第7話
昨夜から驚いたり笑ったり、苛立ったり戸惑ったりとこんなに忙しなく気持ちが動くのは、随分久しぶりな気がして変な疲労感に襲われる。
でも、決してそれが嫌なものではなかった。
ここ数年、他人と関わることを無意識に避けていたような気がする。
一人になるのが怖くて、周りに嫌われないように必死に当たり障りのない人間を演じていた学生時代。
それを窮屈に感じても、どうしたって私は誰かの前で普通の人間にはなれなかった。
他人の反応を勝手に気にして、いつの間にか自分ではない誰かを演じなければ誰かと会話をすることも出来なくなっていた。
そんな心を擦り減らすような日々も報われずに高校生の頃、私は結局誰とも親しくなることはなかった。
自分は誰にも受け入れてもらえないと諦めて孤独になる選択を選んだくせに、一人で居ることが苦しくて保健室に通った日々。
高校を卒業して働き始めても誰とも深く関わることもなく、ただただ時間だけに流されていく味気ない日々。
そんな繰り返されていく日々の中で、近衛千宙という存在は衝撃だったのだ。
学校でも社会でもない場所で、私は近衛千宙の前では誰かを演じることもなく普通の私として存在出来ていたような気がする。
たかが数時間なのに、ずっと避けてきた他人との関わりが不思議と心地良くもあったのだ。
不意に、先程の近衛千宙の真っ暗な深い闇が広がる瞳を思い出す。
「あー、もう!」
気付けば私はサンダルに足を突っ込み、勢い良く引き戸を開けて外に飛び出していた。
この瞬間を逃せば、また味気ない日々に戻ってしまう。
その時、私を駆り立てた衝動は物凄く自分勝手なものだった。
帰りたくないと言った近衛千宙への配慮もせずに、私は見えない背中を必死に追いかける。
それでも、何かに絶望しながら進んでいく人生にはもう懲り懲りだった。
「これ!貸してあげる!」
自宅を出て数十メートル先、すでに夜の暗闇に溶け込んでいた背中に声を掛ける。
私の声が届いたのか、再び振り向いた奴に先程返された本を無理矢理に押し付けた。
「読み終わったら、ちゃんと返しに来なよ!」
そう言った声は、驚くほどに震えていた。
どうやら私は、自分で思っているよりも緊張しているらしい。
ぼんやりとした家庭の明かりが滲む住宅の脇、暗い道路で佇む私達はきっと不自然に見えるだろう。
突然の私の行動に、近衛千宙は瘡蓋が残る唇をポカンと開けていた。
近衛千宙よりも年上のはずなのに、訳の分からない行動ばかり起こす私はやはり変な人間だと思われても仕方ない。
それでも、なけなしの勇気を振り絞って口を開く。
「そしたら、またカレーでも食べさせてあげるから!」
私の言葉に近衛千宙は痣が残る重たさそうな瞼を見開くと、パチパチと状況を飲み込むように瞬きをする。
そして、私が押し付けた本に視線を向けるとその闇が広がる瞳を微かに緩めた。
「おう。」
先程の粗末な笑い方とは違い、誰の手本でもないそれはようやく見えた近衛千宙という人物の素顔のような気がした。
傷だらけで不格好な表情に、私は目が離せなくなる。
近衛千宙が返事を返してくれたことに、じわじわと心が満たされていくのを感じた。
「じゃ、これは預かっとくわ。」
押し付けられた本をしっかりと受け取ると、近衛千宙は唐突に学ランのポケットから何かを取り出す。
「あっ!」
住宅の明かりに照らされて、暗闇の中でキラリと光ったそれは、今朝近衛千宙に渡した自宅の鍵だった。
バタバタしていて、その事をすっかり忘れていた。
「どうせスペアあんだろ?」
そう若干口角を上げた近衛千宙に、今度は私はポカンと間抜けに口を開く番だった。
まさか、コイツ…!
今朝、私が渡した鍵を近衛千宙は密かにずっと持っていたのだ。
目を細めて此方を伺う奴の表情を見るに、きっと態と鍵を返さずにいたのだろう。
何の理由があって鍵を返さずにいたのか、相変わらず近衛千宙が何を考えているのか分からない。
それでも、この人を舐めたような態度に再び沸々と怒りが湧き上がる。
もしかしたら、私がこんな風に声を掛けに来なくとも、近衛千宙はこの鍵でまた図々しく自宅にやって来たかもしれない。
なんだか、振り回されている気分だ。
昨日からコイツの前で、随分と情けない姿を晒している気がする。
そう気付いた途端、顔を覆いたくなるほどの羞恥心に襲われた。
先程、緊張しながらも振り絞った勇気を返してほしい。
その感情のまま近衛千宙を睨み付ければ、奴は傷だらけの顔をまた少し緩めた。
「じゃ、またな。」
睨み付ける私を気にすることなく、近衛千宙はそう言うと再び私に背を向けて歩き出した。
確かに鍵のスペアはあるし、また近衛千宙と関われることは正直嬉しくもある。
けれど、なんか釈然としない。
この年下の男子高校生相手に、自分ばかりが余裕を無くしているようで悔しい。
「こんの、クソガキ!」
立ち去る背中に向って、吐き出された精一杯の文句が暗い住宅街に響き渡る。
それを学ランを羽織った背中で受け取った近衛千宙は、クスクスと肩を揺らしていた。
その様子に少し馬鹿にされたような気がして、私は思いのまま地団駄を踏みたくなる。
そんな私を誂うように、近衛千宙は鍵を持った手をひらひらと空に掲げた。
空へと掲げられた鍵は奴が歩を進めるたびに街灯が反射して、まるで夜空に浮かぶ一番星のように微かな光を放っていた。
今年の夏、二十歳を迎える私は、情けなくも生意気な年下の男子高校生に振り回されている。
それでも、そんな奴とまだ関わりが欲しいと思ってしまった自分には心底呆れるしかない。
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