T湖 【急襲】

『立ち入り禁止』の札を超えた途端、急に空気が冷えたように感じる。

 いくら今が冬だとはいっても、ここまで急に冷え込むのはおかしい。


「環、ちゃん……なんか、おかしくない?」


 Sトンネルの時、本体を前にしてもここまでの薄ら寒さは感じなかった。

 嫌な感じ、としか言いようがない不快感。


 それを環ちゃんに訴える為に僕が隣を見ると、環ちゃんは空中に目をやって一言……「マズい」と呟いて、急に日本刀を抜いたところだった。


 その急な動きの理由が掴めずにいる僕を置いて、環ちゃんは焦ったような動きで日本刀を構える。


「くそっ……」


 環ちゃんが日本刀を構え終わった途端、日本刀は

 更に、ドゴッと音を立てて環ちゃんが吹き飛ばされる。


「環ちゃんっ…………は?」


 刀が溶けるだとかいう異常事態に驚きながらも、環ちゃんが吹き飛ばされた後方を振り返り……息を呑む。


「のっぺら、ぼう……」


 そこにいたのは、俯く環ちゃんの手首を掴んで顔を覗き込んでいる……顔のない女だった。


 ◇


『……』


「……」


 女は、何もせずにただじっと環ちゃんの顔を覗き込み続けていた。

 対して、環ちゃんも無言だ。


 環ちゃんの手に刀はない。

 地面に、持ち手が転がっているのだけが見えた。


 とりあえず、言いたい。

 環ちゃん、堂々と言ってたよね?


『盾くん、覚えておいて。何事にも【前兆ぜんちょう】というモノは確かに存在する。それは、呪いですら例外ではないんだ』


 そう、言ってたよね??


 バリバリ本体出て来てんじゃねぇかよっ!!

 のっぺらぼう出て来てるよ!!


 そう心の中で叫んだ僕は、やっと思考を回せるくらいにまで落ち着いた。


 また、だ。

 環ちゃんには頼れない。


 考えろ。

 環ちゃんを助ける為に、自分が何をすべきかを。


 震える足を叩き、痛みで恐怖を抑えつける。

 Sトンネルと違って、顔以外は何の変哲もないヒトの姿をしているのだ。

 これくらい、冷静に対処できなくてどうする。


 恐怖は冷静な思考の敵だと知っているのだから、活かせ。

 わからないことは多いが、わかる情報もいくつかあるのだから。


 それに、渡されたもある。


 僕は、幾分か冷静さを取り戻した上でスーツの内ポケットに手を入れ、握っているのとは別の人型の紙……依代よりしろだと言われた紙を取り出して唱えた。


 


 そう教えてくれたのだ。

 自分と引き離されたら呼べとも、環ちゃんは言っていた。

 ……ならば、使うのは今だ。


「来てくれ。––––ひとひっ、」『……いラなぃ』


 僕が依代を握って呟き始めるのと、女が急に顔を僕の方に向けて何かを言ったのは同時だった。


 驚きで再度固まった僕の目は、限界まで性能が高まったのか……環ちゃんを捕まえる女の背中から、細い糸が伸びる様子を正確に捉えていた。


 あ……これは、触れてはいけない。


 直感でそう感じ取ったが、思うことと動くことは別だ。

 僕はその糸が自分に迫る様子を、ただ見ているしかなかった。


「来い。そして守れ––––仁平ひとひら幽緋ゆうひ。役目を全うして見せろ」


 今まで黙っていた環ちゃんが、何か口を動かすのが見えた。

 何を言ったのだろう。

 ああ、くそ。


「聞こえないっ……」


 自分の心音以外の全ての音が、世界から消えている気分だった。


『イラナイイラナイイラナイイラナイイラナイ。おトコハ、イらない』


 今度は、尋常じゃない音量の叫びで感覚を壊される。

 口無いのに、どこから声出してんだよっ……。


 そう、よくわからないところにだけ意識が向いた。

 そしてその間にも、糸は僕に迫っている。


 きっと、僕はここで死んでしまっていただろう。


 ……僕の額に迫っていた糸が触れる直前で、後ろから誰かに手を引かれなければ。


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