第5話 紙袋
目を覚ました。いつの間にか、プレハブ小屋の中みたいな、安っぽい内装の部屋の中にいた。寝転がっている。床に。直に。
「ああああああー」
声を出す。声が出る。
「こいつぁ参ったぜぇ」
体を起こす。腕が、脚が、震えている。
あはは、と僕は笑う。飯田家の家訓だ。ピンチな時ほど笑え。どんな困難も笑い飛ばせ。
「あはは。ふふ。ははは。ひゃ、はは。はは」
ひとしきり、笑う。
「あー」
体を、今度はしっかりと起こす。腕も、脚も、震えない。
「ったく何だ今のは?」
混乱、笑い、と来て次に怒りが出た。我ながら感情が忙しい。
「何見せられたんだ? いや、あいつの言い振り……」
――イードリは、母乳によく溶けるんだ。
イードリ。
Eat me Drink me
記憶の本棚を漁る。そしてすぐにそれは思い浮かぶ。
「『不思議の国のアリス』に出てくる薬がそんな名前だったな」
座り込んでいた僕は、今度こそ四肢に力を入れ立ち上がった。
「新興宗教の本拠地で、変な薬飲まされて下品な夢見せられた、と」
またも困難。違法薬物を体にぶち込まれた。
「はは。は」
笑う。困難は、笑い飛ばすのだ。
「この歳になってママのおっぱい口にするたぁな」
しかし言っていて自分で虚しくなる。
……っていうかここはどこだ。
見渡す。白い壁。グレーの、リノリウムみたいな素材の床。椅子もない。テーブルもない。ベッドはもちろん、布団もない。クッションさえない。本当にただの、無味乾燥な部屋。
手荷物の類はない。いや、ポケットに……スマホとハンカチ、メモ帳、自宅の鍵、目薬、その辺はある。だがリュックがない。まぁ、最悪捨てる覚悟で持ってきたものだが返ってくるなら返してほしい。
「ああ……」
まだくらくらする頭を振って後ろを見てみると、扉が一つ、あった。
「ああ……」
また、何も意味をなさない嗚咽を漏らしながら。
僕はドアへと近づく。そうして、開ける。向こうに広がっていたのは、この部屋と同じくらい殺風景な、廊下。白い壁。グレーの、リノリウムみたいな素材の床。廊下は左右に伸びていて、僕はどっちに進もうか一瞬、迷った。
――右。
本能が、そう告げた。まぁ、rightだしな。
僕は長い廊下をひたすらに進んだ。やがてそれは、聞こえてきた。
りーん。
りーん。
鈴? の音だ。
りーん。
りーん。
僕はその音を頼りに先へと進む。すぐに、見えてきた。壁の一か所が四角く切り取られている。何か、部屋の入口らしい。
僕はそこへ近づく。音がハッキリしてくる。
りりーん。
りりーん。
反響している。僕はそっと、四角い入口に顔を出した。
二十人くらい、だろうか。
結構な数の人間がいた。全員白い服に身を包んでいる。白いフードを被っていて、白いマスク……口だけ垂れた布で覆うようなやつをしている。瞑想か? 全員目を閉じ微動だにしない。
りーん。りーん。
大勢の人の向こう側。やはり奇妙な格好をした三人が手にハンドベルを持って鳴らしていた。りーん。りーん。
厳粛な空気。だが僕は発する。
「ごめんください」
大きな声。腹の底から。
「あの、ここはどこですか?」
するとベルを持った三人のうちの一人、右端の人物(長髪だがおそらく男性)が声を張った。
「静寂に。今はミディテシオンの最中です」
ミディテシオン。何かよく分からんカタカナ語だが、どうせどこかの国の言葉だろう。そう思って僕は返す。
「そりゃ失礼。ただ要件に答えてくれりゃすぐにでも退散しますがね」
すると今度は左端の一人(丸刈りだが多分女性)が口を開いた。
「あなたはヒレフダトリさんの言っていた『お客様』ですね」
今度は何だ。ヒレフダトリって。「さん」がつくから人の名前なんだろうが。
すると僕の心の疑問を感じ取ったかのように、真ん中の一人(身長がめちゃくちゃ低い。小人症か?)が口を開いた。
「ヒレフダトリさんは開祖の一人」
と、背後を示す。何だか葬式みたいな祭壇が組まれたその上に、見覚えのある顔の画像が。
阪村……? 最初はそう思った。実際眼鏡を外したあいつの顔によく似ている。けれど、目だとか鼻だとか、少し違和感があった。僕は目を細めて画像を見つめる。
……いや、これ何かで加工した画像だな。
そんな直感があった。もともと目や鼻がスッキリしている人間を写したというよりは、編集で比率を変えました、みたいな顔。こいつがヒレフダトリ、なのか?
まぁ、名前を弄るんだから顔も弄るか。こいつは阪村。
「オーケイ」
僕は両手を広げ「敵意はない」ことを示した。
「帰らせてくれるか」
本当は阪村がどうなったのか知りたくてここまで来たのだがもうそんなことを言っている場合じゃない。薬を盛られ昏倒し、気がついたら荷物を奪われる。歴とした犯罪だ。こういう時は三十六計逃げるに如かず。ずらかるのが得策だろう。
「ヒレフダトリさんのお客様」
しかし長髪の男性が、静かに目を半開きにしてそう呼びかけてくる。
続いて丸刈りの女の一言。
「お帰りになられるならまずヒレフダトリさんにご挨拶を」
次に小人症の言葉。
「氏は『祈りの塔』におられますので」
僕はうんざりしながら訊き返す。
「その『祈りの塔』ってのはどこに?」
すると三人が揃って口を開いた。
「この建物から出て正面、遥か三百メートル先に」
三百メートル。平坦な道なら大したことはないが……。
「途中、フォレを抜けます」
まただ。何だこのカタカナは。
「フォレってのは?」
すると長髪が答えた。
「木々の茂る……」
丸刈りが続く。
「緑溢れる……」
最後に小人症。
「美しき場所」
ははん、まぁ「森」くらいのニュアンスか。
「その中に道は?」
すると三人揃って答えた。
「ロホウトなら、一本」
こいつらよくセリフを合わせられるな。
「一本道です。迷うことはありません」
長髪が締め括った。それから、三人、顔を合わせる。
「ねぇ」
そう、頷く。
*
建物から出るのは意外にも簡単だった。とりあえず自分で決めた右の通路を進むことにし(なので三馬鹿と瞑想者たちのいる部屋からは左に出たのだが)、道を真っ直ぐ進むと、階段が見えてきたので、迷うことなく下りた。玄関は曲がり角を曲がってすぐに見えた。
建物を出る。正面を見た。
森……あいつらは何て言ったっけ? フォレ? が目の前に。問題の建物は、その向こう、スラっと一本、綺麗な姿で伸びていた。
先端の尖った塔。屋根の先っぽが黒く塗られているので正に空に向かって伸びる鉛筆だ。よく見る。時計と思しき円盤がある。濃霧のせいでぼんやりとしか見えないが、逆に言うと濃霧の中でも見える程度でしかないので、高さはそれほどないのかもしれない。
祈りの塔。祈りを捧げる場所か? でもさっきの連中は? ミディ……だか何だかって言うのは祈りの儀式じゃないのか?
様々な疑問が浮かんできたが、一旦無視する。阪村がいるというあの塔を目指す。
フォレに入る。鬱蒼とした森だった。広葉樹にツタ植物が絡んでいる。たらりと垂れてカーテンのようだ。どんなに垂れたやつでも地上から二メートルくらいの高さまでしか伸びていないので、頭に触れることはない。だが、なかなか圧迫感がある。
フォレの中は暗かった。道は一本だが、陽が落ちてきたからか辺りが暗い。だんだん、不快な気持ちになってくる。立ち込める霧の、湿った空気のせいだろうか。
ず、ずず……。
その音は、僕の背後、かなり遠いところから聞こえてきた。
最初、僕の足音か何かだと思った。だが濃い霧の中、背後も暗くぼんやりした中で、それは足音ではないと悟った。
ずず、ず……。
音はだんだん近くなってくる。
ずず、ずず……。
どうしようもない恐怖に突き動かされて、僕は走り出した。何だかまずい! 何だかまずい! そういう直感があった。
走る。走る。走る。
だがフォレはなかなか開けない。鬱蒼とした木々の中、暗い霧の中を走り続ける。
やがて、息が切れてきた頃、僕は足を止めて呼吸を整えた。だが、音は。
ずり、ずり、ずり……。
近くなっていた。何で? どうして? パニックになる。
やがて僕は、逃げ切るのは無理だと悟って身を隠すことにした。辺りを見渡す。手頃な茂みがあった。分け入る。そしてそのまま、しゃがみ込んで息を潜める。
一、二、三、四、五……。
数を数える。やがて、あの引きずるような足音が近寄ってきた。薄暗い霧の向こう。その姿が見える。
それは不気味な男だった。
四肢と直立した姿から、どうも人間であることが最初に分かった。しかし頭のシルエットが四角い。どうしてだ、と目を見張るとその男は頭に紙袋を被っているらしいことが分かった。ずたずた、くしゃくしゃの紙袋はところどころ破れていて、男の息だろうか、端の方が不規則に揺れている。
男が僕の方に近づいてきた。僕は息を殺した。どうか通り過ぎてくれますように! 必死に、祈る。
男の方をよく見た。男は片手に一つずつ、何かを持っていた。
一つ。どうも、大きな
それが鋸だと分かったのは、薄っすら見えた刃がギザギザしていたからだ。長さは……嘘だろ。人の背丈近くある。いや、頭の奇怪さに気を取られていたから気づかなかったが、この男自体もかなりの上背だ。二メートル以上は余裕である。そんな男は巨大な鋸を引きずっていた。ずり……ずり……刃の先が地面を擦る。
そして、もう片方。
「あっ。あっ。あっ」
聞き覚えのある声。
「あっ。あっ。あっ」
目を凝らす。繁みの向こうに、それは見えた。
「あっ。あっ。あっ」
男に、髪の毛をがっしりと鷲掴みにされて引きずられていた男。
阪村将也。
僕が探していた男。
*
「あっ。あっ。あっ」
阪村は小刻みに痙攣していた。震える体が息を絞り出すから微かな声が漏れていたのだ。僕はおそろしさに息を止める。止めてしまう。やがて、紙袋の男が阪村を、下ろした。
それは僕が隠れていた繁みのすぐ傍。右手側の、切り株の前。
紙袋は阪村を切り株の前に座らせた。切り株が背もたれになって、阪村の体が支えられる。何をする気だ。そう思ってみていると、それは一瞬だった。
「おあああああああっ!」
野獣の雄たけびのような声と共に、紙袋が手にしていた鋸を大きく振りかぶると、そのまま阪村の脳天に叩きつけた。飛び散る血。弾ける肉。ふと周囲を見ると白い何かの破片があった。それが骨だと気づいたのはコンマ数秒の間のことだった。
「おあああああああっ!」
男は再び鋸を振りかぶると阪村の脳天にまた叩きつけた。粘着質な音と、硬質な音とが同時に聞こえて血と肉と骨が飛び散る。あまりのことに僕は息を止めるどころか大きく吸い込んでいた。はっ、はっ、と肺が震える。
やがて紙袋の男は、叩きつけた鋸を両手で持つとギコギコと挽き始めた。粘着質な音、瑞々しい音、堅い音、全部聞こえてくる。僕は目を逸らした。見てられない。見てられない。怖い。怖い! 叫び出しそうだった。が、やがて音はすぐに止まった。
「お、おうっ、おうっ、おう……」
紙袋は変な呻き声を上げた。それから徐に振り返り、鋸を引きずると、そのまま歩いて、どこかへ消えていった。
この時、ようやく僕は、気づく。
まるで悪夢から醒める時のように、思考がズームされ、頭の中の何かが展開されるようにして……。
止まっていた息を吐き出す。次の……目が覚めた瞬間。
僕は森の中にいた。周りを見る。クリアだ。木が見える。繁みも見える。ツタも、その隙間から覗く空も見える。さっきまで立ち込めていた霧が晴れている。いや、それどころか、森の中の空気には爽やかささえある。
切り株。
さっき阪村がもたれかかっていた切り株。
何もない。
人の姿など、影も形もない。
ただ、代わりに。
血の跡だろうか。赤黒い、人の背中程の大きさのある染みが根元にあった。
幻覚、なのか……? すぐにそう悟る。
薬の影響だ。薬の影響で妙なものを見せられたんだ。暴力的で、残酷な。
ここで僕はようやく、胃が震えていることに気づいた。
そして、次の瞬間。
嗚咽を漏らして、僕は吐いた。吐瀉物が足元ではねる。もしかしたら靴を、汚したかもしれない。
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