鎮魂の成功
部屋で一人になり、
だが今は一人だ。部屋の中はしんとしている。木造の建物から聞こえる植物の精霊の声が今は一番大きく聞こえた。植物の精霊達の声を聞きながら、意識を広げていくと、外で漂っていたり、流れていたりする精霊達の声もちらほらと聞こえてくる。耳を澄ませばその中に、大地の精霊の声もあった。
そこで、はっとする。大地の精霊の声は途切れがちだったが、流れが出来ているように感じられたのだ。
雷韋は勢いよく寝台から抜け出すと、窓を大きく開ける。その途端、鮮烈な空気に身を晒すことになったが、悪い気分ではなかった。秋の名残と冬の始まりの匂いが互いに相まって、新鮮で清々しい匂いが鼻をつく。それを肺いっぱいに吸い込みながら、雷韋は大地の精霊の声を拾おうとした。
流れている。
大地の精霊が正常に。
滞りはどこにもない。
雷韋は大地の精霊と意識を通わせてみた。流れが本当に正常かどうか、今一度確認する。すると、精霊達の意識の一端が雷韋の精神に触れてきた。そのまま意識を交感してみると、『我らの流れは決まった』と意識の端に引っかかる。
けれど、昨夜は確かに滞っていたのだ。それが何故、急に?
雷韋が不思議がっていると感じた精霊達は、こう返してきた。
『我らの混乱をそなたが引き受けてくれた』
『我らは本来の役割に戻ることにした』
混乱を引き受けたつもりはなかったが、それでも昨夜、意識を通い合わせていたことで精霊達にも変化があったのだ。『風邪』は精霊界で言うところの邪気だ。雷韋は混乱と言う名の邪気を精霊達から押しつけられたのだ。だから、風邪を引いた。そんな形になりはしたものの、これはこれで、『鎮魂』が成功したとも言えるだろう。
精霊達の理は人族には完全には理解し得ないが、兎に角よかったと思う。滞っていた流れが元に戻ったのなら、と。
これで
あとに残ったのは自分の風邪のことだけだった。どのくらいで回復するかはっきりとは分からないが、一度風邪を引けば完治するまでに結構な日数がかかる。これまでは、ずっとそうだった。だから今回も日がかかるだろうと思う。
自分本位で陸王達には申し訳ないと思うが。
大きく息をつき、窓を閉めたところで陸王が戻ってきた。
「何してやがる、ガキ」
片目を眇めて雷韋を睨む。
陸王が面白くない顔をする理由は分かりすぎるほど分かるが、雷韋はそれを無視してさっさとその場から離れて、寝台に潜ってから掠れる声で説明を始めた。
陸王は手に持っていた果物の砂糖漬けの瓶を雷韋の枕元に置いてから、雷韋の寝台に腰掛けると話を聞いた。
「つまり、お前が捌け口になったってわけか」
聞き終えると、一口でそうあっさり纏めてしまう。
あまりにも乱暴な纏め方だとは思うが、実質的にはその通りなのだから、敢えて否定はしなかった。
陸王もそれで納得したのか、雷韋が横になっている枕元に置いた瓶詰めを手に取る。
「そら、こいつなら食えるだろう」
言って、雷韋の目の前に翳してきた。
「少しでも食っておけ」
「ん」
起き上がりつつ答えて、瓶詰めを受け取る。瓶詰めに栓をしている大きめのコルクを引き抜くと、果物と蜂蜜の甘い匂いが鼻腔に広がった。
「鼻は馬鹿になってないみたいだ。いい匂いがする。蜂蜜入りかぁ~」
「だったら、食い物を食っても味気ない思いをすることはねぇな」
陸王の言葉にこくりと頷くと、雷韋は瓶詰めの中に指を突っ込んだ。中には柵切りになった果物が詰まっていた。その中から一つを摘まみ取ると、雷韋は口に運ぶ。
一口食べて、「林檎だ」と呟いた。声は掠れていて、よくよく聞かないと聞き取れなかったが。
雷韋は林檎をしゃくしゃくと食べてから、すぐに瓶に蓋をしてしまった。
それを見て、陸王は怪訝そうな顔をする。
「旨くなかったか?」
「いや、旨かったけど、あんま食べたくないかも」
溜息と共に言う雷韋を見て、陸王は眉根を寄せた。
「お前が食欲ないなんて言うとは、こりゃ重症だな」
真剣な顔で言う。いつもなら、二、三人前の食事を平気な顔で平らげてしまう大食家なのに、食欲がないなどと言うのに驚いたのだ。陸王は僅かに席を外しただけだったが、その短時間で雷韋の身体にまた変調が表れたのかも知れないと心配になる。
「熱も出てきたみたいだ。腕が痛い」
「腕が痛い? どういうこった」
「熱が出ると、肌が傷むんだ。ひりひりするって言うか、服が当たっても痛む。これって、熱が出たとき特有の症状なんだよ」
雷韋は痛む腕を庇うように毛布の中に潜り込むと、首元まで毛布を引っ張り上げた。
疲れたように溜息をついて目を瞑ると、すっと陸王の手が雷韋の額に当てられた。その感触に雷韋がじっとしていると、少しの間をおいてから陸王が呟く。
「確かに熱が出始めてるな」
雷韋は目を開けないまま、陸王に言った。
「風邪治るまでに、時間かかると思う。ごめんな」
言うと、陸王は小さく笑う息を吐いた。
「病気じゃしゃあねぇだろう。今はゆっくり眠れ。身体が眠りを欲しているはずだからな」
雷韋は「ん」と、鼻から抜けるような返事を返して眠りに就いた。
それから暫くして、紫雲が外から戻ってきた。片手には小さな籠を持っている。籠の中には乳鉢も見えた。戻ってくるまでに時間がかかったから、薬草を摘んで、乳鉢も借りて来たに違いない。籠の中に薬草が一緒に入っているのだろう。
陸王は、雷韋が目を醒ますことはないだろうと思いつつも、やや小声で雷韋の状態と精霊の状態を紫雲に説明して聞かせた。紫雲は話の間、相槌を打つだけで、ほぼ黙って聞いていた。
話を聞き終わると、「まんざら『鎮魂の儀』は無駄ではなかったんですね」と小さく苦笑していた。
結果としては、雷韋が精霊の混乱という名の邪気を一身に引き受けたことにより、風邪を引くという形でこの辺りの精霊は混乱を収めたのだ。ある意味、それは
紫雲も納得して、自分の寝台に腰を掛けると、借りてきた乳鉢で薬草を磨り潰し始めた。葉を磨り潰していると、次第に部屋中が独特な青臭さに包まれていく。陸王は途中から辟易した顔をしていたが、文句は言わなかった。その薬草が喉の炎症に効くというのだから、出る文句も出ない。
話によると、今の時期に葉を開かせる薬草らしい。教会では別の薬草を使うらしいが、寺院ではもっぱらこの薬草を使うとのことだった。しかも、こちらの薬草の方が薬効が高いというのだ。少量でも充分に効くらしい。
それを聞いて陸王は紫雲に、薬はほんの少しずつ使うように助言した。陸王が言うまでもなく、紫雲もそのつもりだった。雷韋から直接、人間族の半分程度で薬は効くと聞いていたからだ。
紫雲は薬を作る為に、蜂蜜と檸檬を使っていた。これらを入れることで飲みやすくなるとのことだったが、陸王は匂いからして激烈に不味いだろう事は予測をつけていた。それを飲まざるを得ない雷韋には同情しかない。まさに、良薬口に苦し、といったところか。
陸王は紫雲が薬を作っている間に、雷韋に気功法を使ってやった。
気功法は人体に流れる気を身体の隅々まで循環させて、回復力の底上げをするものだ。だがこれは、病にしか効かない。怪我にはほとんど効力がないのだ。怪我などを癒す魔術と、病を癒す術は全く系統も役割も違った。
陸王が雷韋の胸に掌を当てて気を巡らせていると、雷韋はうっすらと汗を掻き始めた。これは体温が上がったためだが、風邪で熱が上がったわけではない。飽くまでも、身体の回復を促すために体温が上がっただけだ。呼吸もさっきとは変わっている。苦しげな息遣いから、深く大きな息遣いに変化していた。
「少しは楽になったみたいですね」
紫雲が薬を作る手を止めぬまま、陸王に声を掛ける。
「まずはゆっくり眠らせてやることだからな」
「そうですね。病の回復には、質のいい睡眠が必要です。それに薬は当然飲むものとしても、免疫力の高まりも必要ですから」
気功法は病の回復だけに使われるものではない。そもそも、気功法は魔術ではなく体術だ。己の気を身体の中で練って、相手に波動として叩き付けることも出来る。その場合の効果は、相手の身体の自由を一時的に奪うというものだ。
紫雲は
だが今は、病を得ている雷韋がいる。普段は使わないが、今ここで使わなくてどうする。そんなところだ。
第一、雷韋は陸王にとっては対で、こんなところで死なれたら、陸王だってこの先長くは保たない。
魂の半身。人は誰も、対と呼ばれる半身がいなければ生きていけない。対とは絶対に必要な存在であり、誰にでも存在する。紫雲もまだ出会っていないが、ちゃんと対はいるのだ。一人、人が生まれれば、対も地上のどこかで生まれ落ちる。大概は同じ村や街で生まれ落ちるが、陸王達はそうではないようだ。ばらばらな場所で生まれて、育ちもばらばらだ。それでも陸王と雷韋は出会ったのだから、紫雲も出会えるはずだ。己の対に。
結局、雷韋は十日ほど寝込んだが、徐々に邪気は抜けていった。
最初の頃こそ扁桃腺炎で高い熱が続いたが、それも少しずつ落ち着いていき、五日も経つ頃には徐々に食欲も戻ってきた。食欲が戻るのと同時に、どんどん回復を果たしていったのだ。陸王の与える気功法と紫雲の薬、雷韋の食欲が少年から病魔を追い出した。
今朝は以前のように寝汚く眠る雷韋の頭を、陸王が引っ叩いて叩き起こしていた。
雷韋の病も癒えて、いよいよこの宿ともお別れの日なのだ。
身仕度をして食事を終えると、久々に外に出て雷韋は自然の変化に感動を覚えた。既に暦上では冬に入っていたが、朝早くの鮮烈な空気の冷たさと清々しさに、宿を出た途端から雷韋は大興奮だったのだ。太陽のぬくみに溶かされ切らない枯れ草の下の霜の上を、ざりざりと音を立てて走り回っている。
陸王はそんな雷韋に、早くもうんざりしていた。
「風邪っぴきのときは借りてきた猫以上に大人しかったのに、なんだあの暴れようは」
言いつつ、後頭部を掻いている。
その隣で紫雲が苦笑していた。
「あれこそ雷韋君、本来の姿じゃありませんか」
「そうか? もう少し大人しかった気がするんだがな」
「でも、よかったじゃありませんか」
「風邪が治ったことがか?」
「それだけじゃなく、雷韋君の願いどおりに大地の精霊もすぐに正しい流れを作ったことがですよ」
「厄介事を全部雷韋に
「案外、それも雷韋君の願いだったのかも知れませんよ。厄介事を引き受ける代わりに大地の精霊は流れを正しくして、漂っていた人々や獣の魂を光竜のもとまで送り届けること。雷韋君が一番に望んでいたのは精霊の流れでしたから。だから今がある。走り回っている雷韋君の姿は、『鎮魂の儀』の成功という事じゃないでしょうか」
陸王は後頭部の髪をぎゅっと掴み、
「阿呆らしい」
と吐き捨てた。
「人の魂がどうのというくらいなら、自分の魂を第一に考えろってんだ。あいつに死なれたら、俺が堪らん。俺とあいつは一蓮托生なんだ。どんなに嫌なことがあったとしても、切っても切れねぇんだからな」
「そのわりには今朝、雷韋君の頭を叩くとき、随分楽しそうでしたが?」
「当然だろう。ここ十日の恨みを叩き付けてやったんだからな」
言って、陸王は片笑んだ。
そんな陸王に、やれやれと、どこか楽しそうに呟いてみせる。
その頃にはもう、雷韋は随分遠くまで駆けて行ってしまっていた。あまりにも離れすぎて何を言っているのか聞こえにくいが、元気に二人に向かって両腕を振っている。
紫雲は陸王をちらと見遣って、
「あそこまで軽く走って行きますか?」
問うと、
「待たせときゃいい。馬鹿らしい」
悪態をついて、雷韋のすっかり血色がよくなった顔を、遠目から眩しそうに眺めた。
了
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