ひっそりとした会話
外から冷たい空気が流れ込んで頬を撫でていく感触、外の木立からカサカサとした涸れた葉擦れの音がしていたこと。窓を開け放していなければ、両方共に気付かなかっただろう。
意識が浮上するたびに思ったのは、馬鹿ガキ、その言葉だけだった。そうして何度も何度も意識が浮上しては沈むことを繰り返していたが、ある瞬間、意識が一気に現実へと引っ張られた。
大きな物音がしたのだ。
陸王は跳ね起き、音のした方を見遣った。
「いてて……」
小さく呻き声が上がる。
陸王は慌てて窓辺へ近寄った。
椅子から雷韋が落ちていたからだ。ランプは足下に置いてあったが、倒れていないのが不幸中の幸いだった。
「何やってる、馬鹿が」
陸王は雷韋を助け起こしながら悪態をついた。
「雷韋君、大丈夫ですか? どうしたんです」
陸王には悪態をつかれ、紫雲には心配をかけて、雷韋は床にぶつけたのだろう頭を
「起こしちまったな、二人とも。ごめん」
「んなこたどうだっていい。何をしていたんだ」
雷韋は困ったように笑んで、仕方なしに口を開いた。
「精霊と話してるうちに寝てたみたいだ。んで、椅子から転げ落ちちゃった」
「この馬鹿が」
悪態をつくついでに頭を引っ叩いてやりたかったが、床に頭をぶつけている事実があるため、叩くのはやめておいた。その代わり、大きな溜息をつく。
「頭を打ったんだな。大丈夫なのか?」
陸王が聞くと、雷韋はこくりと頷いた。
「頭打ったけどさ、別に死ぬような怪我したわけじゃないよ。こぶが出来そうだけど」
「では、頭を冷やした方がいいですね」
様子を窺っていた紫雲がすぐに荷物袋の中から手拭いを引っ張り出して、それを水差しの水で濡らして持ってきてくれた。
「手を
こぶが出来るような怪我はしているため、雷韋は打った部分を手で押さえていた。それを紫雲が引き剥がし、濡れた手拭いを当ててやる。
「あんがと、紫雲」
「いいですから、頭を冷やしてください。大事にならなければいいんですが」
「こぶがおっきくなるようだったら、
そういう雷韋に、紫雲はどこか困ったように吐息を吐き出した。
陸王は二人の遣り取りを聞きつつ、雷韋の身体に毛布を巻き付けている。
「雷韋、身体がかなり冷えてるが、大丈夫か」
雷韋は気の抜けるような笑いを零して、
「正直、すっげぇ寒い」
言ってから、陸王の巻き付けてくれた毛布を更にきつく身体に巻き付ける。
「窓なんか開けて寝てやがるからだ、このバカザル」
「へへ……。それよりもほんと寒い。まだまだ眠いし、俺も寝る」
ランプを手に取って、雷韋が立ち上がるのと同時に陸王と紫雲も立ち上がった。
雷韋がランプを卓の上に置くのを見てから、陸王は窓を閉める。それまでは外の冷たい空気が入り放題だったせいで、部屋の中そのものも随分と冷えていた。
「全く。馬鹿は風邪引かねぇとは言うが、お前の馬鹿は折り紙付きだからな。目が醒めたら熱が出てました、なんて事にならんようにしろ」
「
ぶるっと身を震わせて、唯一毛布のない寝台の上に乗り上げる。靴も寝台の中で脱ぎ捨てて、足でぽいっと寝台から蹴り出した。
その直後、雷韋の胸元から僅かに炎が立った。火影を召喚したのだろう。本来火影は、火の精霊が凝った武器だ。これまで武器として使う意外に、焚き火の代わりに炎を纏わせたりもした。精霊達は燃えること自体は嫌がらない。雷韋が言うには、燃えることは好きだと言う事だ。燃え盛る炎が本来の姿だからだろう。だが、暖房代わりになどされるのは酷く気分を害すらしい。雷韋を主人と選んだ火の精霊達にはこの少年の命令は絶対だが、それでも暖房などに利用されることは嫌らしく、勝手に消えてしまうこともあるということだった。
雷韋は火影を暖房代わりに使うために火影を召喚したが、どれくらいの間、辛抱してくれるか分からない。
胸元にぎゅっと火影を抱き込む雷韋に、紫雲が近づいていく。
「雷韋君、結った髪を
「あ~、うん。……解いて」
寝台の上で丸まったまま、雷韋はそれ以上動こうともせずに、紫雲を使うことに決めたようだった。
「全くもう」
呆れた溜息をついて文句らしきことを口にするが、実際の所、紫雲は雷韋の髪を解くことまで計算に入れて近づいたようだ。事実、雷韋の髪の結い紐を解く手つきは優しかった。それどころか結い紐を解いてから、手櫛で
それを見届けてから、陸王はランプの灯りを消す言葉をかけた。
雷韋は当然そのまま、うん、と答え、紫雲は自分の寝台に戻っていった。
陸王も灯りを消すと、自分の寝台に潜り込む。
月の光にまだ目が慣れぬほどの短さの中で、陸王は再び眠りの淵に飛び込もうした。辛うじて意識のある中で、陸王は自分の呼吸が徐々に深くなっていくのを感じていた。あと一呼吸すれば闇に堕ちると思った瞬間、雷韋の側から身動きする気配を感じて薄く目を開ける。紫雲は既に眠ったのか、それとも起きているのかどうかは分からない。
だから陸王は、小さな声で雷韋に呼びかける。
「どうした。寒いか」
「それもあるけど、それは火影抱いてるから大丈夫。たださ、精霊の言葉が忘れらんなくて」
「何を話していた」
呟く声で問い返す。
「眠いって言ってた」
「何が」
「大地の精霊が。植物の精霊は春のことを気にかけてた。散った種から、新しい芽が出るかどうかってさ」
「へぇ」
さほど興味もないように返事をする。
「でさ」
陸王の平坦な返事を気にすることもなく、雷韋は続けた。
「これから寒くなって、土の上には雪が降って積もるだろ? それまでに眠りたいって言ってたんだ。地面も氷の精霊の力で凍るからって。でも、全部の大地の精霊が眠るわけじゃない。雪の下で常に地上を見張るのもいるんだってさ。そりゃそうだよな。大地の精霊は世界なんだから。
「一つ利口になってよかっただろうが」
「うん。でも俺、精霊達が話し合ってるのを聞いてるうちに、段々眠くなってきちゃってさ」
「退屈だったのか」
「いや、寝る、寝ないって騒いでるの聞いてたら、俺の方が眠くなってきたんだ。眠るって言ってる精霊に感化されたんだろうな。んで、気が付いたら椅子から転げ落ちてた」
最後には小さく自嘲するような笑う声がした。自分でも間抜けなことだと思ったのだろう。
陸王はそれについては特に何も返さなかった。どうしてか、弄る気にもならなかったのだ。だからだろうか、雷韋は続ける。
「精霊の話聞いてる間、冷たい風が吹いてただろ? 俺、ほんのちょっとだけその中に冬の匂いを嗅いだ。どこかで霜柱でも立ってたのかな? あれは確かに冬の匂いで、氷の精霊が連れてくる匂いだった。もしかしたら、もうどこかで雪が降ってるのかも知んない」
「今時期だと、山には雪が降っててもおかしかないからな」
雷韋は陸王の言葉に、はっとしたように顔を上げた。月の明かりしかない闇溜まりの中から、陸王の姿を目にしていた。
「そっかぁ。そうだよなぁ。山だともう雪が降っててもおかしくないんだ。だから冬の匂いがしたのか」
そこで雷韋は急に、くすくすと笑い始めた。
「どうした、急に笑い始めて。寝るつもりはねぇのか?」
言うと、雷韋が首を振る気配が伝わってきた。
「四季ってちゃんと匂いがあったなって思ったら、なんだか面白くなって」
「んなもん、気にした事ぁねぇな」
少しも興味がないという風に返すが、雷韋はそうではなかった。
「そっかぁ? 俺が嗅いだことのある匂い。春はさ、少しずつあったかくなる陽だまりの匂い。アイオイの花の匂いもあるけどさ。夏は熱された緑の匂い。秋は少しひんやりした透明な匂い。冬は冷たくて、すーっとする匂い。そういう匂いって嗅いだことないか?」
「気にしてねぇから分からんな。それより寝なくていいのか? 眠かったんだろうが」
「そうだけど、声かけてきたのはあんたの方からだぜ」
闇溜まりの中で陸王は渋面を作って返す。
「寒くて眠れんのかと思っただけだ」
「寒かったけど、もう火影で大分暖まったから、あとは眠いだけ」
「なら寝ろ」
面倒臭げに返すも、雷韋はまだ声をかけてきた。
「なぁ」
「煩ぇ」
「明日さ、外の匂い嗅いでみてくれよ。秋の終わりの匂いと冬の始まりの匂いがするから」
「寝ろ」
そこまで言うと、雷韋の方から枕に頭を沈める気配がした。ようやく寝る気になったらしい。そのことに半ばほっとし、雷韋から解放された心地にもなった。
あとは自分も眠るだけだ。
陸王が静かに大きな息をつくと、早速雷韋からは寝入った呼吸が聞こえてきた。相変わらず、寝付きだけはいいようだ。どうせなら、朝の寝覚めもよくなると喜ばしいのだが。そこはそう上手くは行かないだろう。陸王が傍にいるときの雷韋の寝汚さは折り紙付きだ。頭を引っ叩く程度はしないと、なかなか素直に起きてくれない。
陸王はふと、頭を引っ叩くという行為から思い出すことがあった。
雷韋が頭をぶつけて、濡らした手拭いで冷やしていたことを思い出したのだ。
そっと起き上がって、雷韋の様子を見る。月明かりのお陰でなんとなく輪郭は確認出来たが、雷韋がまだ頭を冷やしているかどうかは分からなかった。
陸王は寝台を抜けて、雷韋のぶつけた側の頭に手を当てた。濡れた手拭いが押し当ててあるが、既に温い温度になっている。そのまま頭を触ってみると、少し出っ張りが出来ていた。
こぶだ。
雷韋はすっかり眠りに就いてしまっているらしく、こぶを触っても呻き一つ漏らさなかった。
雷韋は種族的に怪我の治りが非常に早い。触ってみた感触では、明日の朝にはこぶはなくなっているだろうと思えた。
温くなった手拭いをこのままにしておいていいかどうか考えたが、冷やす役割をとうの昔に終えているなら、あとは枕を濡らしてしまうだけだ。だから手拭いは、頭の下から引き抜いておく。
そこまでして、やっと陸王も本気で眠ろうかと思えた。さっき雷韋に声をかけなければ既に眠っていたところだろうが、寒いと言って毛布にくるまった雷韋のことが気にはなっていたのだ。馬鹿だろうが天才だろうが、風邪を引くときには誰彼構わず引くのだから。特にあんな寒い窓辺で眠ってしまったのなら尚のこと、風邪を引きやすくなるだろう。雷韋の毛布の下に埋まっている肩と首筋を触ってみたが、今はもう暖かかった。椅子から転げ落ちたときには冷たかったが、今はもう違う。おそらく抱いていると思われる火影のお陰で、身体が充分に温まったのだ。
ほっとして、陸王は自分の寝台に戻った。今度こそ、本当に眠るつもりだった。雷韋の寝返りの気配で、意識は何度も浮上するだろうが。しかしそれは村の宿に入ったときから覚悟していたことだから、今更だった。
陸王も、雷韋に倣うように毛布に埋まって眠りに就いた。
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