T湖 【獄卒】

「わ、ぁ……」


 後ろから勢いよく右手を掴まれ、引っ張られたことで僕の体は右後ろに傾いた。

 その顔の左側を、糸が通過する。


 まだキーンッといって機能しない耳を抑えて唖然としていると、環ちゃんが確かに僕と目を合わせて大きく「に・げ・ろ」と口を動かすのがわかった。


「まっ、て……おいてけないっ!!」


 自分が何を言っているかもほとんどわからないままだが、まだ掴まれている感覚のある右手を引っ張られながらも必死で左手を環ちゃんに伸ばした。


『今は一度逃げるぞっ。ここに君がいても、よん席様……環様の邪魔になるだけだっ』


 後ろからの声は、異常なほどよく通った。

 それに、信頼出来ると感じた。


 逃げろと言った環ちゃんと、何かはわからないけど助けてくれた手と声。

 ……僕は、少しの間躊躇ちゅうちょして。

 結局、声の通りだと判断して唇を噛みながらもその場を離れるしかなかった。


「……ふぅ。盾くんは任せたよ、仁平」


 僕が背中を向けた後ろで、環ちゃんが安堵したように息を吐いて……その体から黒いナニカを発生させていたことを、走り出した僕は知らなかった。


 ◇


 とにかく走って、走って、走って……右手を掴んでいるのが何なのかが判明したのは、湖の周りを半周ほどしたところだった。


 急に手を掴まれる感覚がなくなったかと思えば、スゥッと半透明の男が現れたのだ。


 髪はヘッドバンドのような物で邪魔にならないように上げられており、それによって立った赤い髪が炎のように見える。真っ直ぐに僕を捉える目は、本当にキラキラと輝く赤色で……まるでルビーのようだ。

 闇と同化する黒い着物が、赤い髪との対比で際立って見える。

 神羅さんが持っているのが美しく輝く水のような魅力だとすると、彼は豪快な炎のような魅力を持っている。


 ……ああ、鬼か。


 何故かそう確信しながらも、驚きと疲労のあまり声も出せない僕に……その男は、すっと頭を下げた。


『失礼した。俺はSトンネルの霊に取り込まれていた中級獄卒、仁平幽緋という。悪霊に取り込まれて自我が消えようとしているところを、肆席様……環様に助けられたのだ。とは言っても、俺はすでに実体を持てるほど力が無くてな……どうやって恩を返そうかと訊いたところ、君をサポートするように言われたのだ』


 ………………へ?


 僕は男……仁平さんの言葉に、少しどころではなくちゃんと固まった。

 とにかくのっぺらぼうに見つからないように茂みに隠れて欲しいと言われて、思考停止したまま茂みの後ろにしゃがんだ僕は……急にある言葉を思い出した。


『まぁ……これくらいなら慣れてるしね。私が戻るだけなら別に、いつでも出来たんだ。呑まれた先で、少し探し物をしてたから遅くなっただけだし』


 という環ちゃんの言葉。

 この時環ちゃんが言ってた探し物って、もしかして貴方か!!


 訊いてみると、確かにそうだと肯定が返ってくる。

 中級獄卒……ということは、さっきの霊は仁平さんよりも格上だったはずだ。

 それでも落ち着いた様子だったことから、さすが環ちゃんが「腕が立つ」と評価していた人だなと感じる。


 ……と、違う。

 こんなにゆっくりとしている暇はない。

 環ちゃんは今ものっぺらぼうと一緒にいるのだ。

 早く助けなければっ……。


「仁平さん……悪いけど、僕を助けて欲しい。環ちゃんを助けたいんだ」


 真っ直ぐと目を見て頼むと、仁平さんは怖い見た目とは裏腹にニカッと笑って頷いてくれた。


『ああ……微力だが、この先俺は君に力を貸そう。先輩獄卒として、環様が期待している君のことを応援する』


 そう言って、彼は走った時にスーツから出て来たのだろうペンダント……僕の乞石に触れた。

 僕はそれを見て、彼が祓われてしまうのではないかと焦ったが……目の前の半透明の彼には、何の変化もない。

 大丈夫なのか訊いてみると、ただ彼が今より安定して姿を表せるように依代を変更しただけらしい……よくわからないが、まぁ問題ないということだろう。


『さて……環様を助けるとは言っても、どうする気だ? あの霊の呪いもわかっていないだろう?』


 やっと本題だと言うように僕に問いかける仁平さんに、僕は首を横に振った。


「呪いには、既に見当がついてる」


 そう。

 そこは、既にアタリをつけていた。


 さっき糸を見てから走っている間、ずっと考えていた。

 ……そして、ふと怪談を思い出したのだ。

 のっぺらぼうの正体は、『目も鼻も口もぐずぐずの腐乱ふらん死体となってしまった女性』だと怪談では言っていた。


 ……だったら、日本刀が溶けた理由も見当がつく。


 仁平さんに僕の考えや予想を説明をして、僕が詳しくない霊の生態については彼にアドバイスをもらい……まとめた作戦を頭に入れて、僕は拳を握った。


 助けてもらってばっかりでは、いけない。


「絶対に、環ちゃんを助ける」

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