おとおさん
小学校に入学したぼくはひらがなに苦戦していた。
初めての「こくご」の授業で「あ」の下部分、丸みを帯びた「め」に似たところがうまく書けないのです。
ずっと自分の机で消しゴムとえんぴつが交差して真っ白で綺麗だったプリントはもうすっかりねずみ色になってしまっているのでした。
クラスメートが列をなして先生の前に並んでいるとき、その列の隣にある席に座ってプリントとにらめっこしているのはぼくだけだった。
もこもこした雲。花丸の赤。灰色になった消しゴム。文字を書き入れる部分だけくしゃくしゃになったプリント。削れたえんぴつの芯で真っ黒に染まっていく手の側面。
ぼくは身も心もみじめであった。
2年生になっても状況は変わらなかった。
掛け算ができずに泣きながら居残りしても結局覚えられなかった。掛け算ができないので割り算ももちろんできなかった。
算数はもう追いつけなくなった。
英語もだめだった。
海外というものにまったく興味が沸かず授業中ずっと筆箱に描かれたアニメキャラクターを眺めていた。
帰りの会で配られたプリントには自分の名前と住所を記入する欄があったが、ぼくは自分のおなまえもすんでいるところも書けなかった。
どちらも知らなかったのである。
「さっさと書いて下校しろ」と言わんばかりの周りの視線が本当に辛かった。
小学校での自身の出来損ない加減に辟易しながら家に帰るといつも大人の怒号が鳴り響いていた。
当時のぼくの家は父と母と父方の祖母そしてぼくと弟の5人で暮らしていました。
父と母は仲が悪く毎日夫婦喧嘩をしていました。
「おまえが悪いんだろ!」
「なんでそんなこと言うの!?」
これはいつも二人が喧嘩しているときに決まって出てくる文句だ。
ここから数十年経っても他人と言い争いになると未だに似たような台詞を吐くので間違いない。
台所に晩御飯が飛び散ったり、フライパンの取っ手がとれて居間と台所を結ぶ扉の前にころがっていたりした事もありました。
父は当時勤めていた会社をリストラされたのをきっかけにうつ病になってしまって酒の量が増えていたのも原因だったと思います。
母は他人への思いやりに欠けた行動をとる癖があり、あまり深く考えを巡らせずに相手の傷つく事も平気で口にしたりするのを日常的に繰り返していました。
2人は愛し合って結婚した(事実かどうかはともかくとして2人はそう言っていた)ものの、心根が清く優しいが家事や掃除が一切できず、さらに無神経な発言で他人の神経を逆なでしてしまう母と、普段は優しい(精神が安定している間だけ)ものの癇癪持ちで怒ると粗暴になり女子供に手をあげるので沢山の人から嫌われていた父では家庭がうまくいくはずもありません。
あっという間に家族はばらばらになっていきました。
そんな家族の一大事に、ぼくは2人を仲介することもせず、目を血走らせて言い争いをする親が怖くておばあちゃんの懐にうずくまって泣くしかできませんでした。
おばあちゃんがぼくを見つめる瞳は、あの時とても悲しい色をしていたと思います。
小学2年生になったばかり、8歳の時でした。
ですが悲しい事ばかりではありませんでした。
なんとぼくにともだちができたのです!
その子はぼくと同じ学年のケント君でした。けんとくんは家族とうまくいっていないところや、クラスに馴染めず孤立気味になっていたのがぼくとよく似ていました。
1人でサッカーボールを蹴っていたぼくに話しかけてくれて、「一緒にサッカーしようぜ」と誘ってくれたのがきっかけで仲良くなりました。
ぼくたちは日が暮れるまで学校のグラウンドで2人でフリーキックをして遊びました。
ケント君は誘ってきただけあってボールの扱いがとてもうまかったのが印象的でした。蹴った時の足が向いている方とは反対の方角にボールが曲がるのです。ぼくにとってケント君はまるで、一代ブームを巻き起こした伝説的サッカー漫画の主人公そのものでした。
「ケント君の球、ぐるんと曲がってすごかった」
「お前の球もトリッキーで面白かったぜ」
ぼくはボールを蹴るのが初めてだったので色んな方向に吹っ飛ばしてしまっていたのだが、彼はそんなぼくを責めないどころか褒めてくれたのだった。
今にして思えば見え見えのお世辞にしか聞こえないので、こんな言葉で笑顔を取り戻した当時のぼくの単純さ加減に思わず笑ってしまうのだが。
だがそんな捻くれた今のぼくの目でも当時の彼は輝いて見えると断言できる。
なぜなら彼は腹芸を好まない人だったからだ。
嘘が下手くそな男の子、つまるところまっすぐな奴だったのである。
仲良くなってから毎日のように一緒にいることが増えたぼくら。
あの時の楽しさったらなかった。ともだちってこんなに素晴らしいものなのかと思った。一緒に遊んでくれるし、一緒に笑ってくれる。
放課後に真っ暗でネガティブな単語しか飛び交わない自室にこもり、1人で勉強をするだけの生活なんてもう戻れなかった。
ともだちのいることの嬉しさ。1人でない事の安心感。悩みや辛さを共有できる存在が隣にいる。こんなに嬉しい瞬間は今までの人生で一度たりとも存在していなかった。
そんな幸福を享受していたある日の事。
ケント君はぼくを自宅に招待してくれた。
「おい、今日学校終わったら俺ん
「うん必ずいくよ」
ぼくはまっすぐ家に帰っていつもすぐ済ませていた宿題をほっぽり出して、1年前に乗れるようになったお気に入りの自転車に跨って足に力を込めた。
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