3. -オン・ザ・ボディ 5

 5

 窓の外はこの時期らしく、小雨が振り始めていた。

 正吾は丸めた座布団を、自分の背と柱の間に挟んで寝転び、スマホを弄っていた。

 今日も塾をサボったおかげで、濡れずに放課後をだらだらと過ごすことができている。正吾は元から自分の事を勤勉だとは思っていなかったが、首切り魔の存在はますます自堕落に過ごすためのいい言い訳になっていた。

 二日も連続で塾に顔を出さなかった事を健斗や小春はどう思っているのだろう?それから愛空とは、来週塾でと言って別れたきりで、自分の方からその言葉を違えるような真似をしてしまった。もしめあが正吾の直観に反して塾に行っていたらと考えると、軽い罪悪感が胸を刺した。

 誰かに連絡くらいは入れようかとも考えたが、自分の性格上、そんなことをしたら気持ちが揺らぐのは目に見えていた。周りに流されやすい自覚はある。

 とにかく何か事態に変化の兆しが現れるまでは、おとなしく過ごすのが一番で、自分の行動を振り返り、先手を打ってコントロールしようと努めていた。

 退屈さに気を紛らわせようと、ブラウザに表示していた”ろくろ首”の記事も読み終わってしまい、正吾はスマホをスリープさせ、窓の外の紗のような雨を眺めた。

 ”ろくろ首”については、正吾もどういうキャラクターかは知っていた。大抵は女性の姿をしている妖怪で、夜などに首が伸びる化け物だ。

 わざわざ調べたのは、翡典が言っていた飛頭蛮の登場する小説が気になり探したところ、そのタイトルが”ろくろ首”であったからだった。

 正吾はうろ覚えの記憶を頼りに、”飛頭蛮 小説”のキーワードでまずネット検索をかけた。それらしいものは検索結果には見つからなかった。翡典はその小説の作者名も言っていた気がしたが、なぜか外国人らしき名と、夏目漱石が一緒に口にされた事しか思い出せなかった。

 仕方なく、Wikipedeliaの飛頭蛮のページを開き、そこでろくろ首に行きついた。

 飛頭蛮という妖怪はどうも中華、ジャワ、ベトナム辺りの伝承で、日本のろくろ首もその近縁のようなものらしい。

 正吾も知っていた、いわゆるろくろ首は、ろくろ首のパターンのひとつで、”抜け首”と呼ばれる、首が伸びずに外れ、空を飛び回るタイプがあり、そちらの方がむしろろくろ首というキャラクターの原型という事だった。

 確かにそれなら、首が外れ空を飛び回る飛頭蛮とほぼ変わらないと言える。

 Wikiの記載から、その首が外れ空を飛ぶろくろ首を書いたという小説を見つけ、今度は”ろくろ首 小泉八雲”で検索をかけた。小泉八雲という作者の名には薄っすらと聞き覚えがあり、それが翡典の言っていた小説に間違いなさそうだった。

 古い小説のようで、検索結果の上位に全文掲載が見つかった。

 ”五百年ほど前に、九州菊池の侍臣に磯貝平太左衞門武連と云う人がいた。この人は代々武勇にすぐれた祖先からの遺伝で、……”

 内容は、この武連という人物を主人公にした短い話で、主人を失った武連が僧になり、名を回龍と改め、全国を仏の教えを流布しに行脚する中で、飛頭蛮、首が外れて空を飛ぶろくろ首たちに襲われ、それを撃退し、その後の顛末、といったもので、10分も掛からずに読み終わっていた。

 そこに登場したろくろ首は、日本の妖怪というよりは、西洋のモンスターに近いイメージだった。化けて出るといった類ではなく、物理的で確固とした身体を持って描かれている。

 よく話し、よく企み、虫を食べ、人も喰らう。そして死に、死体を残す。

 人の姿をして、人とは違う能力を持った生き物。

 虫を食べるかは置いておけば、小説の中のろくろ首たちの生き残りが、そのまま翡典たちの先祖だと言われてもおかしくないような描写だった。

 むしろろくろ首より、主人公の武連こと回龍の方がどこか化け物じみている。

 回龍は、空を飛ぶ生首たちに囲まれても動じず、引き抜いた若木でこれを打ち据えて撃退し、その内のリーダー格で、最後まで袖に喰らいついてきた者を殴りつけ、殺している。

 その後回龍は、死んでも離れないその生首を袖にぶらさげ、みやげができたと大声で笑い、山を降りて往来を堂々と闊歩しだした。これが騒動になり、人殺しと間違われた回龍は裁判にかけられるが、これにも動じず堂々としている。

 回龍は元々、特別武功を上げた武人らしいが、武人だからという訳でも無く、回龍自身がかなり特異な人物なのだろう。

 物語も、タイトルのろくろ首ではなく、この回龍という僧の特異な人物像の方に主眼が置かれていた。

 飛頭蛮についての情報をかすかにだが期待して読んだ正吾には、これは期待外れだった。

 多少の暇つぶしにはなったが、何の収穫もない。

 少し強くなりはじめた雨に、正吾は腰を上げ、窓を閉めようとした。

 大きな羽音がして、突然窓の外に影が現れる。驚いて窓から飛び退き、尻もちをついていた。

 「ああ、すまない……。驚かせるつもりはなかったんだ」

 雨に濡れた翡典が窓枠に降り立つと、その姿はまるで曝し首のようだった。


 「……聞いたよ。翠天とやりあったんだってね」

 「いや……、すみません」

 脱衣所から取ってきたタオルで、正吾は翡典の髪や顔を恐る恐る拭いた。翡典はそのままタオルに包まり、正吾がさっきまで背に当てていた座布団の上に乗っかっている。

 「正吾くんが謝るようなことじゃないと思うよ。……翠天は、……何と言うか、不器用?うーん、育ちが特殊なせいか、人と関わるのが苦手でね」翡典は正吾の鼻に気づいたようだった。「……もしかして、それ、翠天かい?」

 「あー……、目立ちますか?」自分の鼻の形に自信があった訳でもないので構わなかったが、家に帰ってから確認すると、翠天に殴られた鼻は、赤く腫れ、少し形が歪んでいた。触れてみると、まだずきずきとした痛みが走る。

 「本当に申し訳ない……」と、翡典は気に病んだ顔をして、下げられもしない頭をまた下げようとした。

 それはかなり奇怪な光景だったが、翡典の人柄のせいか、不気味さが滑稽さと危うく同居し、半減してしまっている。正吾にはこのギャップこそが厄介に思えた。

 「あの、……違うんです。俺が、翠天を煽るような事を言ったんで、自業自得なんです、これ」

 「病院には……?」

 「保健室で消毒はしてもらいました。保険の先生は何とも言ってなかったし、問題ないと思います」

 「すまない。……僕の体がこうじゃなければ、今すぐ診てやれるんだが」

 一瞬、どういう意味かわからなかったが、翡典が医者の卵だったという話を思い出し、納得した。翡典にも体があり、翠天と同じように普通の人として生活していたのだと想像するのは、現在の姿のインパクトが強すぎて難しかった。

 「どうってことないです。死にはしないですし」手を振って返す。首切り魔に殺されそうになった事を考えれば本当にどうということもなかった。首切り魔は加減も容赦もしてくれないだろう。鼻を殴られる程度じゃ済まない。翡典や翠天からすれば、正吾が外に出て、首切り魔をおびき寄せた方が都合がいいのだろうが、もう一度、出くわしたなら、無事でいられる自信はなかった。「……ああ、そういえば」

 「なんだい?」翡典があごや翼を使って器用に顔の角度を変え、近くで胡坐をかいていた正吾を見上げた。

 「俺が後をつけたのを翠天が知ってた事があったんですが、あれってもしかして翡典さんですか?」正吾が囮になるのなら、翡典や翠天がどこかで見張っているのだろうかと考えて思いついた事だった。

 「あー、あの時は、そろそろ翠天が戻ってくると思って少し外に出ていてね。それできみを見つけたんだ。前の晩にきみの事は聞いていたからすぐに誰だかピンときたよ。色々と用心しなくちゃいけないと思ったね」

 「すみません……」

 「いや、いいんだ。事情はわかってる。僕だって正吾くんの立場なら、翠天を怪しいと思うよ。それに実際、翠天には秘密があった」それから、翡典がふふと笑みを零した。「なんだかさっきからお互いに謝っている気がするなぁ」

 「そうですね……」正吾も苦笑いを返した。翠天との事は自分と翠天だけで完結していて、翠天の言動の責任を、翡典にどうこう言われるのはあまりいい気持ちがしなかったため、少し話の風向きが変わりそうで正吾は正直ほっとした。「じゃあ、俺が襲われた晩は?」

 「うん、実を言うと最初から空で見てたんだ。翠天ときみが河原でしていた話も聞かせてもらってたよ。流石にビルの中での会話までは聞けなかったけど、後から翠天に教えてもらった」翡典が少し気まずそうに微笑む。「二人が別れてからは、きみがどうするのか気になってね。悪いとは思ったけど、その後もつけさせてもらった。……この身体じゃできることも少ないから、退屈しててね」渋面をつくり、左右に目配せするようにして、翼を動かしてみせる。「そのおかげと言ったら、少し恩着せがましいかもしれないけど、きみを助けることができた。それで水に流してくれたらと思う」

 「いえ、いいんです。はい、……文句なんて言えませんよ」そう言いながらも、めあと一緒にいるところを見られていたと思うと、正吾は少し後ろめたく感じた。

 「そう言ってくれると助かるよ」

 一度翼を動かしてから座りが悪くなったのか、翡典がもぞもぞと座布団の上で動く。

 「あの……、手伝いましょうか?」

 「いやいや、それには及ばない。僕も体を無くしてから随分経つからね」そう言って、翼で頭を支えながら、首を動かした。そういう仕草を見ると、確かに翡典が生きて存在しているのだと生々しく思えた。「最初は飛ぶのも苦労したよ。僕らは頭だけなら飛べはするけど、日常的に飛んだりする訳じゃない。他人に見られたら最もまずい姿だからね。あんまり慣れてないから、よちよち空を飛んだ。そんな事できるなんて忘れて生きてたよ。たまに思い出す程度でさ。体を失って初めて、……って訳でもないから、改めてかな?自分が普通じゃないって思い知ったね」ごそごそとする内に翡典が被っていたタオルが枕のようになり、翡典はそれを支えにして、頭だけで寝ているような形になった。首が少し座布団からはみ出し、赤い粘膜の張った断面が正吾の目に映る。「……よし、落ち着いた。悪いね。少し行儀が悪く見えるかもしれない」

 「いや、それは構わないですけど……、あの、そんなに飛び回ったりしてて大丈夫なんですか?」

 「え?……ああ、大変そうに思えるだろうけど、案外そうでもないんだよ。やっぱり最初から飛べるようにできててね、骨やなんかが普通の人とは違って軽かったりする。試しに持ってみるかい?」翡典が気さくに微笑みかける。

 「い、いえ、……遠慮させてもらいます」

 「そうかい?滅多にない機会なのに」

 生きている生首を抱えるなんて、一度でも十分に思えた。顔が引き攣っている気がして、正吾はさりげなく口元を手で覆った。距離を取って見る分には慣れてきていたが、直接触れるとなるとまだ恐怖心や嫌悪感が残っている。

 正吾が自分の態度に罪悪感を感じていると、翡典が失笑した。「ごめんごめん、困らせてしまったね。冗談、というつもりはないけど、少し意地悪を言ったよ。翠天に僕の事で何か言われたんだね?」

 遠まわしに聞いたつもりだったが、見透かされていたようだった。「えっと……、はい」正吾は気づくとまた痛む鼻を掻いていた。「心配してました……、翠天は」心配というより、もはや絶望に近いかもしれない。

 「翠天は何て?」

 聞かれて、正吾は口を閉ざした。翠天が吐露した不安をそのまま翡典に伝えるのは裏切りのように感じたし、翡典の生命がいつまでもつのか聞くのもデリカシーに欠けるようで躊躇われた。そして何より、人の死を話題にすることに正吾自身、怖気づいていた。

 ふぅと溜息のように翡典が鼻息を漏らした。「翠天は僕が今にも死んでしまうと思っている」

 それにも正吾は何も答えなかった。目を逸らさずにいるのがやっとだった。

 「正しいよ。実際、僕はこのままだと近い内に死ぬことになるだろうね。二三日、という事はないだろうけど、もう一月ももたないはずだ。正直、今生きてるのが不思議なくらいだから。僕みたいに頭だけで長期間いた事例って最近では無くって、正確なところはちょっとわからないんだけど、昔、飛頭内での刑罰に頭だけで生かされるって刑があって、そういう記録では長くもっても三月って話だったんだ。ほとんど死罪みたいな扱いだから、これはひどい環境での話で、諸々考えると僕の場合はもって半年かなって思ってた。一年というのは、かなりもったほうだと思う。翠天が色々と助けてくれたからだろうね」翡典は笑いながら話を続けた。「元々、飛頭の頭は緊急脱出装置みたいなものなんだよ。ジオングヘッドみたいな。一時的に生命を維持するための最低限の物しか備わってない。……あれ?もしかしてジオングって通じない?ガンダムのロボットなんだけど……」

 何の話が始まったのかわからず、正吾は困惑して首を傾げていた。

 「いや、これがおもしろいんだよ。ガンダムの最後の闘いでさ、頭だけになったジオングと、逆に頭を失ったガンダムが撃ち合いをするんだ。まさにロボットって感じだよね。ラストシューティングって呼ばれて、ファンの間では名シーンとして語られてて……。……あー、ごめんごめん、違う。そんな話じゃなかったね」いつかの翠天のように翡典の話を止めた方がいいのか、正吾は少し口を開きかけていたところだった。どうしてこんな話になったんだ?と翡典は自問して、「ああ、そうだ。ジオングヘッドだ」と、話が元に戻った。「うん、つまりさ、僕たちは頭部だけでも生きられるけど、それは一時的なものでしかないって言いたかったんだ。僕らには頭から首にかけて普通の人には存在しない器官がいくつかある。それは首から下の肉体と切り離されると生命を維持するために動きだすが、あくまで各種臓器の予備であって、持続的な器官じゃない。長いこと首だけでいれば、過労で徐々に壊れていく。これは最初からわかっていた事で、先が無いのは覚悟の上で僕は家族の元を去ったんだよ。……だから、僕がどうなっても正吾くんが気に病む必要はないからね」最後は穏やかに言い含めるようだった。

 それではまるで……、「あの……」躊躇いながらも口が動いていた。「もしかして、翡典さんは……」そこから先がすぐには続かず、正吾は誤魔化すように話を迂回させた。「首無し死体、見つけましょう。俺も協力します」これでは翠天を非難できなかったが、翡典に対してはこれが本心だった。

 「正吾くん、聞いてくれ」翡典の顔から先ほどまでの冗談交じりの柔和さは消えていた。「僕は死ぬ」

 「……どうして」

 「天命だ。あの事故で受けた肉体の損傷なら、本来、僕は死んでいたはずだ。だけど、僕は後悔していない。道に飛び出した彼女を見て、僕の体は咄嗟に動いていたんだ。僕はそれで満足なんだ」

 正吾は首を横に振っていた。「わかりません……」

 「……僕たちは、頭さえ無事なら、いくらでも生きられる。他者を犠牲にし続ければ。……6人だ」そう言って、反応を伺うように翡典が少し黙った。「僕がこの歳になるまでに犠牲にしてきた数だ。死体は成長しない。僕たちは成長する間、年齢に合わせて肉体を取り換え続ける。病気や事故で亡くなった訳ではない健康な体を、一族が用意してくれる」翡典の視線が正吾の瞳と合わなくなり、首から下へと降った。「君が羨ましい。……僕は医者になる気だった。家族に言われなくても、そうしていた。けど、何人助けたら帳尻が合うと思う?……僕にはわからない」

 正吾は雨の音にじっと耳を澄ませていた。雨雲が消え去るのを待つように、何も答えられない自分が卑怯に思えた。

 やはり生首は微笑んで言った。「ちょっと今のはらしくなかった……。悪いけど、聞かなかった事にしてくれるかい?」

 しかし、それで雨が止んだとは正吾には思えなかった。

 「……翠天は、首無し死体を見つける気でいますよ」

 「翠天を連れてきたのは、失敗だったと思ってる……。体を失ったばかりで、僕も弱気になっていた。あの子の迷いにつけこんで甘えてしまった」

 「それじゃ、翠天は納得しないです。俺は二人の事情をまだちゃんとわかっていないかもしれないけど、それはわかります」

 「首切り魔の事件に、……文字通り首を突っ込んだのは、それで少しは翠天の気晴らしになるだろうと思ったからだった。僕もその手の話は、フィクションであれば好きだったからね。……けれど、彼女があんなに本気になるなんて、想定していなかった」

 「……でも、実際、俺たちは犯人を見てます。本気になる価値はあったんじゃないですか?」

 「そうだね……」翡典がまた笑みを見せるが、今度は少し寂しげだった。正吾も自分が擦れ違いになったことはわかっていた。「……正吾くん、それじゃあ少し事件の話をしようか」

 「え?」

 気づくと、翡典の寂しげな様子はまるで見間違えだったかのように消え去っていた。

 「確かに僕たちは犯人を見た。もしかしたら、僕たちでも犯人を止められるのかもしれない」


 いつだったかコンビニで買ったパックのジュースにつけられていたストローをようやくキッチンから見つけ出すと、正吾は迷った末に翡典にグラスから水道水を飲ませた。正吾も父も来客など想像もしない生活を送ってきたし、冷蔵庫はいつも空に近かった。

 しかし、当の翡典は「……君まで翠天みたいに過保護にならないでくれ」と、頓着しないどころか煙たがる始末だった。

 「いや、……あの、ここで翡典さんに何かあったら、俺、翠天に殺されるんじゃないですか……?」

 「まさか……」と、翡典は笑うが、昼の学校での様子を考えると、正吾には半分も冗談になっている気はしなかった。「それでね、正吾くん、」嬉々として翡典が話を続ける。事件の話を始めてから、ずっとこの調子で翡典は止まらず、さっきまで死ぬの、天命だのと言っていたとはとても思えなかった。逆に突然、電源が落ちるのではないかと正吾ははらはらとしながらお喋り生首を眺めていた。「なぜ首切り魔は、こんなに犯行を続けるんだと思う?まるで終わりが無いみたいだ」

 問いかけられたので、正吾も頭の中で翡典の話を整理した。

 最初の二つの事件では、遺体は刃物によって激しく傷つけられた状態で見つかっており、首は死後切り取られ、持ち去られていた。この二件の被害者は男性で、三件目で絞殺による女性の遺体が見つかっている。前の二件とは殺害方法も違ったが、同じく首を切り取られ、頭部を持ち去られている。四件目に発見されたのも男性で、殺害方法は頚部、首の切断。この被害者から、首の切断がそのまま殺害方法になっていく。

 事件が連続殺人として大きく報道されはじめたのもこの事件の前後からだった。それまでも、頭部が持ち去られていたという類似から、これらの事件に関連があるのではないかと疑われていたが、四件目で警察からの公式発表があり、マスコミも遠慮が無くなった形だ。正吾が事件の事を耳にしたのもこの頃だっただろう。

 その後も事件は続いていき、事件現場を儀代市に集束しつつ現在に至っている。

 「ほとんどネットの情報頼りだけど、まず被害者たちに関係性は無さそうだった。共通の特徴もこれと言って見つかっていない。被害者たちの犯罪歴やら国籍やら、色々とある事無い事並べ立てて共通点を見つけ出そうとしている人たちも多いみたいだけど、ざっと目を通した感じではどれも好きな星座を描いてるだけだった。今のところ、ニュースで報道されている通り、無差別殺人である可能性は高いと思う。但し、完全に無差別と言うには少し違和感がある」

 「……どういう事です?」

 「うん。無差別と言っても、本当に誰でもいいのなら殺しやすい相手を狙う方が理に適っていると思うんだ。例えば、女性、子供。それから高齢者。この内、女性は被害に合っているけど数で言えば男性の被害者の方がかなり多い。年齢は20代30代が中心で、10代以下や、逆に60代以上は被害に合っていない」

 「えっと……、首切り魔にも何か一応の基準があって、あくまでその範囲内で無差別に殺人を行ってる、って事ですか?」

 翡典がカクンと頭ごと首を曲げ、肯定の仕草をする。「まぁ、そうだね。確証は無いけど、そう思える位の偏りは感じるね」

 「……単にその条件に合った人たちが夜間人気の無い場所に多いって事なんじゃないですか?」

 翡典が肩を竦めるように翼を動かし「もちろん、その可能性もある。僕の考えすぎかもしれない」と微笑んだ。「それから、今わかってるのは、犯人が複数犯って事だね。事件が短期間で続いている事から報道でも可能性は度々指摘されてきたけど、警察からの公式発表には含まれていなかった。その点は、例え一時的にでも犯人に協力する人物がいることを僕たちは確認している」

 「そうですね」

 「実行犯はやはり、正吾くんが首切りの現場で目撃したレインコートの人物の方だろう。犯行が常に手慣れていっている事から、実行犯は恐らくレインコートのこの一人。サングラスにマスクをした人物の方は実行に関しては協力者と見ていいと思う」

 正吾の直感的にも、その説明に特に違和感は無かった。バイアスがかかっている事は承知の上だったが、この二人の人物に襲われた夜、より強い意思を感じたのはやはりレインコートの方だった。サングラスの方は……。

 「正吾くん……?どうかしたかい?」

 「……いえ、あの、……翡典さんがぶつかった時、サングラスが外れましたよね?翡典さんは……」恐らくあれは体格から言っても男だっただろう。「あの男の顔を見ましたか……?」

 「いや、……あの時は必死だったし、暗かったからなぁ。それにマスクもあったから、ほとんど見てないね。今思えば、惜しい事をしたかもしれない。まぁ、顔が分かったところで、そう簡単に見つけられる訳でもないと思うけど……」

 「……そうですね」正吾もその男の瞳を見たのは一瞬でしかなかった。また昼間の想像、妄想が頭をもたげる。

 「何か気になる事があるのかい……?」気づくとじっと見上げる生首の瞳がそこにはあった。

 「いえ、その……」これは普通の事ではない。空を飛ぶ生首と殺人事件について語らうなんて。「やっぱり、どうしてこんなに首切りを続けるのか、理解できないですね」思わず視線を逸らしている。

 「うん……」そう言って黙り込んだ翡典に視線を戻すと、今度は翡典が考え込むように睫毛を伏せていた。「さっき話したように、被害者に特徴的な共通点は無いし、繋がりも無い。通り魔的で、怨恨や営利目的の事件である可能性も低い。犯行は首を切り落とす点以外は淡泊で、殺人自体を楽しんでいる様子も無い。未だに捕まっていない慎重さと、狭い範囲で犯行を続ける無神経さ。もしかしたら、首切り魔は何か異常な妄想に憑りつかれていて、その妄想のせいで仕方なく犯行を続けているだけなのかもしれない」それは今思いついたというよりは、ずっと温めていた考えのように聞こえた。

 「妄想って例えば?」

 「正直、想像もできないけど、頭か首切りに関係がある事だろうね。最初の三件は妄想の不安からくる発作的な犯行。その後、何か神秘的な使命感を持つようになったのかも」まるで妄想の産物そのもののような翡典が言う。

 「……ありそうには思えますが、共犯者の存在とは矛盾しませんか?妄想を共有するのは難しいと思います」

 「確かに共有するのは難しいと思う。でも、国家や宗教だって共有された妄想だよ。無い訳じゃない。それに、妄想を共有していなくても、共犯関係を持つことはあり得る。共犯者は弱味を握られていて首切り魔に対して従属的な関係にあるのかもしれないし、騙されて利用されているのかもしれない」

 「うーん……」わからないでもないが、実感としては想像しがたい。「人殺しの手伝いまでする関係ですか……?」

 「共犯者がいた殺人事件なんて山ほどあるよ。シリアルキラー、連続殺人鬼の場合でも、最近だとジェイムズ・クロズビーには何人か共犯者がいた。どんな事情があるのかはわからないけど、別に不思議な事じゃないよ」

 実際そうなのだろう。止むに止まれぬ事情があれば人は人を殺すし、同じようにその行為を手伝うのだろう。一旦、それが始まってしまえば、引き返す事などできなくなってしまうのかもしれない。

 「さて、事件全体のおさらいはここら辺にしておこうか。僕らがいくらプロファイリングごっこをしたところで限界があるからね」翡典が妙にウキウキとしながら元も子も無い事を言いだす。

 確かに、この程度の情報から素人が首切り魔を絞り込めるのなら、とっくに事件は終わっている筈だ。

 にも拘らず楽し気な翡典はその姿以上に不気味だった。

 「……今度は何です?」どういうつもりなのか、戸惑い気味に尋ねた。

 「いや、『完全無欠の一部の隙も無い密室』……、痺れるね」そう言って、クスクスと音まで立てて翡典が笑う。

 その言葉は数日前に正吾自身が口にした言葉だった。「それ……、翠天から聴いたんですか?」改めて人の口から聴かされると恥ずかしさが込み上げてくる。「冗談みたいなもんです……。すみません、あの時は翠天がしつこかったんで、何とか丸めこもうとして」

 「ロマンがあるよ。ミステリ好きなら誰だって、一度でいいから本物の密室に巡り合ってみたいと思ってるんだから」

 そういうものなのだろうか?翡典の妙な様子にはこれで合点がいったが、何だかまた厄介な話になりそうだった。

 「言葉の綾ですよ。何か前提条件が間違ってるんです。……そうじゃないと、おかしいですよ」

 「そうかな?僕は一応、条件を満たした上での現象の説明を二つ思いついたけど」

 「え?」

 正吾の驚いた顔に翡典は満足そうだった。


 「これまでの首切り魔による犯行が全て夜間、人気の無い野外で行われていた事から、正吾くんが通う塾、図南学習塾で起こった密室下での首無し死体消失事件は、首切り魔自身による犯行だとは正直考えにくい。首切り魔は明らかに目立つ行動を嫌っている。だから、この事件は首切り事件そのものではなく、あくまで関連して起こった事件だと僕は思う。現場となった建物は普段関係者以外利用しないような閉鎖的な場所で、そこで事件を起こすのは、自分がその関係者の中にいると言っているようなものだからね」

 それには正吾も同意見だった。最初はあの奇怪な事件を首切り魔による警告の様に感じていたが、もし首切り魔に今まで通り警察に捕まらないだけの分別があるならば、わざわざ正吾への警告のために、密室となった教室から首無し死体を消し去るなどという訳の分からない事件を起こしたりはしないだろう。はっきりと翡典に断言され、少しほっとする。

 「ただ、この首無し死体消失事件が犯人の手がかりになる可能性はまだあると思う」

 じっと翡典が正吾を見上げていた。「……わかってますよ。前日に首切り魔を目撃した俺が発見者の一人だからですよね」観念するように言う。その点は翠天に締めあげられたばかりだ。

 「まぁ、そうだね。ただの偶然かもしれないけど、何が起こったのかを明らかにする必要性は感じるな。それに、正吾くんが関係者だったおかげで詳細な情報も揃ってる。他の事件と違って推論に推論を重ねるような事はしなくていい。警察もこの件はあまりに不可解だから棚上げにしてそうだし、状況を紐解いてみたら首切り事件の手がかりが出てくるなんて事も案外あるかもしれない。素人探偵が推理するにはうってつけでしょ?」そう言うと翡典は皮肉っぽく笑った。

 「それで、翡典さんにはもう、どうやって死体が消えたかわかってるんですか?」話を急かしながらも正吾はまだ半信半疑だった。

 「条件をクリアできる仮説を少し思いついたってだけだよ。それが事実だとは今のところ思ってない」翡典が控えめに答える。「とりあえず、条件を簡単に整理しようか。まず現場となった教室のアクセスポイントは三つ。壁面にある窓と廊下側にある二つの引戸。そうだね?」

 「え、ええ」

 「正吾くんたちが教室にやってきた時、引戸は両方とも鍵がかけられていて、中からは声や物音がした」

 「声は小春が聴いただけです。物音もそんなに確かに聞こえた訳じゃ」

 「うん。ここは確かに曖昧な条件かなって思うよ。隣の教室も騒がしかったらしいし、聴き違いだった可能性もあるね。この条件を採用するかしないかで、話は大分変わるけど、とりあえず、話を先に進めようか。いつもは開いている教室に入れなかった事で、きみは事務所へ行き、塾長の九門さんを呼んだ。教室の鍵は九門さんたちがずっといた事務所にある一本きりだ。……一応、確認しておきたいんだけど、この間に教室から誰かが出てくる事は可能だったと思うかい?」

 「え?」

 「例えば、正吾くんが事務所にいる間に、教室の中から健斗くんが出てきたとして、小春さんがそれを黙っているなんて事はありえるかな?」

 言われて思わず考え込んでしまった。確かに、正吾が事務所にいる間、教室の前にいたのは小春だけだった。小春が黙ってさえいれば、教室の中から誰かが出てきたとしてもわからないかもしれない。それがもし健斗で、健斗が小春に黙っているように言ったのなら、小春は黙っていただろうか……?

 「健斗くんは、正吾くんが事務所から戻った後、何食わぬ顔で今やってきたように階段から現れた。彼はそのすぐ後に現れた愛空さんに驚いたそうだけど、不自然じゃなかったかい?彼は階段のすぐ下を昇ってきていた彼女の存在を知らなかった」

 「いや……、待ってください」何か違和感を感じ、頭の中で整理する「……鍵がかかっていました。健斗たちが現れてから、塾長が鍵を持ってきて、教室の戸を開けたんです。中から健斗が出てきたのなら、戸の鍵は開いてたはずですよね?」

 間髪入れずに翡典が口を開いた。「教室の戸は二つある。誰か、教室内で死体が発見された後、もう一つの戸が施錠されてる事を確認したかい?」

 「あ……」

 そうだ。正吾が思い出せる限り、死体が見つかった後はそれどころではなく、誰ももう一つの戸の施錠など気にしてはいなかった。

 これは、可能不可能で言えば、可能と言わざる負えない。

 正吾と小春が教室の戸が締まっている事を確認した時、首無し死体を教室に持ち込んだ犯人はまだ中にいて、塾長が鍵を開けた時には消えてしまった。窓も戸も、内側から鍵がかけられた完全な密室状態での脱出。そんな事はありえない。そう言って正吾は翠天を煙に巻いた。正吾自身も、そんな事はありえないと思っていた。

 しかし、こんな簡単な事でその完全な密室は崩れてしまった。小春さえ黙っていればいいのだ。

 「じゃあ、健斗が教室に首無し死体を置いたんですか……?」言いながら、健斗がそんな事をするだろうかと正吾は真面目に考え始めた。死体を持ち込んだのが健斗だったとして、健斗はなぜそんな事をしたのだろう?逆に、健斗以外に小春が庇うような相手が他にいるだろうか?

 翡典は、翼で踏ん張りながら首を横に振るった。「違うだろうね。密室の話を聞いて、僕が一番最初に思いついたのがこの説だったんだけど、健斗くんはその後ずっときみと行動を共にしている。別れたのは上の階に人を呼びに行った時くらいだ。彼にはその後、死体を消す事はできない。もちろん、協力者がいれば別だろうけど、彼の協力者として妥当で、死体を消しうる人物は僕には思いつけなかった」

 黙っているのはフェアではないと、正吾は躊躇しながらも、あえて口を開いた。「……あいつは、友達多いですよ。俺の知らない友人もたくさんいます。塾の関係者以外で、あの日、協力者がいた可能性もあります」

 「うん、そういう事もあるかなって、一応確認したんだ」そう言って、軽く微笑み、翡典が話を続けようとする。

 「ちょっと待ってください、まだ別の説明があるんですか……?」頭が追い付かなくなりそうだった。

 「健斗くんが教室に死体を持ち込んだのでなければ、当然そうなるね」

 「それはそうですけど……」

 死体は教室にあり、そして消えた。それは正吾自身が体験する中で起こった事だった。なのに、まるで仮定の話のように考えている自分がずっといた。現実に起こった事なのだから、説明ができて当たり前だ。少しずつ頭が動き出すのを感じる。しかし、健斗以外にそんな事が可能だったのか?

 「続けよう。塾長の九門さんが戸の鍵を開け、教室の中の首無し死体が発見された」

 「……はい」正吾は静かに頷いた。

 「首無し死体は教室中央付近の椅子に座らされていて、他に教室内に不審な物は何も無かった。人が隠れられるような場所も無く、その時、窓にはクレセント錠がかかっていたと講師の竹下さんが証言している」

 「はい」

 翡典が淀みなく続ける。「九門さんが教室の中に入り、死体が本物であると確かめた後、警察へ通報。犯人がビル内に潜伏している可能性を考え、全員固まってビル外へ退去した。さっきも話したけど、この時、健斗くんが上の階に呼びに行き、カルチャーセンターの職員たちもこれに合流している。その後、警官二名が到着し、竹下さんと共に死体の見つかった教室に向かったが、死体は既にそこには無かった。……時系列的にはこんなところだね」

 「そうですね……」あの日、起こった事の経緯としてはそれで過不足無い筈だった。

 「他に補足として、現場になった教室はビルの三階にあり、その日、2階と4階は無人、特に2階は誰でも出入りが可能な状態だった。一階の出入口は正面玄関と駐輪場に抜けるドアの二つ。しかし玄関付近には退去後人の集まりができていて、玄関からロビーの様子が丸見えだった。駐輪場へ抜けるドアへはこのロビー部分を通らなければならない。それから、一階の女子トイレにある窓が、ビルの裏側で隣接する建物との間にできた空間に繋がっていて、窓に嵌められた鉄柵に20cm程度の幅の隙間があった……。他に何か、条件、制約はあったかな?」

 しばらく考えてから正吾は首を横に振った。「翡典さん、何だか俺よりもあの場にいたみたいですよ」少し笑ってしまう。

 翡典は腕があったら頭でも掻いてそうな顔をした。「いや、不謹慎なのはわかってるんだけど、つい夢中になっちゃって……」それから気を取り直したようにまた口を開く。「さて、それじゃあ僕の考えを話そうかな……。一つ目の仮説は、『こども犯人説』」

 「こども、ですか……?」

 「そう。突飛だけど、起こった事も突飛だから、これくらい事実も突飛だったんだと思う。動機は単純にいたずら目的としておこう。だから、関係者たちを驚かせただけで、それ以外何の意味も無い事が起こった」

 「それは……」確かに、死体を出してそれを消しても、一見意味が無いように思える。意図して行ったのならリスクに見合わない無駄な行為だ。「犯人が子供だったら、死体を出したり消したりできるんですか……?」

 「うん。こどもだったら死体の中に隠れる事ができるからね」

 死体の中に隠れる?それはあまりしたくない想像だった。「えっと……、死体の中をくり抜いて、その中に子供がいたって事ですか……?」戸惑いながら口にする。

 「そう。死体は恐らく、前日に正吾くんが出くわした現場から消えた物だ。死体の中に隠れていた子、もしくはその友達は、正吾くんが首切り魔から逃げている間に、現場に残された首無し死体を発見した。そして度が過ぎたいたずらを思いついたんだ。なぜいたずらをする場所が正吾くんの通う塾だったのかはわからないけど、兄弟が通っていたり、何か関係者だったのかな?とにかく、その子かその友達は現場から死体を持ち去った」

 塾の関係者、子供と言われ、正吾はついめあの弟である優強を思い浮かべてしまっていた。

 「教室に現れた死体は多分、内臓を取り除かれて上半身と下半身でバラバラにしてあったんだと思う。頭が無いとは言え、大人の死体はこどもが運ぶには大きいし重たいからね。その子が死体の中に隠れる事になったのは、最初の計画通りだったのかもしれないし、成り行きでそうなってしまったのかもしれない。成り行きだとしたら、教室の外に正吾くんたちが現れた気配を感じて慌てて戸の鍵を閉め、そのままは逃げられなくなってしまったんじゃないかな。それで、いたずらを一緒に考えた友達に電話で連絡を取った。小春さんが聞いたのはその時の声だ。友達と相談した結果、その子は死体の中に一旦隠れる事にした……。死体の上半身は内臓を取り除いてあったし、服も着ているから子供の上半身ならすっぽり被る事ができた。脚は、死体の下半身が履いていたズボンの隙間に無理矢理押し込む。違和感はあるだろうけど、椅子に座る事によって机で覆ってそれを誤魔化す事ができた。教室の戸が開かれた後、死体を間近で観察したのは九門さんだけだ。普通は死体の中にこどもが隠れているなんて思わないからね。首の切断面を見て本物の死体だってわかったら、それ以上誰も死体に近づかなくなった。運良くビルから人がいなくなった後、その子は死体の中から抜け出して、エレベータを使って死体と一緒に一階に降り、女子トイレの例の柵の隙間からビルの裏手へと逃げだした。死体は元々分割されていたから、うまい具合に隙間を通せたんだと思う。その子もその死体に隠れられるような子だからね。大人と違って、その隙間を通る事ができた。これで一応、状況は説明できたと思う。……どうかな?」一息に説明した後、翡典は「全部が計画通りだった場合も大筋は変わらない、ただ、ビルから人がいなくならなければ死体の中に隠れた後逃げ出す事もできないし、その時は何か別の仕掛けも用意してあったのかもしれないね」と付け足した。

 翡典の話を聞きながら、正吾の中では当たり前のようにその子供の姿が優強になって再生されていた。性格的に優強がそんな事をするとは全く思えなかったが、それは元から翡典の言うように突飛な話なので、他の小学生クラスに通っていた子供を思い浮かべていたとしても同じ事だった。少なくとも体格的に言えば優強に問題は無い。

 その想像は翡典が黙ってからも正吾の頭の中でしばらく続いたが、決定的に現象と矛盾した点は見つからなかった。「そうですね……。確かに、子供だったらできたのかもしれません……」

 「信じられないって顔してるね」採点が終わってほっとしたような表情を見せた後、翡典が悪戯っぽく口にした。

 「すみません……。ちょっと、びっくりしてるってのもあるんですけど、……でも、あの日起こった出来事を説明できてるのかと言えば、できてると思います」

 「良かった。最初に言った通り、僕もこれが事実だと思ってる訳じゃないけど、検討してみる価値がある仮説ではあるみたいだね」満足そうに翡典が言う。「少し自信がついた所で、もう一つの仮説の方も聞いてもらおうかな」

 「は、はい」

 「こっちは突飛、と言うよりほとんど反則みたいな仮説だね」

 「反則、ですか」

 「うん。ミステリだったらね。犯人は警察だったって説。『犯人警察説』」そしてまた正吾がそのセンテンスをうまく飲み込めないままに、翡典はつらつらと説明を始める。「まぁ、これを言い出したら何でもありなんだよね。警察が組織的に動いていたのなら、ビルの管理会社に協力を要請して教室のマスターキーを使用できるし、死体も見つからなかった事にできる」

 確かにそれは何でもありだ……。教室の戸も外からマスターキーで鍵をかける事ができた。死体の消失もビルのどこかにいた人員が教室から持ち出して、どこかに隠しておき、捜索しても見つからなかった事にすればいい。……しかし、「なんで警察がわざわざそんな事をするんです……?」

 「そう。警察はこどもと違っていたずらでこんな事はしない。こっちはちゃんと意味があるんだ。……つまりね、警察は図南学習塾の関係者に首切り事件の容疑者がいると考えていて、その人物と接触したかったんだよ。けれど、こちらの捜査状況も知られたくないし、逮捕できる程の証拠も無かった。だから、首切り事件の参考人として直接接触する事は避けたい。そこで、その人物を別件の参考人として事情聴取できるように、あの事件を起こした。……教室の鍵を閉めて密室を作ったのは、容疑者が現場に現れるまでの時間稼ぎ、もしくは難解な事件にする事で容疑者の事情聴取を長引かせられると考えたのか。あるいは単純にトラブルでそうなってしまったのかもしれない。小春さんが聞いた声は、この場合、中にいた死体を運び込んだ警官たちのものだ。実は、さっき健斗くんが教室から出てきたんじゃないかって確認したのは、このパターンが可能だったか知りたかったからなんだけど、ここではこの警官たちが教室から出てくる。そして警察手帳を見せて、事情を話して何も見なかったように振る舞ってくれと頼み、その場から離れていったんだ。この日、四階が無人である事も調査済みだったろうし、恐らくこの警官たちは四階に退避したんじゃないかな。死体を消したのも、こういう風にビル内に隠れていた警官たちだ。こんな捜査方法はきっと違法だろうから、事件としては何も具体性が残らない方がいい。使った死体は前日の首切り死体がその後発見されていて、それを使ったんだと思うけど、前日の事件の死体がそんな所で見つかったという記録が残るのも避けたいだろうし、”どのように死体が消えたのか”、という不可解な謎が残っても、死体は必ず消す必要があった。……そのため、これも『こども犯人説』が計画通りだった場合のように、ビルから人が偶然いなくならなければ、何か人を退去させるための仕掛けがあらかじめ用意してあったんじゃないかな。死体が見つからなかった事にするにしても、死体が消えるのはビルが警察の管理下に入る前の方が責任が生じないから都合がいいしね。その仕掛けというのがそもそも、愛空さんという協力者だった可能性もある。確か彼女の発言でビルから退避する事が決まったんだよね?彼女は最近は塾に来る事自体稀だったそうじゃないか。あの日、たまたま塾にやってきたのはそういう理由があったからなんだよ。隠れていた警官たちが教室からビル内のどこか別の場所に死体を移した後は、通報を受けたと外部に用意していた人員たちがやってきて現場を掌握し、捜索しても死体はどこにも見つからなかった事にした。かくして、首無し死体は密室から現れ、密室から消え失せた……。どうだい?」


 「他にも色々考えたんだけどね、ちゃんとまとまったのはこれくらいだったよ」自説を長々と語り終え、頬をほんのりと上気させた翡典に、正吾はまた水を汲んできてストローで飲ませてやった。「あれ、それは……?」座布団に座り直そうとしながら、翡典の視線の先へ目を向けると、そこには畳まれた布団の上に投げだしてあった正吾の鞄があった。

 「なんです?」

 「いや、この間、それと同じ物を翠天が持っていたから」

 「ああ。図南で配ってるんです、帰り道で車に轢かれないようにって。付けてるの俺くらいですけどね。この前、来た時に翠天も貰ったんですよ」正吾は鞄まで伸びをして、鳥の形をした反射板のキーホルダーを指で弄んだ。室内の明かりでもきらきらと輝いて鬱陶しい。「あの……、警察説の場合の容疑者って、もしかして俺ですか……?」改めて座布団に片膝を立てて座り、翡典に尋ねた。

 前日、伊藤と言う刑事から受けたしつこい事情聴取を思い出す。翠天があの場にいなかった事にするために、色々と細かい嘘をついたので、何か隠していると疑われていたのは間違いなかった。

 正吾が容疑者になっていたのなら、二日連続で事件に鉢合わせする目にあったのも偶然ではなかった事になる。しかし、翡典からの返答は「うーん……、どうだろう。多分、それは無いんじゃないかなぁ?」だった。

 「もし正吾くんが容疑者になっていたんだとしたら、しばらく尾行くらいつけている筈だ。あの日の翌日、僕が空から見ていた限りではそういう気配は無かった。それに、正吾くんが尾行されてたのなら、首切り魔たちに襲われた時も、僕が割って入る必要なんて無かったはずだよ。首切り魔たちはその場で現行犯逮捕されてとっくに事件は解決してる」

 それは確かにそうだ。しかし、そうなると正吾の他に連続首切り事件の容疑者が図南学習塾の中にいた事になってしまう。

 「『警察犯人説』も『こども犯人説』と一緒で、可能は可能に思えるんですけど……。ただ、小春ってそんないきなり事情を説明されて演技が出来る程、器用な奴じゃないって言うか、相手が健斗だったら、まだわかるんですけど……」自分が小春だと思っているものはきっと幻想に過ぎない。そう、わかっていながら口にした。

 「僕は小春さんと直接会った事は無いから、正吾くんがそう思うのなら、そうなのかもしれない」翡典はあっけなくそう言った。

 「それと、めあが警察に協力してるってのも何だか唐突に感じます」

 「まぁ、そうだね。彼女の家族や知り合いに警官がいたりすれば、ありえない話ではなくなりそうだけど、そんな都合のいい話は無いだろうね」

 「そうですね……、聞いた事は無いです」そもそもめあの家族は優強しか知らなかった。別にめあだけじゃない。親しくしてると思っている健斗や小春の家族についてだって正吾はろくに知らない。可能性として無いとは言い切れなかった。

 「でも別に、そこは誰でもいいんだよ。めあさんじゃなくてもいい。めあさんが協力者だって言ったのは、実際に起こった事から逆算しただけで、めあさんの話に乗った竹下さんでも、最終的な判断を下した九門さんだっていい。誰もビルから出る事を提案しなかったら、話をそっちに持っていく、それが協力者の役割だった」

 九門や竹下がいくら殺人事件の捜査のためだとは言え、教室内に死体まで持ち込ませてそんな茶番を演じさせるとはとても思えなかったが、翡典の言う通り九門や竹下じゃなかったとしても、図南学習塾の中に警察の協力者がいたという説自体は否定できない。候補はいくらでもいた。家族や知り合いが警察官だという塾生だって一人くらいはいてもおかしくはないだろう。

 「……白状するとね、『警察犯人説』には、そんな事よりももっと大きな欠点があるんだよ」まだ正吾が納得できない顔をしていると、可笑しそうに翡典が言った。「そもそも、こんな事を僕らが話し合っているのは、警察が見落としている首切り事件の手がかりが図南学習塾で起きた事件に隠されているかもしれないからだった。けど、全部警察の自作自演だったとなると、そんな物は初めから無いんだから、僕らにとっては完全な空振りだったって事になる。更に言うと、さっき正吾くんが容疑者だった場合、尾行くらい着いてるはずだって話をしたけど、正吾くん以外が容疑者だった場合でもそれは変わらないよ。警察がマークしていた容疑者が図南学習塾の関係者だったとして、その人物が首切り魔だったのなら、きみを襲ったりなんかできなかったはずだ。つまり、もし仮説が正しかったとしても、警察の疑っていた相手は無実だった事になる。だからこの仮説は初めから僕らにとっては何の意味も無いんだ」

 理解した瞬間、正吾は思わず吹き出していた。翡典も笑いながら申し訳なさそうな顔を正吾に向ける。「確かに……、確かにそうです」実際、完全に無駄な訳は無い。こうして説明されるまで、正吾はあの日に起こった出来事は説明不能な出来事だと思い込んでいた。それに、突飛な『こども犯人説』も、反則的で無駄だと言われた『警察犯人説』も、それがそのまま事実ではないとしたって何がしかの真実は含んでいるように思えた。図南学習塾であの日起こった事は、実現不可能に見える分、取り得る解も少ないはずだ。「せめて何か、具体的な証拠が欲しいですね……」そう言いながら、翠天にもう少し協力してやれば良かったと、一瞬後悔がよぎった。いや、それは無理な話だ。思わず険しい表情が表に出てしまう。あの時の自分に、あれ以上の協力なんて翠天相手に出来る訳が無かった。

 正吾が一人で百面相しているのを翡典が不思議そうに眺めていた。正吾は慌てて、何事も無かった様に続きを捲し立てた。「……どっちの説にしたって、はっきりさせた方がいいですよ。『こども犯人説』なら、その子たちが首無し死体を見つけた時に何か首切り魔に繋がるようなものを見てる可能性もありますし、『警察犯人説』だって、これ以上、この件に頭を使わなくていい事だけはわかります」

 「うん。……まぁ、出来る事ならね」と翡典がはにかんで答える。

 「……浮かないですね」翡典はあまり乗り気には見えなかった。

 「そういうソリッドな話が苦手ってのもあるんだけど……、やっぱり、自分でも空想にしか思えなくってさ。すべてが空想なら楽しいのにね」

 言いたい事は正吾にもわかった。正吾の中にも同じものがある。「でも、何もしないよりはいいですよ。今の話、翠天には話したんですか?」

 「まさか。翠天に話したら、飛び出して行って何をするかわからない」

 「それは……、そうですね」その姿は正吾にも容易に想像ができた。「じゃあ、俺が調べてみますよ。引きこもってるのも、そろそろ限界な気がしてたんで」待ってるだけで首切り魔が捕まらない以上、いつかは家から出なくてはならない。あれだけ恐ろしい思いをしたのに、それを愚かにも忘れかけている。得体の知れなかったものが輪郭を持ち始めた感覚が正吾をそうさせていた。もちろん、錯覚だ。

 「いや、それより僕はきみの話が聞きたいな」翡典が言う。

 「え?」

 「翠天との別れ際にきみの様子がおかしかったって聞いて、気になったんだよね。正吾くんにも何か考えがあるんじゃないかなって。実を言うと、こんな話をしたのも、それが聞きたかったからなんだよ」

 だとしたら随分と長い前置きだ。「俺の、考えですか……」つい痛む鼻先を触っている。いや、あれは考えなんてものじゃない。そう思っても、思考は何度もそちらに迷い込もうとした。「無いですよ。何も」

 生首がこちらを見つめている。

 「そうかな……?話してて、やっぱり何か考えがあるんじゃないかなって思ったけど」そう言ったきり翡典は黙り、気まずい沈黙が流れた。

 座布団の房を撫でても、窓の外の雨に目を逸らしてみても、翡典は待ちの構えを解かず、薄く微笑んでいる。「……わかりました。けど、これは……」考えがまとまっている訳ではない。「そうですね。話します、けど……、うーん……。あの、翡典さんたち以外にも、ここら辺に飛頭の人たちっているんですか?」

 「ん?」

 「いや、首切り魔が頭部を持ち去る理由なんですけど……、殺されてたのは飛頭の人たちなんじゃないかなって。首切り魔は飛頭の人たちに恨みがある。けど、飛頭の秘密は知られたくない。だから、被害者の頭を持ち去った」

 翡典は正吾から視線を外し、しばらくまた黙ってしまった。「……おもしろいね。飛頭の者同士で何か諍いがあったって事かな?けど、それは無いと思うな。この辺りに飛頭の者が住んでいるって話は聞いた事が無いし、それなら、被害者同士に何か接点があったはずだ。それに、正吾くんと翠天が出会った夜に被害者の生首を翠天が観察している。飛頭の頭だったら、何か痕跡があったはずだよ」

 「……そうですよね。あの生首には羽なんて無かった」

 「でも発想としてはおもしろいよ。そんな事考えもしなかった……。それにね、成人した飛頭の多くは翼を切除してる。やっぱり目立つからね。社会に馴染むためにそういう選択をする飛頭の方が多い。ぼくもそうする予定だった」

 「そうなんですか?」

 「うん。だから、翼の有無は飛頭の区別には使えない。まぁ、跡は残るから、触ったら違和感があるけどね。翠天もそれは見逃さなかったと思う」確かに翠天はあの生首を断面まで含めじっくりと観察していた。それなら、そうなのだろう。

 「……じゃあ、困った事になるんです」あの日、正吾の腕に飛び込んできたのは飛頭の頭では無かった。それではおかしな事になってしまう。

 「おっと」正吾の様子に翡典が首を傾げようとしたのか、少しバランスを崩し、慌てた様子で翼を動かし頭を支える。「……えっと、……何が困った事になるんだい?」

 いや、いくらなんでも、その考えは馬鹿げている。そんな事はあるはずが無い。

 しかし、目の前にいる翡典も、正吾にとってはあるはずが無い馬鹿げた存在だった。「……あの、何でもないんです。考えすぎです。……その、……飛頭の人なら、図南の件も簡単にできるかなって思ったんです。教室の密室も戸の鍵を閉めてから、身体から外れて、カーテンなんかの裏に隠れられます。人一人隠れるスペースは無くっても、頭一つだったら隠れられるスペースなんていくらでもありますから。ビルから出ていくのも、死体を背負ってる訳でもないので、無茶すればどうとでもなるんじゃないですか?俺は行った事無いんですけど、5階にもトイレがあるらしいんです。一階と間取りが似てるんなら、そこにも窓があるはずです。そこから出たりできるかもしれません」

 翡典はまた考え込んだ様子で、しばらく黙ってから口を開いた。「なるほどね。……飛頭の人間が僕らしかいないんだったら、僕らはその有力候補だ」

 「そういう事です。何でそんな事をしたのかはわかりませんけどね」

 翡典がまたじっくりと考え込む。「……九門さんが死体の首の断面を確認しているね?」

 「はい」

 「僕の首の断面を見て貰ってもわかると思うけど、僕らの使った体の首の断面は、少し普通とは違うんだ。惨殺死体みたいにはならない。九門さんが見たなら、何か違和感を持ったはずだよ」

 正吾は首を振って答えた。「じゃあ、違います。元から疑ったりなんかしてないですよ。ただ、そういう事もできるんじゃないかなって考えちゃっただけなんです」

 緊張が解けたように翡典が笑った。「そんなに信用されても困るよ……。僕らは化け物じゃない。でも、化け物の親戚みたいなものなんだから」

 そうですね、とは流石に返しづらい。正吾は何と言えばいいか返答に窮した。

 「でも、本当におもしろいよ」翡典はそんな正吾を気にする様子もなく、さっきも何度も言ったような事を楽しそうに繰り返す。「僕らを変数に組み込むなんて、僕には絶対できなかった」

 「期待外れだったんじゃないですか?勿体ぶった割に、大した話じゃないって」

 「ううん、すごいよ……。感心した。僕らには言えない訳だ……。翠天が聞いたら何て言うかな?」

 「それは絶対にやめてください」心の底からそう思う。

 「言わない言わない。言わないよ」翡典はまだ笑っている。「きみと出会えて本当に良かったよ。あの子も本心ではきっとそう思ってるはずだ」

 「そう……、ですか?」思わずしぶい顔をしてしまう。

 「きみと出会ってから翠天は、家ではきみの話ばかりしているよ。内容はひどいけど、でも、きみに夢中って感じだ。彼女自身は全く気が付いてないみたいだけどね」

 今度はどんな顔をすればいいかわからない。一瞬、正吾は何を言われているのか、自分が何を考えているのか処理しきれなくなった。翠天が?

 自分の混乱に混乱していると、正吾の背後で耳慣れた音がした。突然だった。アパートの外廊下が鳴る音。慌てて振り返ると人影は既に台所にある凹凸ガラスの窓の向こうを通り過ぎるところだった。ガチャガチャと耳障りな金属音がすぐに響き、玄関が開く。

 「……は、早いね」

 正吾の父は正吾と目も合わさずに、手に提げていた四角い風呂敷包みを台所のテーブルの上に置き、そのまま風呂場の方へと消えていった。

 間一髪だった。

 「お父上かい……?」正吾の背後に隠れた翡典が声を押し殺して言った。

 しばらくしてシャワーの音が聞こえだす。

 「は、はい」なぜ父がこんな時間に帰ってきたのか、正吾には全くわからなかった。それだけでも異常事態と言える。「……翡典さん、送った方がいいですか?」風呂場の物音を気にしながら、翡典に向き直った。窓の外の雨がまだ止んでいない。それとも、一旦どこかに隠れていて貰った方が安全だろうか?

 「いや、大丈夫。突然来て、悪かったね。このまま帰るよ」

 「雨、さっきより強くなってますよ?」急いで窓を開けると、翡典が来る前は霧のようだった雨が、肌を叩く感触を持つくらいには強くなっていた。

 窓枠に手をかけ、暗くなった空を眺めている正吾の脇に、翡典が飛び上がり、窓枠に止まる。大きな羽音にびくついて、正吾はまた風呂場の方を気にした。変わらず、まだシャワーの音は続いていた。

 「これくらいなら大丈夫だよ。それに近くに翠天が来ているはずだ」

 「え?どこに?」窓の外はしばらく畑と道しか無い。

 「呼べば来てくれるんだ。僕らには、そういう特殊な声がある」正吾は雨が降る薄闇の景色に目を凝らしたが、人影は見つからない。翡典が窓枠から手すりに飛び移る。正吾の視界を翼を広げた翡典が覆った。「僕の心配はいい。それより聞いてくれ正吾くん。……本当はこれを言いに来たんだ」

 そんな場合じゃ、と言いかけて、正吾は翡典の気迫に負けていた。

 「僕が死んだら、翠天に家族の元に帰るよう言って欲しい。迷惑なのはわかる。けど、きみにしか頼めない。彼女には迷いがあるが、それでも、彼女にはまだ保護が必要だ」まだ固まったままの正吾に翡典が続けた。「僕らは自分の体が普通の人とは違う事を大人になる過程で少しずつ教えられ、ゆっくり理解していく。でも、彼女は違った。10歳の時だ。僕はその時もう家を出ていたから一緒にいてやる事ができなかった。とてもショックを受けたらしい。彼女はそれからずっと、周りと距離を取って生きてきた。飛頭の者とさえそうだったし、普通の人とは特に距離を取っている……。危険な程に。けど、きみは違った。偶然でもいい、そうなった。本当は彼女を連れ出してきた僕が責任を取るべきなんだけど、その点に関してだけは、彼女を説得できないでいる……。だから、……きみに頼むしかない。都合のいい事を言ってるのはわかってる……。でも、きっときみなら」

 「……わかりました」勢いで答えるしかなかった。しかし、そんな事ができる自信は無かった。それも翡典が死んだ後に。

 翡典がいつも通りの微笑を取り戻す。いや、無理に作った笑みだ。「ごめん。……無理矢理言わせたね」

 「翡典さん」翡典の体さえ手に入れば何の問題も無いのだ……。

 「本当は事件の事も心残りなんだけどね。この半年、ずっと首切り事件の事を考えていた。情報の向こうにある生々しい世界を感じながら、こんな事、早く終わればいいのにって思ってたよ」

 「……さっきの話、あれ、嘘なんです」

 「え?」

 「『飛頭犯人説』みたいなさっきのアレです。少しは考えましたけど……」時間が無い。今言わなければ、ずっと言い出せない気がした。「逆なんじゃないですか?」

 「逆?」

 「翡典さんたちは体が欲しい。首切り魔たちは頭が欲しいんです」

 存在しないものを凝視するように翡典の表情が固まった。それも一瞬で崩壊し、口を薄く開いて、目は何かを一心不乱に覗き見ていた。

 伝わった。

 正吾は翡典に見た事を話した。ずっと見間違いじゃないかと迷っていた。しかし、それは既に正吾の意思を越えて確信になってしまっていた。

 「そんな馬鹿な事……」翡典がようやくそう呟く。

 「俺が翡典さんたちの事を知った時もそう思いましたよ」

 翡典が今初めて正吾の存在に気づいたように視線を向ける。丁度、正吾の背後でシャワーの音が鳴りやんでいた。

 「行ってください」少し心配だったが、正吾はそう言った。「……また話しましょう」

 脱衣所からする物音に、正吾は手すりに止まったままの翡典を両手で持ち上げた。少し震えるように翡典が正吾の手の中で頷く。軽く翡典を空に放り出す。翡典は羽音を立て、そのまま雨の降る薄闇へとゆっくりと消えていった。

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