快復力と回復力

 翌日、一時課(午前六時)の鐘で陸王りくおう紫雲しうんは目覚めた。雷韋らいは案の定、ぐっすりと眠ったままだ。

 陸王と紫雲は交互に顔を洗い、口の中を清めて身仕度をする。その間、二人には会話はなかったが、ふと紫雲が陸王に声を投げて寄越した。

「昨夜、面白い話をしていましたね」

「あ?」

 陸王が怪訝そうに顔を歪める。それをなんでもないことのように見遣って、紫雲は続けた。

「季節に匂いがあるという話ですよ」

「寝てたんじゃなかったのか」

 紫雲は小さく唇を笑ませ、

「寝ているつもりだったんですが、声が聞こえたものですから」

 悪びれることなく言う。

 陸王はそれを見て面白くない顔をするが、一言「まぁな」とだけ返答した。

「鎮魂の時期は、秋とも冬とも違う匂いがしますね。朝一番で嗅いでみると分かりやすいですよ。窓、少し開けてみます?」

「やめろ、寒い」

 仏頂面でやめさせる。

 紫雲は小さく笑って言う。

「今の季節は清々しい、いい匂いがするんですけどね。残念」

 その口調は、さほど残念がっていない口振りだった。雷韋との会話があったために、案外、揶揄からかわれただけかも知れない。

 陸王は内心で、面倒なと思わずにはいられなかった。

 それはそれとし、陸王はそれ以上紫雲を相手にせず、雷韋のこぶの状態を確認しに寝台に近寄った。雷韋は頭の上まで完全に毛布にくるまっているが、陸王はそれをまずは引き剥がすことにした。取り敢えずは頭だけ毛布から出せばいいとして。

 雷韋の被っている毛布を剥がすと、長い飴色の髪がぐちゃぐちゃになって現れた。一目見ただけでも、あちこちで髪が絡まっているのが分かる。雷韋が起きてから、この絡まった髪をほぐすのを考えるとうんざりした。陸王は思わず溜息をついたが、気を取り直して、こぶの出来ていた部分に触る。

 昨夜は確かにこぶと呼べるものがあったが、既にそれはどこにもなくなっていた。こぶの出来ていた場所も、別の場所も触って確認したが、やはりない。と言う事は、一晩で治ったと言う事だ。この雷韋の快復力には陸王も驚かされる。ほかの人族なら、二、三日はこぶがあるはずなのに、雷韋は一晩で治ってしまうのだから。

 それまで陸王のすることを見ていた紫雲が、おもむろに声をかけてきた。

「こぶの状態はどうです?」

 さっきは陸王を揶揄うようなことを言ってきた紫雲だったが、問うてくる言葉にその影はなかった。

「治ってるな」

「え? 一晩でですか?」

 陸王は驚く紫雲に目を遣り、逆に問うた。

「お前、雷韋こいつの負った切り傷がどうやって治るのか見た事はあるか」

 陸王の言葉に、紫雲は怪訝そうな顔つきになる。

「どう治る、とは?」

「軽い怪我なら、見ている間に治っていくんだ」

「まさか」

 当然ながら、紫雲は信じられないという顔をする。紫雲の態度は相応の態度だった。目に見えて切り傷が治っていく様など、普通に考えてあり得ないからだ。陸王はそれを証明するように、寝台脇に立て掛けてあった吉宗を手にし、鞘から抜いた。

「何をする気ですか」

「到底信じられん現象だからな。証明してやろうと思ったまでだ」

「雷韋君を傷つける気ですか?」

 少し切るだけだと言って、陸王は雷韋の腕を毛布から引っ張り出した。

 紫雲はあまりのことに慌てて止めようとするが、陸王は紫雲の手を払って雷韋の腕に吉宗の刃を押し当てた。刃を引くと、そこには一本の朱色の線が出来上がる。

「なんてことを!」

 紫雲は陸王の手から雷韋を奪い取って、抱きしめた。その間も、雷韋はすやすや眠ったままで、瞼がぴくりとも動かない。

「これ以上は何もしねぇよ。いいから、雷韋の傷口を見て見ろ。既に塞がり始めているぞ」

 陸王の言うのに、紫雲は雷韋の腕につけられた傷跡を目にした。赤く血の筋が浮かんでいたその場所は、既に瘡蓋になっている。紫雲は驚いたように瘡蓋になっている傷口を見た。

「瘡蓋を払ってみろ。傷が治っているはずだ」

「まさか」

 二度、三度と雷韋の腕と陸王を見比べて、陸王の顔に疑いも何もないのを確かめると、紫雲は言われたように雷韋の腕の瘡蓋を払う。最初は瘡蓋が腕にぴったりと張り付いていたが、恐る恐る紫雲が爪を立てると、サリサリと瘡蓋は剥がれ落ち、あとにはなんの傷も残っていなかった。傷ついた跡さえ存在しない。

 紫雲はその様に、驚きの目を向けた。確かに陸王は雷韋の腕に傷をつけたのだ。嘘偽りのない行為だった。傷口にはすぐに血の筋が出来上がったのも確認した。そのあと、すぐに紫雲が陸王から雷韋を奪ったのだ。信じがたいことだが、その僅かな間に雷韋の腕の傷は治ってしまっていた。傷のついた場所を親指の腹で撫でてみたが、凹凸も傷跡も何もない滑らかな肌だった。

 陸王は吉宗を鞘に戻して、「見ただろう」と促してくる。

 そう。陸王の言うとおり、紫雲は見た。傷があっという間に完治した場面を。嘘偽りも、ましてや見間違えも紫雲はしなかった。確かに出来た傷は、あっという間に治ってしまっていたのだ。

「これが鬼族の快復力だ」

 陸王は鞘ごと吉宗を腰帯に差してから言った。

「つまり、この要領で雷韋の頭のこぶも復したわけだ」

「こんな事が」

 あとに続く言葉はなかった。

 紫雲の腕の中にいる雷韋は、未だにぐっすりと眠っている。傷つけられて痛みがあったはずだが、そんなものは意にも介さず眠り続けていた。

 それでもまだ紫雲は信じられないという風に、雷韋のこぶが出来ていた頭に手を伸ばす。そこに出っ張りなど全くなかった。するりとなんの抵抗もなく撫で下ろせる。

 紫雲の驚く顔を見ながら、陸王は命じるように声をかけた。

「分かったら、雷韋を寝台に寝かせろ。それとも、お前の腕の中にいる雷韋の頭を引っ叩いてもいいか」

「何も毎朝叩き起こさなくても」

「それくらいしねぇと起きねぇのは知っているだろう」

 街の宿屋では、最近は紫雲と雷韋が一緒になることが多かった。紫雲も雷韋の寝汚さは知っていたが、叩いたりせずに起こしてやっていたのだ。それはとても一苦労な事だったが。逆に陸王と一緒になるときは、毎朝、雷韋は引っ叩かれたと文句を言っている。

 紫雲は雷韋を寝台の上に戻さず、抱き起こしたまま、自分で起こすことを選んだ。

「雷韋君、朝ですよ。起きてください」

「そんなお上品に起こしたって、そいつが素直に起きるタマかよ」

「貴方と違って、私はいつも穏便に起こしていますよ」

 陸王の言葉に反発するように紫雲は言った。

 それを面白いと感じたのか、陸王は鼻で笑う。

「なら、穏便に起こして貰おうじゃねぇか」

「言われなくてもそうします」

 紫雲の言うのを聞いて、陸王は自分の寝台に腰を下ろした。ここから楽しい見世物を見物してやろうというのだ。

「雷韋君、ほら、起きてください」

 雷韋の肩を揺さぶり、少年のまだ丸みを帯びた頬を軽く数度叩く。それを何度か繰り返すうちに、雷韋からはむずがるような呻きが上がった。それは全く不服といった態だ。

「ほら、眠っていないで意識を戻してください」

 再び雷韋から不満げな呻きが上がるが、突然その呻きが裏返った。

 突然の声の変わりように、陸王も紫雲も「え?」と思う。

「ちょっと待て、紫雲」

 陸王はすぐに雷韋の口を無理矢理開けさせた。そうなって、やっと雷韋の意識は浮上したようだった。

あにひてなにして……」

 無理矢理喋ろうとする雷韋のえらを押さえ込んで、陸王は口を更に大きく開けさせる。

 陸王も紫雲も、雷韋の真っ赤に腫れ上がった喉の状態に驚きを隠せなかった。

「おい、ガキ。喉が痛むんじゃねぇか?」

 えらから手を離して、陸王が問う。

「ん~、痛いかな」

 言う雷韋の声は所々でひっくり返った。いつもの、声変わりしていない高い声ではない。その変化に自分でも気付き、雷韋は何度か咳払いをする。そうして「あー、あー」と声を出してみるが、いつもの声とは違っていた。掠れて、裏返るのだ。

「喉のほかに、どこか変化はあるか? 怠いだとか、何か」

 陸王が言うのを聞いて、雷韋は少し考え込む。その間に、紫雲は陸王に告げた。

「まだ熱は出ていないようです。身体は熱くなっていませんから」

 抱き起こしているため、紫雲には雷韋の体温の変化にすぐ気がつけたのだ。

「あー、あー。もしかして、俺、風邪引いた? 喉の奥って言うか、鼻の奥って言うか、痒いような痛いような感じ? 耳の奥まで痒い」

 掠れて裏返った声で言うと、陸王は前髪を掻き上げるようにして額に手を当てた。雷韋の言う症状が現れているという事は、喉から熱が出る風邪に冒されたと言う事だ。声が既に変声しているのだ。間違いない。

「なんだよ? なんなんだよ?」

 わけが分からぬと言う風に雷韋は言葉を口にした。

 それに応えたのは紫雲だった。

「雷韋君、残念ですが、君は風邪を引いたんです。これから熱も出てきます。大分、重い症状になると思われます」

「はぁ?」

 雷韋は呆気にとられ、それしか口に出来なかった。

「このくそ寒くなってきてる最中に、窓辺で寝るからだ、馬鹿ガキが!」

 陸王に勢いよく言われ、雷韋は更に唖然とした。

 驚きのあまり雷韋は陸王と紫雲を交互に見たが、彼等からもそれ以上の言葉はなかった。

「あ~、風邪ぇ、引いちゃったのかぁ、俺~」

 言いつつも、どんな態度を取っていいか分からず、雷韋はへらりと笑ってみせる。

 陸王はそんな雷韋に、これ以上何を言っていいか分からなかった。

 が、そこで紫雲が思い出したように言う。

「そう言えば、雷韋君は回復力が高いんでしたよね?」

 陸王に向けられた言葉だったが、陸王は何も言えずに自分の寝台に腰を下ろした。その時の表情は、俯きがちだったが、苦虫を噛み潰したようなものだった。

 それを見た雷韋は、紫雲に顔を向けて申し訳なさそうに言う。

「紫雲さ、俺は外傷には強いけど、病気とか薬とか酒とかにすっごく弱いんだ。鬼族ってそういうもんなんだって、魔術の師匠が言ってた。実際、俺がもっとガキだった頃、人間族と同じ分量の薬飲んで中毒になったことあるし。薬は人間族の半分程度でいいんだ。それが丁度いい感じ」

 声をひっくり返しながら、必死に紫雲に伝える。

「なら、横になって安静にしていなくては」

 紫雲は慌てて雷韋を寝台に横たわらせて、身体に毛布を掛けてやった。

「もう一枚くらい、毛布を掛けた方がいいですね」

 言って紫雲は、ほかの寝台に畳んで置いてある毛布を取ってきて雷韋に掛けてやる。それから紫雲は雷韋の寝台の前をうろうろして、

「まだ熱は出ていないので解熱剤は必要ありませんね。ですが、喉の腫れが酷い。宿の主人に消炎剤があるか聞いてきます。ないようであれば、薬草を探してきますので、陸王さん、雷韋君をよろしく頼みます」

 落ち着きなく言うだけ言って、紫雲は慌ただしくばたばたと部屋を出て行った。雷韋はそれを見送るでもなく見送って、ふと陸王に顔を向けた。

「風邪引いて、ごめん」

「全くだな」

 雷韋が弱々しく言うと、強い口調で陸王は返した。

「鎮魂の儀がお前のせいで滅茶苦茶になったな」

「悪かったよ、あんなところで寝ちゃってさ」

「馬鹿も天才も、風邪を引くときには誰彼構わず引く」

「だから、ごめんって。俺だって、引きたくて風邪引いたわけじゃないんだからさ」

 雷韋の言い募るのを渋い顔で陸王は聞き、そのあまりにも酷い状態の声に「もう喋るな」と話すことをやめさせた。

 雷韋はまだ何か言いたげに唸り声を上げていたが、陸王は釘を刺す。

「話せば話すほど喉に負担がかかる。これ以上酷い声になりたくなけりゃ、もう話すな。それに話していれば、体力を使う。今はまだ熱は出ていないが、これからは熱で苦しむことにもなるんだ。今すぐに寝ろと言いたいところだが、その前に何か食っておけ。少しでも体力をつけるためにな。何か食いたいものはあるか?」

 雷韋は目を閉じて、「ん~と」と唸りを上げた。それから目を開けて、

「腹は減ってる気がするけど、喉が痛いから固いものとかはあんまり食べたくないな」

ポリッジにするか?」

 陸王の提案を聞きながら、「ん~」と考え込んで決める。

「果物の方がいい」

「分かった。大人しく寝てろよ」

 そう言って、陸王は部屋を出て行った。

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