T湖 【情】
性暴力を示唆する発言及び描写を含みます。
ご注意下さい。
◇
『え……いや、どういう事?』
▷ ぼく は こんらん していた
……ゲーム風にして現実逃避せずに、一旦落ち着こう。
落ち着いてみれば、わかることはあった。
まず一つ……環ちゃんはおらず、呼びかけに答えないことから考えるに仁平さんも多分いない。
二つ……ここは、僕が記憶する限り知らない場所。
三つ……僕は今声を出せないし、動けない。
なんなら、体が僕のものじゃない……女性、いや、女の子のものだ。
だが、これは目を閉じる前のことから考えれば……多分、霊の記憶。
危険は、ないと……信じたいものだ。
僕がそこまで考えていると、急に体がドンッと衝撃を受けて動いた。
な、にこれ……痛い。
「外に出てろって言っただろっ!? 消えろっ!!」
女が、叫ぶ。
普段の僕なら、『ヒステリックな女性はモテないよ?』
くらいの軽口を叩いて見せるのに……体が震えた。
心が、何かに支配されていく。
この感覚……ああ、知ってる。
恐怖だ。
ただ、怖い。
「……ぁ、ご、ごめんなさいお母さん……」
口が勝手に動く。
それと同時に……今までに受けた仕打ちも、これから受ける仕打ちも、全てを思い出した。
母と知らない男が、楽しそうにしている家に帰れなくて……誰もいない公園で時間を潰す。
食べ物を買うためのお金がないから、長期休みは万引きをして一日一食の分のパンを手に入れる。
中学生になったら年齢を偽ってバイトして、高校には進まずそのまま水商売の道に進んだ。
どんどんどんどん人生をトレースしていく。
その度に、“僕”が塗り替えられていくような気がした。
「あ゛? お前その目は何だよ……俺に文句あんのか!?」
家に来る男は短期間で変わったけど、その大半が自分に向けて放った暴言が怖い。
「君ねぇ……親御さんは?」
「アンタ、万引きするならもっと上手くやりなさいよ」
万引きに失敗した時の蔑むような目と、呼び出された帰りに肩を強く掴んで自分に言い聞かせる母の声が怖い。
「ね〜ぇ? お店終わり、一緒にお寿司どう?」
お店のお客さんの、舐めるような視線が怖い。
怖い。
震える僕の視界が変わっていって、何故か次が最後だと思った。
◇
暗い空が、見える。
背中に固い砂利が当たって痛い。
体が動かなくて、必死に足や手に力を入れてもほんの少ししか動かなかった。
「ちょぉっと大人しくしてねぇ? すぐ終わるからぁ〜」
周りを見回すと、大勢の男が自分のことを押さえつけていて……その真ん中で、店のお客さんだった男の一人が楽しそうに笑っているのが見える。
ネクタイを緩めていやらしい笑みを浮かべる男を見て、男達が何をする気なのかがわかった。
怖い、嫌だ。
私……ああ、嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ怖い!!
精一杯暴れても、男の力には敵わなかった。
引っ掻いたら押さえつけられ、蹴ったら殴られた。
痛い。
嫌だ。
怖い。
「だいじょ〜ぶ、一緒に気持ちよくなろうねぇ?」
そう言って男は私から全てを奪って。
全てが終わった後、用済みというように私の腹にはナイフが突き立てられた。
血と一緒に、自分の光が失われていくのがわかる。
でも、意識は失われなかった。
自分の体に虫が湧いても、指先の肉が失われて骨が見えても、何故か意識だけは私から消えなかった。
やめて……もう、消してよ。
そう願っても、届かない。
……怖い。
……痛い。
私はずっと、嘆くしかなかった。
けど、そのうちある感情が湧いてくる。
【憎い】
自分の母が。
母と一緒にいた男が。
家にいなかった父が。
自分を蔑んだ店員が。
何より……自分に乱暴した上に殺した男達が憎かった。
いらない、いらない、いらない!!
私の人生に、お前らは必要ないっ……!!
目の前が真っ黒に染まっていく。
堕ちていく感覚に、身を委ねようとして……。
『––––っちだ。そちらは、違う。君はこっちだ』
ふと聞こえた声に、私は踏み止まった。
この声は……ああ、そうだ。
僕は、私じゃない。
見ていただけだ。
……帰らないと、いけないんだった。
体は僕のものになっていて、動くようになっている。
声を頼りに、僕は前に進んだ。
【憎い】【痛い】【憎い】【怖い】【憎い】【消えたい】【痛い】【怖い】【憎い】【憎い】【憎い】【憎い】憎い憎い憎い憎い憎い。
後ろから聞こえる叫びに、背を向けて。
僕はただ声のところへ行こうと、歩き続けた。
◇
「……おかえり」
『おかえりなさい』
目を開けると、月のない夜空と自分を覗き込む環ちゃんと仁平さんの顔が見えた。
どうやら、霊の記憶を見てからちゃんと帰って来れたらしい。
「うん、ただいま……仁平さん、ありがとう。おかげで助かったよ」
『いや? 何のことかわからんな』
僕が起き上がってすぐにペンダントの中に戻った仁平さんはとぼけたけど、僕が霊の感情に呑み込まれた時に助けてくれた声は……確かに仁平さんの声だった。
だから、もう一度感謝を告げてから立ち上がる。
スゥッと頬を滑った水滴は拭き取り、何でもないような顔をして……僕が起き上がったのを確認してから、少し離れた環ちゃんの方を向いた。
「記憶は霊視点でしか見れないけど、だからと言って霊に同情し過ぎると……記憶を見ている途中で、自我を呑まれる。
だけど、【名付け】をするには霊への“情”も必要だ。
じゃないと、こちらの声が相手に届かないから。
祓わずに【名付け】をしたいなら……記憶の中で痛みや苦しみを感じることで霊に同情しながらも、自分を保ち続ける強靭な精神がないとダメだよ。
……それで、そうする? あの霊に【名付け】は出来そう?」
そんな危険なことをいきなり実技で思い知らせるのはあまりにも強引すぎると思うが、それも環ちゃんの信頼だと思うことにする。
『仁平、盾くんなら出来るよ』
という気を失う直前に聞こえた環ちゃんの言葉を、確かに覚えていたから。
そう心の中で気持ちを整理してから、僕は環ちゃんの最後の問いかけに答えるために口を開いた。
「僕は––––」
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