おじいちゃん

 ぼくの家のおじいちゃんはとても優しい人だった。

 まだ物心がつく前のぼくはお父さんが普段から呼んでいたのを真似しておじいちゃんの事は「おい、じじい」と呼んでいた。

ひどい呼び方だと未だに思うが、それでもおじいちゃんは嫌な顔一つせずにいつもぼくに太陽のような笑顔を向けてくれた。


「おい、じじい」


「なんだい、ぼくくん」


「あそべー」


「ようし、このじじいとあそぼうか」


「わぁい」

 

 難しい本や新聞をいつも読んでいた人だった。小難しい顔をしながら漢字やら数字やらが羅列されたそれを横にどけた後、いつもぼくはおじいちゃんのひざにのせてもらった。

 当時のぼくはそれが一番すきだった。

 ぼくは当時気管支喘息とアトピー性皮膚炎を患っていた。

 喘息の発作が出ると体調が悪くなって体の抗体が低下するからか、アトピー性皮膚炎の炎症症状も誘発してしまう体質だった。逆にアトピーで肌が荒れるとそれに呼応するかのように喘息の発作が出て、「ヒュー、ヒュー」といった喘息特有の呼吸音が出ていた。

 元々はどちらも発症していなかった。だが、赤子の頃のぼくが寝かされていた部屋で飼っていたハムスターの死骸を放置していたり、両親が共にヘビースモーカーで、日常的にぼくの真横でよく喫煙していたりしたのが原因ではないかと当時かかりつけのお医者さんに言われた。

 ぼくは毎日のように発作で苦しみ、毎回嘔吐して寝床を汚していた。アトピーで体中の皮膚が赤く裂けてベビーベッドはいつも血だらけだった。

 自分のゲロまみれの枕と血液で真っ赤になったベビーベッド。細菌感染もよくしていて母は手間がかかる子育てのストレスをぼくを病院まで救急搬送してくれていた救護隊員の人達に暴言を吐く事で発散していた。

 真夏の救急車の中で彼女は救急隊の人たちに対して「自分の子供が寒がって震えているから冷房を切れ」と命令したり、いざ冷房の電源を落とすと今度は「このぐらいの事も最初から配慮できないのかよ。マジで気が利かねぇな」といって違う意味で救急車内の温度を下げたりしていた。

 当時のぼくは今よりも体が弱い文字通りの虚弱体質だったので、毎日のように病院に通い、3日に1回は点滴を受けていた。

 ぼくの両腕はいつも穴だらけであり、一番酷い時は紫色に変色していた。

 「注射で泣かないなんてえらいね」と看護師のおねいさんに褒めてもらったが、一定の回数をこなしてから針を刺される感覚がなくなってきていたので、「痛みを感じないのに泣くはずがないじゃないか。不思議な事をいう人だなぁ」といった感じで、当時は自分が褒められている意味がよくわからなかった。

 病院に長くいた為か、家で眠れなくなる時も多かったぼくを、おじいちゃんはよく負ぶって外を練り歩いた。

 屋台のたこ焼きを買って食べさせてくれたりもしたし、ぼくが眠りに落ちるまで何時間も負ぶったまま近所を散歩してくれたりもした。

 自他共に認められていた、菩薩のような優しさを持った人であった。

 

 ぼくはそんなじじいが好きだった。ずっと一緒にいたかった。

 

 ある日のおじいちゃんは普段とは少し違う服装だった。

 道を歩くサラリーマンが来ているようなスーツを身に着けて、頭には紺色のボーラーハットを被っていた。

 上向きに反った帽子のつばが邪魔をしていて母に抱きかかえられたぼくからはおじいちゃんの表情は見えなかった。

おじいちゃんの顔が見えなかったのにも関わらず、その時ぼくにはなぜかおじいちゃんがいつもとは少し違う表情をしている感じがした。

 

 「それじゃ、行ってくる」

 「いってらっしゃい」

 

 玄関先で母と多少会話した後におじいちゃんはそういってステッキをつきながら家を後にした。

 いつもぼくを負ぶって歩いてくれた屋台や公園がある方向とは真逆の、反対方向の駅のホームに向かって一人で歩いて行った。

 

それっきり、おじいちゃんは家に帰ってこなかった。


おじいちゃんはガンで亡くなってしまったのだ。

 今にして思えば医者から余命宣告も受けていただろう。自分の死期をそれとなく悟っていたようにも思える。

 そんな状態になっていてもぼくに向けてくれる笑顔に少しの陰りも見せはしなかった。

 一人になってしまっても。好きだった人に先立たれ、置いて行かれてしまっても。

 

 それでもやっぱりぼくはじじいがすきだった。


 おじいちゃんが寝かされた棺に白百合の花をそっと添えた時、周りの大人は皆泣いていた。

 

 「ほら、おじいちゃんにさよならして」


 母にそう言って急かされた。

 僕は言った。


 「おじいちゃん、さようなら」


 親戚の人やお父さんやお母さん、おばあちゃんは僕の言葉を聞いてさっきよりも更に大きな声で泣き出した。嗚咽が漏れ出てきているのが聞こえてくる程に。

 

 でも。ぼくは。

 

 ぼくだけがその場で泣いていなかった。


 その後、おじいちゃんのお葬式から間もなくぼくの弟が産まれた。

 薄められた粉ミルクを口に頬張りながらぼくはそれをずっと見ていた。

 それっきり、それまでのぼくが知っていた家族はもうどこにも見当たらなくなった。


 ぼくは1人になった。

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