第6話
その態度に「このクソガキ〜!」と叫び出したくなるのを必死に耐えていれば、近衛千宙は一人がけの小さなソファーからのっそりと立ち上がる。
「アンタ、今いくつ?」
「十九だけど…っていうか!そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
立ち上がった近衛千宙は、私よりも年下のはずだが随分と背が高くて自然と見上げる形になってしまう。
昨日はゴミの上で倒れ込んでいたし、手当ての時も座布団に座ったままだったため、こうやって対面するのはなんだか不思議な感じだ。
そんな風に思いつつも、なかなか家から出て行く気配のない近衛千宙に内心戸惑う。
すると、唐突に近衛千宙はグイッと私に顔を近付けてきた。
いきなり至近距離になった傷だらけの顔に、思わず息を呑む。
傷だらけではあるが、透き通るような白い肌や真っ直ぐな瞳は美形だった生徒手帳の写真を思わせる。
突然のことに、私の心拍数は密かに上がっていた。
「ふーん、見えねぇな。」
「…は?」
しかし、そんな私を嘲笑うように近衛千宙はジッと顔に向けていた視線を上から下へと流すと、納得がいかないように軽く首を傾げる。
「どう見ても高校生止まりじゃね?」
「…どうゆうこと?」
「年上に見えねぇってこと。」
「舐めてる!?」
思いがけない言葉に目を見開き、私は声を荒げた。
何なんだ、コイツは。
昨日会ったばかりだというのに、いちいち癇に障ることを言うのは態とだろうか。
近衛千宙と会話をしていくうちに、沸々と苛立ちが体内で増していくのを感じる。
「なぁ、」
「何!?」
いまいち掴めない近衛千宙に、思わず口調が荒くなってしまった。
そんな私を気にすることもなく、近衛千宙は続ける。
「おねぇーさん、また泊めてくれない?」
「は?」
何を言ってるんだ、コイツは。
その一言に、また私のキャパは悲鳴を上げた。
頭が上手く働かずに唖然とする私に、追い打ちをかけるように近衛千宙は口を開く。
「一人で住むには広くね?この家。」
「それはそうだけど、アンタいきなり何言ってんの!?」
あっけらかんと勝手なこと言う奴に、私はもうお手上げ状態だった。
信じられない図々しさだ。
表情を変えずに淡々と告げてくる近衛千宙が、何を考えているのか私には全く分からない。
「昨日だって手当てしたら帰ってもらうつもりだったんだから、今日こそは帰りなよ!」
「帰りたくないって言ったら?」
「なっ!?」
昨日会ったばかりの男子高校生の突然の「帰りたくない」発言に、私は動揺を隠せなかった。
帰りたくないだなんて、一体どうゆうつもりだろうか。
目の前の近衛千宙は、そう言うと私から視線を外すように目を伏せた。
そんな奴に表情は無く、伏せられた瞳には昨日と同様に真っ暗な深い闇が広がっているようだった。
まだ癒えていない傷だらけの姿は、相変わらず痛々しい。
しかし、流石に今夜は帰るべきだろう。
昨日は不覚にも泊める形になってしまったけれど、未成年が家に帰らないなんてきっと家族も心配しているはずだ。
そもそも、一人暮らしの女が男子高校生を何日も家に泊めるなんて如何なものだろうか。
確かに、集団リンチに遭ってボロボロの姿を家族に見られたくないとか理由はあるのかもしれないけど。
どうするべきか、やはりこんな時の対応の仕方が分からない。
昨日からの度重なるイレギュラーな出来事に、私は頭を抱えながらチラリと近衛千宙に視線を向けた。
すると、近衛千宙は顔を上げてその深い闇が広がる瞳を私に向けると、瘡蓋が目立つ唇を綺麗に上げる。
「ま、冗談。帰るよ。」
「え、」
その瞬間、昨日からずっと無表情だった近衛千宙に初めて笑顔が生まれた。
しかし、それは無理に手本を真似するような嘘っぽさが滲み出ていて、笑顔というにはあまりにも粗末なものだった。
何か、本当に帰りたくない理由でもあるんだろうか。
近衛千宙は持っていた本を私に押し付けると、先程までのやり取りが嘘のようにスタスタとした足取りで部屋を後にする。
あまりの切り替えの早さに私も慌てて、奴の背中を追った。
近衛千宙が早く帰ることを願っていたはずなのに、何故かその瞬間を呆気なく感じる。
近衛千宙は玄関でローファーを履き終えると、不意に此方を振り向いた。
「カレー、美味かった。」
そう一言告げた近衛千宙に、キュッと胸を掴まれたような気持ちになった。
近衛千宙の低くて穏やかな声の余韻が、じんわりと鼓膜に広がる。
その突然の言葉に何も返せずにいれば、引き戸を開けて奴は夜の暗闇へと足を踏み入れていく。
その背中が暗闇に溶け込んでしまう前に、まるで私と近衛千宙を線引するように引き戸が音を立てて閉まった。
先程と比べて一気に静かになった空間に、良い夢から醒めてしまったような虚しさを感じる。
昨日、会ったばかりの男子高校生だ。
もう二度と会うことはないだろう。
そう私は自分を納得させるように、無意識に心の中で言い聞かせた。
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