第5話

春風に背中を押されながら自宅に向って、すっかり夜になった街をとぼとぼ歩く。


今日は朝から散々だったと、私は肩を落として一日のことを振り返った。


傷だらけの男子高校生を放置して、寝落ち。


そして、寝坊。


遅刻ギリギリだったため、朝から職場まで全力疾走する羽目になった。


まだ春だというのにも関わらず汗だくになりながら出勤し、遅刻はなんとか免れたものの、社員証は忘れるし、仕事でもうっかりとしたミスが多かった。


はぁーっと、深く溜め息を吐く。


一度悪いことが起こると、続けざまに悪いことが起こったりするものだ。


そうゆう日もあるさと、心の中で自分を励ます。


自宅も数メートル先に近付いてきて、ようやく帰って来れたことに胸を撫で下ろした。


朝はバタバタしていたため、近衛千宙とは雑なやり取りで終わってしまったが、鍵も渡してきたし流石にもう帰って行っただろう。


そう思いながら、ふと目の前に迫った自宅を見れば、いつもは真っ暗なはずの部屋からは明かりが溢れている。


「え?」


異変に気付き、慌てて玄関の引き戸を引けば、鍵が掛かっていなかったそれはスムーズに開いた。


そして玄関には、今朝と同じ状態で置かれた男物のローファーがある。


まさか…!


私は急いで居間まで進むが、誰も居ない畳の居間はがらんとしていて、今朝座っていた座布団の上にも奴の姿は無かった。


おかしいと思いながら視線を巡らせれば、廊下の奥、突き当りの部屋の襖が大きく開かれていて中から煌々とした明かりが溢れている。


なんで、その部屋に…?


私でさえ、たまに掃除をする時くらいしか入ることがなくなった部屋に明かりが付いていた事に酷く驚く。


思いっきって襖の中を覗くと、そこに近衛千宙は居た。


「な、何してんの!?」


四方八方を本棚で囲まれた部屋の片隅で小さな一人がけのソファに座り、背中を丸めて本を読んでいた近衛千宙に思わず声を上げる。


私の声に、近衛千宙はその傷だらけの顔をゆったりと上げた。


顔の腫れは少しだけ引いていて、昨日のボロボロだった状態よりもだいぶマシになっている。


そんなことよりも、なんでコイツはまだ私の家にいるのか。


そして、なんで勝手に部屋を探索して本を読んでいるのか。


「まだ帰ってなかったわけ!?」


昨夜から今朝までの出来事に加えてとっくにキャパオーバーな私の言葉に、近衛千宙は手元の本に視線を落としたまま口を開く。


「好きに出てけって言ったろ。」


「た、確かにそうは言ったけど!」


「じゃあ、いいじゃん。」


「どこが!?」


会話がいまいち噛み合わない近衛千宙に、ピクピクと口角が引き攣るのを感じる。


なんというか、ここまで図々しい奴とは。


とっくに家を出て行ったと思っていた近衛千宙は、何故かいまだに私の家に居て全く出ていく気配がない。


集団リンチに遭ってゴミの上で寝ようとするし、今度は勝手に部屋を探索して小説を読んでいる。


あまりに予想外な行動をする近衛千宙に、私は頭を抱えたくなった。


「本、好きなの?」


「へ?」


「だって、この量すげぇじゃん。」


近衛千宙はそう言うと、この部屋を囲む本棚に視線を向ける。


床から天井にまで届きそうな高さの本棚には、様々なジャンルの小説が並べられている。


一体何冊あるだろうか、千冊を越えるあたりで数えるのを止めてしまった。


「あぁ。ここは元々祖母の家でさ、今は私一人で住んでるんだけど。祖母が読書好きだったみたいで、これは祖母の本棚でもあるんだよ。」


「へぇー。」


自分から聞いたくせに大して興味も無さそうな反応をした近衛千宙は、再び手元の本に視線を戻してペラリとページを捲った。


その様子に少しイラッとしつつも、私は部屋を囲む本棚を改めて見渡す。


背丈の違う小説たちに、色とりどりの背表紙。


元々祖母が集めていた小説と、私が学生時代に集めた小説が混ざり合った本棚。


僅かに漂う古紙の匂いが落ち着く空間だ。


この少し古い木造平屋建ての自宅は、以前は祖母が住んでいたものだった。


しかし、ニ年前に祖母は亡くなってしまい、空き家となっていたこの家に高校を卒業したと同時に私が住み着いたのだ。


一人で暮らすには少々広過ぎる気もするが、畳の居間やこの大量の本がある部屋、こじんまりとした庭には木々や花もあり、緩やかな時間が流れるこの家での暮らしを私は割と気に入っている。


「アンタは?」


「ん?」


「アンタは本好きなの?」


不意に読んでいた本をパタンと閉じて、近衛千宙が聞いてくる。


腫れが少しだけ引き、肌の色を変えて痣になっている瞼が若干重たそうだ。


しかし、此方を見つめてくる眼差しは真っ直ぐで淀みなく澄み渡っていた。


「本好きなの?」そう言った近衛千宙が、今朝夢の中で見た保健室の先生と少しだけ重なる。


「…好きっていうか、暇つぶしに読むくらい。」


その問いに、私は何故かまた上手く答えられずに言葉を濁す。


「あ、そう。」


そんな私の返答に、近衛千宙は相変わらず興味無さそうに言った。

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