#29 最低だ

 バタンと音を立てて扉が閉まる。同時に、れいは無意識に自身が住むアパートに帰ってきていたことに気付いた。

 玄関でハァハァと荒い息を吐く彼は、思わず力が抜けて座り込みそうになってしまうが、何とか踏ん張って靴を脱ぐ。そして、ひとまず横になりたいと思い、寝室に歩みを進めた。


 辿々しい足取りで着いた先にそれはあった。目の前のベッドに腰掛けようとした瞬間、彼は足から力が抜けてしまい、両手をベッドに預けて、そのまま塞ぎ込むように床に座った。

 なんて酷いことを言ってしまったのだろう。玲は自身がした発言を悔いていた。

 夏樹なつきは出会った時から、夢はヒーローになることだと言っていた。それは確かに20歳の人間が言うには、随分と子供じみた夢なのかもしれない。だが、今になって考えれば、それは少なくとも怒りの感情に任せて言うようなことじゃなかった。

 幼馴染として応援すると、ここで一緒に叶えようと言ったのに。それなのに、余りにも最低だ。これからも友達でいられたかもしれない選択を間違ってしまった。そんな押し潰されそうな現実の中、彼はふと思った。

 すっかり怒りの沸点を迎えて、会議室から出てきてしまったが、皆は夏樹が引退することをどう受け止めていたのだろうか。彼の決断を許してしまうのか。今更、身勝手に出てきてしまったことを後悔し、気になってしまうが、まだ自身の結論すら出ていないのに事務所に戻ることなど、玲には出来なかった。

 そして、夏樹は何事も無かったように、ここに帰ってくるだろう。きっと今日も食べるなと言ったアイスを我が物顔で頬張ってリビングのソファに寝転がる。そんな当たり前の日常を壊す覚悟で、再びしつこく問い詰めたとしても、「そういえば……」と別の話をされて、はぐらかされるだけだろう。

 ならば、そうならないようにすればいい。彼の逃げ道を塞げば良いのだ。

 玲は、そこで出た答えが更に自身を苦しめることになることは充分覚悟した上で、スマートフォンの電源を入れて画面を明るくした。電話帳を開き、目当ての電話番号を見つけた彼は一瞬、決意が揺らいで躊躇ってしまったが、もう後には引けないと発信ボタンを押した。

 そもそも夏樹が辞めると言い出したのは、収録中にあった実家からの連絡で帰省したことが発端で、原因はそこにある筈。そうじゃなくとも、今はとにかく納得出来るような理由が欲しかった。

 玲は僅かな希望をこの電話に託し、藁にも縋る想いで呼び出し音を聴いていた。


「はい。天倉です」


「もしもし。お祖母様、お久しぶりです。夏樹の友人の宮秋玲です」


「あらまぁ。玲さん。久しぶりやね。どうしたん?」


 口調の節々から彼女の上品さを感じ、齢80を超えているとは思えない程、ハッキリとした言葉に玲は背筋をピンと正す。

 そして、当初の予定通りに用件を告げた。


「えぇ。1ヶ月程前、京都の方に夏樹が帰って来られましたよね。実は、あれから夏樹の様子が不自然で、少しだけ心配なんです。

 お祖母様。このことに関して、もしかして何かご存知ではないでしょうか」


 先程よりも1段階落としたトーンで短く「そう」と溢した彼女は、再び明るい声色で告げた。


「えらい心配掛けて悪いわ。あの子に元気が無いとしたら、恐らく夫が。夏樹さんにとってのお祖父さんが病気で倒れてしまってん」


 彼女が言うには夏樹の祖父は現在、病気で入院しており、間も無く退院出来る所までは順調に回復した。しかし、歳もあって以前のように働くことは難しくなった。

 夏樹の実家は大正時代から続く呉服屋だ。その伝統を守る為にも、これをきっかけに夏樹には家業を継ぐ為に帰ってきて欲しいという話になったらしく、それを聞いた当の本人は、両親の言う通りに実家を継ごうとしているのだ。

 玲は信じ難く、再度問いただす。


「本当に間違いないですか」


「玲さんは、夏樹さんが嘘つく子では無いこと、知ってるでしょう」


「……はい」


 それは若干の訛りしか無く、駄々を捏ねる玲を優しく諭しているようにも感じる話し方であった。

 これで全てが明らかになってしまった。しかし、それでも出来るなら、この事実は口にしたくない。だが、玲が前に進むには、これしか無いことも事実だった。


「つまり、夏樹は京都の実家に戻る。ということですね」


 玲はこの震えが彼女に伝わっていなければ良いと思いながら、核心をつく言葉を言った。

 すると、夏樹の祖母は彼の様子に気付いていたのか、気遣うような振る舞いを見せた。


「本当に玲さんにはお世話になってばかりで。夏樹さんは確か……芸能事務所におられたのよね。玲さんが大丈夫だとおっしゃってくれたのに、こちらの都合で申し訳ありませんね」


「いえ。現状を鑑みても、いずれ待ち受けていたことですから。仕方ないです」


 玲の吐き捨てるような言葉に、彼女は誰かに似た、拒否権の無い優しい言葉を掛けた。


「引き留めてもいいんですよ。夏樹さんのこと」


 彼の性格は、つくづく天倉家の血筋から来ている物なんだと感じながら、玲は作り笑顔で応じた。


「そんなこと、出来る訳が無いでしょう。夏樹は、1度走り出したら止まらないような奴です。

 あの日、友達付き合いが面倒くさくて、クラスで独りでいることを選んだ俺にわざわざ声掛けてきて、一緒にヒーローになろうと言ってきた時から、夏樹は何も変わってない。

 変わったのは、俺なんです」


「……」


「俺はただ、本当は途方も無い夢を夏樹と、皆と共に追いかけていたかっただけなんです」


 彼女は玲の吐露を無言で聞き、電話を切る直前、ぽつりと「ありがとうね」と呟いた。

 それは、どうしようもならないのだと思い知らせる言葉となって、やはり玲を苦しめた。

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