呑気に言い放ち、フッと馬鹿にするように鼻で笑いながら帰って行った。
私は千宙から投げられたものをキャッチしたため崩れた格好のまま、外へと去って行く奴の後ろ姿を見送る。
ガシャンッと閉まっていく引き戸に、何なんだアイツはと思いながら視線を手の中に移した。
握り締めた手を開けば、コロリと小さなそれが揺れる。
千宙が投げて寄越したのは、派手な黄色の包装紙に包まれた飴玉だった。
しかし、その派手な包装紙に書かれていた言葉に思わず顔が引き攣る。
「…カレー味。」
イチゴやレモン、グレープ味と美味しい飴玉はたくさんあるのに、何故カレー味なんて選んだのだろうか。
カレーと言われて思い返すのは、傷だらけの千宙と残り物のカレーを食べたあの夜のことだった。
つい二週間前のことなのに、なんだか懐かしく思える。
顔をしかめつつも、包装紙を開ければ中から濁った茶色の球体が出てきた。
こんな色の飴玉は初めて見る。
なんとも、不味そうだ。
ゴクリと喉を鳴らし、覚悟を決めてそれを口の中へと放り込む。
「まっず…!」
予想通りに美味しくない飴玉に、眉間にギュッと皺が寄る。
舌の上に広がる何とも言えないカレーの風味に耐えながら、こんな不味いものを寄越しやがって…!と帰り際、鼻で笑っていた千宙を恨んだ。
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