おばあちゃん

 ぼくは事前に教えてもらった住所に向かって自転車を走らせていた。


「どこかなぁ。この辺りだって聞いてたけれど……」


 ぼくは見慣れない地区で右や左に頭を振りながらケント君の家を探していた。そうしていると段々と目の前に大きなマンションが建物の間から顔を出してきた。

  

 「ここだ。この建物の3階の突き当りの……301号室」


大きなエレベータにおずおずと乗り込み、背を伸ばしながら「3」と書かれたボタンをゆっくりと押す。そうすると、少し間を開けて重力から一瞬解放されるのを感じた。


もし今ぼくが乗っているエレベータが一番下まで落っこちたとしたら。地面に激突する瞬間にジャンプして宙に浮いていれば無事で済むんじゃないか。そんな子供特有の下らない妄想に胸を膨らませていると特徴的なエレベータの到着音が鳴り響いた。

 ぼくは分厚いエレベータのドアからすぐに飛び出して廊下に躍り出た。その後、歩いていると時間が長くなるのを感じるその廊下を歩いて301号と書かれたドアのすぐ隣にあるインターホンのボタンを押し込んだ。


「いらっしゃい。待ってたぞ」


「お邪魔します」


 ぼくはケント君に迎え入れられて初めて他人の家に上がった。

 

 ぼくは衝撃を受けた。

 

部屋にゴミが散乱していない。部屋の隅に積み上げられて山のようになっているおもちゃの墓場もなければ、趣味の悪い絵も壁にかかっていない。壊れた型落ちのスロット台やコンシューマのゲーム機、それらに関連するソフト、ディスク、攻略本や溶けて1つのゴム玉のようになったキンケシのお化けもない。押し入れの襖をくの字型に折り曲げようとしている埃くさい布団の山もない。1回も使われずに箱に入ったまま部屋を占領する健康器具の山もない。

 ケント君の、その家はぼくにとってあまりにも綺麗すぎたのだ。

 ぼくは普段から人を家に呼ぶなと母からきつく言われていた。いつもなんでと聞くと「何でも良いから呼ぶなよ」と言って母は顔を怖くした。ぼくには今までなぜこの質問をすると両親は決まって機嫌を悪くするのかその意味がさっぱり分からなかったが、この時やっと両親の考えていた事が理解できたのである。

 ぼくはまた父と母がきらいになった。

そんな事を考えていると家の奥の扉が開いて妙齢の女性が顔を出した。 


「いらっしゃい、ケントのお友達?」


「はい」


「そう。いらっしゃい。これでも食べてくつろいでいってね」


そういってケント君のおばあちゃんはぼくにクッキーの箱を渡してきた。これもぼくには衝撃的であった。クッキーを箱でなんて買おうとすればやれ高いから別のにしろだのこっちの方が良いぞだのと、ぼくの両親は勝手にぼくの買いたいものを変えてしまうのだ。意地をはってなんとか買ってもらったとしても「お兄ちゃんでしょ、我慢しなさい」といって弟にクッキーを渡してしまうのだった。

 ぼくのおばあちゃんはそんな風にぼくを扱う両親とよく喧嘩をしていた。自分の子供をもっと大事にしろと父を叱る祖母とうっとうしいと言いながらうざったそうに祖母を睨みつける父。我関せずで見て見ぬふりをする母。おじいちゃんが死んでしまってからぼくの家庭はぐちゃぐちゃだった。

 でもケント君の環境に嫉妬したり羨んだりすることはなかった。なぜならケント君はケント君で自身の祖母と仲が悪かったのである。


「ケント、あんたは宿題もうやったのかい、やってから遊びな!」


「うるせぇくそばばあ、失せろ!」


「誰がくそばばあだ、このくそがき!」


「あぁ、ぼくくんはゆっくりしていてね?」


「……ぁあ、は。はい……」


ケント君とは対照的にぼくに対しては甘ったるいくらいあの人は優しかった。服装はいつもおしゃれで ヨハネス・フェルメールの真珠の耳飾りの少女のように青色のターバンをいつも頭に巻いていた。悪い人ではなさそうだったが、人を見て対応を変えるのが当たり前と言わんばかりの二面性がぼくは若干苦手であった。

 ぼくのような人間にすら優しくできるならば、自分の孫1人くらい愛せそうなものなのだが……。

 というか今にして思えば人目も憚らずにお互いに罵詈雑言を吐き散らかすのは内面がちょっと下品だった気がしなくもない。といってもケント君の方も基本的に誰に対しても突っかかる大変攻撃的な性格だったので、それも不和の原因の1つだと思う。

 ケント君は、自分が気に入らないやつに対しては上級生だろうが学校の先生だろうが、自分の祖母であろうがおかまいなしに喧嘩をふっかけていたし、今になって思えば、ぼくはなぜ彼と仲良くなれたのだろうか。いじめられこそすれど、ましてやともだちなどなれなさそうな人種なのに。本当に不思議で仕方がない。

 そもそもの話、ぼくと仲良くするメリットがあるようにはどれだけ考えても全く思いつかないのだが。

 まぁそれはともかくとして。

 ケント君と祖母以外の人はというとだ。

 お母さんは綺麗な人でおばあさんのおしゃれ好きなところも受け継いでいるのか服装はいつもしっかりしていて自宅の中でも出かけるのだろうかと思うほど美しかった。

 お父さんの方は高位のお医者さんで忙しくてあまり家には帰らなかったが、たった1度だけぼくが遊びにお邪魔している時に帰ってきたことがあった。

 とても賢そうな人(お医者様になれるくらいなので実際賢い)で高級そうなスーツとスタイリッシュなフレームの眼鏡が印象的な人だった。自宅なので白衣こそ着てはいなかったが、羽織ればさぞ様になったであろう事と思う。

 

ここでまたぼくにとって衝撃的だったのが、夫婦仲がとても良好だったことである。


 ぼくにとっての両親は暴力も振るうし暴言も吐くし、毎日お互いの悪口を言いながら喧嘩している生き物だった。ぼくが間に入ろうものなら、持ち上げられて引きずられたり殴られたりするので話しかけられない人たちだったのである。なので親と会話をするときはいつも話しかけられるのを待つというのがぼくがやっていた処世術で、返事さえできれば家を追い出されたりもしないのである。母の期限を損ねると近くにおいてある物かぼくが宙を舞う。父の期限を損ねると泣きつかれて気を失うまで家の外に出されてしまうのである。鍵も内側からかけられるので戻りようがなく、かといって町を出歩くと近隣住民から警察やら児童相談所に通報されるので後が怖い。

 もうそうなったらどうしようもないので、ぼくは結局いつものように意識がまどろむまでヘドロくさい放置された金魚の水槽の横で体育座りしているのである。


ケント君もおばあちゃんと仲が悪いしぼくも両親達仲が悪い。

ぼくらは似た者同士だから仲良くなれたんだ。ぼくらの不幸は幸福に繋げる為にあったのだ。ぼくの痛みは無駄なんかじゃなかったんだ、本当に良かった。

 そう自身に言い聞かせていたのに。

 手が届きそうになるほどの目の前でそれをまざまざと見せつけられて、ぼくの心は粉々になっていくのを感じた。

 美しい家族の在り方をぼくは知ってしまったのである。

 帰りの道の夕暮れの日の光がぼくを橙色に染め上げる。はじめてのともだちの家にお呼ばれしてたくさんの人に親切に扱われたのに。なのに一体全体どうしてかぼくのこころはすっかり灰色であった。

 経年劣化で色が剥げ始めた自転車のサドルを見つめながら、ふらふらとぼくは帰路についた。

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