3. -オン・ザ・ボディ 4

 4

 移動教室からの帰りだった。昼休みで、購買と食堂どちらで昼食を済ませようか考えながら教室に急いでいた。どちらにするにせよ、早く荷物を置いて向かわなければ混みあって時間がかかるし、売り切れが出ればその分、選択肢も減る。

 食堂なら、カレーライスかかつ丼にしたいが、財布と相談すると、あまりいい顔はしない。購買なら、ソースカツパンは飽きてきたので、ホットドッグか焼きそばパンがいいが、どちらも売切れるのが早く、現物を見るまで気分は切り替えない方がいい。期待を裏切られた時のダメージが大きい。

 気持ちとしては、食堂に傾きかけている。ここ数日、パンチ亭に行かず、家で夕食を済ませていたので、多少の余裕があった。

 そんな場合ではないのに、廊下の途中で足を止めている。

 小春のいる教室の前。

 正吾と同じように購買や食堂を目指す生徒たちが次々と開いた戸から、吐き出されていく。

 その中に小春の姿はない。

 そんな場合ではないのに、購買・食堂組が捌けた後の長方形に開きっぱなしになった戸から中を覗いている。

 小春の昼食は気まぐれで、弁当を持参して教室にいる事もあれば、食堂で正吾と顔を合わす事もある。いつも決まっている必要はない。どこにいても、誰かしら小春と一緒にいて、大抵笑っている。 

 今日の小春は、弁当に甘ったるそうな菓子パンを持参していて、教室中央付近で、正吾が名前も知らない女子たちと机を合わせ、自分たちの昼食の品評会でもしているようだった。

 いつもと何も変わらない小春だ。

 正吾には楽しそうに笑っているように見えた。

 健斗にはわかって自分にはわからない違いがあるのだろうか?

 それとも、健斗の勘違いだったか、問題が既に解決されたのか。

 いずれにせよ、自分に出番がない事は確かだった。

 小春のクラスメイトたちの内の何人かが、誰にも声をかけずに教室の中を覗いている正吾を怪しんでいた。

 小春に気づかれない内にと思い、正吾は戸から離れた。

 廊下を歩いていた女生徒に気づかず、ぶつかりそうになっていた。

 角の様なシルエットをした特徴的な髪型。弁当の包みを提げた翠天が驚いた様子で立ち止まっている。

 一瞬、視線がかち合うと、翠天は顔を背け、何も言わずに正吾の横をすり抜けていった。

 「おい」

 そんな場合ではないのに、翠天に声をかけていた。

 翠天は何も聞こえないふりをして、まだ風景から出てこないつもりなのか、足早なまま正吾から離れていこうとする。

 「弁当なんか持ってどこに行くんだよ?」

 教室以外で翠天が弁当を食べているところなど、一度も見たことがなかった。図南で死体が見つかった翌日、土手沿いの四阿で食べている所を一度見ていたが、それは例外として扱っていいだろう。

 「耳は良かったんじゃなかったのか?」

 翠天は何の反応も示さない。

 「おい!」少し意地になり、駆け寄って、何かの八つ当たりのように、翠天の細い手首を掴んでいた。

 翠天が顔だけ振り向き、きっと尖った眦で正吾を睨んだ。

 掴んだ手首が少し震えていた。

 翠天の角を掴んだ時の事を思い出したが、今度の翠天は震えて睨みつける事しかしなかった。

 あの時は角の秘密を知られる事を恐れていたのかもしれない。

 なら今は何を恐れているのだろう。

 細い手首の感触は骨ばっていたが、きちんと体温があり、脈を感じる。それなのに、まるで死体の手首を掴んでいるような気がした。

 翠天の首を見ている。チョーカーの下の赤い痣を思い出している。翠天の頭と体はばらばらだ。

 その大人びた顔つきと、華奢な体が、どこかアンバランスに感じたのは、そのせいだったのかもしれない。

 「……離せ」静かに翠天が言う。

 「ごめん」言われて、咄嗟に謝り、手を離した。

 何も無かったかのように、また翠天が歩き出す。

 「どこ行く気なんだよ?」

 今まで散々自分の都合を押し付けてきたのに、正吾の言葉は完全に無視されていた。

 「……俺はお前の秘密を知ってるんだぞ」

 ようやく翠天が立ち止まり、振り返る。数日前にリビングで見たのと同じ硬い表情。

 「やっぱり、耳はいいんだな」周りに聞こえるような大きさで言ったつもりはなかった。「どこに行く気なんだ?」

 「……お前には関係ない。どこだっていいだろ」

 「どこだっていい。どこに行くのか聞いてるんだ」

 しばらく猫のように睨みあっていた。「……屋上だ。教室は騒がしいから。……今日からあそこで食べる事にした」

 「わかった。後で行く」逃げるように去る翠天に言い、正吾は教室に戻った。

 

 ソースカツパンを買い、屋上へ上がると、翠天は既に弁当を食べ終わって、おとなしくベンチに座っていた。正吾が来た事を確認すると、興味なさげに正面のフェンスへまっすぐ向き直る。フェンスの向こうに何がある訳でも無い。少し風が出ていて、6月にしては肌寒かった。

 正吾はベンチの奥に座る翠天から離れて端に座り、ソースカツパンを齧った。何を話すべきか考えながらだと、あっという間に食事は終わってしまった。

 翠天は背筋を伸ばして、人形のように虚空を眺めたままだ。

 正吾も同じものを見ようとしたが、やはりそこには曖昧な空がフェンスの向こうに伸びているだけだった。

 「翡典さんはどうしてるの?」ただの世間話のように空を飛ぶ生首の事を尋ねた。あれから四日経っている。いい加減、情報に慣れてもいい頃だったが、まだ翡典の事を考えると、頭が混乱していた。

 正吾はまた無視されるかもしれないと、口を開いたが、翠天からのレスポンスは早かった。「どうもこうもない」気忙しげな言い方だった。

 「それじゃわからない」

 この四日間、正吾はニュースを見ていなかったが、首無し死体が無くなったというニュースはあったのだろうか?そのときは死体が発見されないのだから、そもそも事件として扱われないかもしれない。翡典が体を無事手に入れたとしても、正吾がそれを知る事はないのだろう。

 「兄さんが忠告したはずだ。わたしたちには関わるなと」屋上に来てから、初めて、翠天がまともにこちらの顔を見ていた。

 「そんなことは言われてない。俺は、飛頭蛮のことを口にしないと約束しただけだ」

 「飛頭だ。二度と間違えるな」

 「わかった」

 それは今後、飛頭の事を口にする前提になるはずだが、いいのだろうか?下らない矛盾が気になり、うんざりした。

 翠天はまた黙り、どうあっても、自分から口を開きそうにはなかった。

 正吾の聞いた翡典の様子も答える気はなさそうで、いつもより冷ややかな視線で正吾を睨んでいる。その態度からすると、翡典の件で何か前進があったとは思えなかった。

 「……体の感覚はあるのか?」じっと向かい合っているままだと、翠天の真っ直ぐな瞳に負けそうで、正吾はそう尋ねた。翡典の存在にまだ混乱しているように、翠天をどう捉えればいいのかも、わからなくなってしまっていた。

 今までだって、クラスの腫物であったのに、今ではもっと得体の知れない存在だった。

 「……当たり前だ」また翠天の逆鱗に触れたようだった。何度もした経験にほっとすればいいのか、それとももう既に別の意味を持っているのか、それすらもわからない。

 「俺にはそれが当たり前かどうかわからない。だから聞いたんだ。例えば、お前たちはどうやって生まれ来る?頭だけなのか?体もついてるのか?頭と体は簡単に外れるのか?外れた後、体の方はどうなる?」

 「……そんなことを聞いてどうするつもりだ」

 「どうもしない。ただ考える」

 「何を?」

 「何を知ったかを」

 「違う。わたしを化け物だと思いたくて聞いてるだけだ」

 「勝手な被害妄想はやめろ」

 「お前はわたしのことを最初からどこか見下していた。わたしが化け物だとわかってさぞうれしいだろうな」

 前半は多少図星だったが、後半に関してはまだ戸惑いしかなかった。確かに翡典の姿は異常だった。翠天の頭には翼が生えていて、首に赤い痣を隠している。しかし、こうして会話をしていると、その事実を無視してしまいそうになる。どれだけ考えても消す事のできない警戒心と、差異を忘却しようとする力がないまぜになったままだ。「もしお前が化け物なら、もっと化け物らしくしてくれ。人間の顔をするな。体だって好きに手に入れたらいいだろ?今なら誰を殺したって全部首切り魔の所為にできるさ」

 言い終わるか言い終わらないかの内に、翠天が飛び掛かってきていた。正吾は押し倒され、ベンチから倒れ、いつの間にか翠天が馬乗りになって上に乗っていた。翠天が正吾の胸倉を掴み、顔がすぐ近くにあった。

 その突然の動きに正吾は驚いたが、翠天の体は軽く、いつでも払いのけられそうで危険には思えず、為すがままになった。

 「勘違いするなよ。兄さんは特別なんだ。兄さんはわたしたちが化け物ではないと言ったが、そんなのは嘘だ。兄さん相手でなければ、お前は、誰にも知られずとっくに死んでいる。わたしたちは首切り魔なんて話にならない化け物だ」

 「……俺がしているのは、お前と翡典さんの話だ。そんなの関係ない」

 「わたしだって、兄さんが止めていなければ、お前を殺していた……。兄さんがそれで納得するなら、喜んでお前を殺して、首を切り落としてやる」

 「やってみろよ」自分でも挑発し過ぎたと感じた。いくら翠天相手とは言え、強がりが過ぎた。

 次の瞬間、胸倉を掴んでいた翠天の右手がしなっていた。何が起こったかわからない内に、頭に強烈な衝撃を受け、視界が白くぼやけた。「やはりお前はわたしの体を馬鹿にしている。大っ嫌いだ」激しい耳鳴りに混じって、翠天の声が聞こえる。

 鼻頭が熱く、頭痛がした。翠天を払いのけようと腕を振ったが、何の感触もしなかった。翠天のほんの僅かな重みも消える。

 くらくらする頭を抱えて、立ち上がった。一発殴られただけなのに、想定外のダメージだった。今まで人に殴られたことはなく、初めて経験する複合的な痛みに、情けない程足がふらついていた。

 ぼやけた視界が元に戻ってくると、少し離れた所に立つ翠天が見えた。「俺は……、殺してみろって言ったんだ」

 翠天がつかつかと歩みより、今度は立ったまま正吾の胸倉を掴んでいた。正吾はまだまともに動けそうになかった。引かれた拳に、また殴られると、思わず目を瞑って、歯を食いしばったが、衝撃は来なかった。

 目を開くと、翠天は静かに顔を強張らせ、拳を握ったまま、下から睨み上げていた。一度殴られたにも関わらず、やはり翠天の事を危険だとも怖いとも思えなかった。

 「わたしが殺さなくったって、首切り魔がお前を殺す」

 「翡典さんがいつまでもつかわからないんだろ?そんなの待っていられるのか?」

 「お前の体なんか、兄さんにはふさわしくない。お前は餌だ。首切り魔はお前の近くにいる。お前が事件を目撃した翌日に、お前の通う塾で首無し死体が発見されるなんて、絶対に偶然じゃない。首切り魔はお前を知っている。お前も首切り魔を知っている。だからお前が何かに感づく前に首切り魔はお前を殺そうしたんだ。お前を囮にすれば、きっと首切り魔を見つけられる」

 「それで、首切り魔がまた別の誰かを殺すのを待つつもりか?」

 「そうだ。もし首切り魔が捕まりそうになれば、助けもするさ」

 「自分が馬鹿な事を言ってるって気づかないのか?それに何の意味がある?お前たちが首切り魔以上の化け物だって言うんなら、新しい体が必要になれば、人だって殺したんだろ?それを他人にやらせようとしてるだけだ」

 「うるさい!」叫んだ翠天に正吾は突き飛ばされた。頭を殴られた時の体のぐらつきは何とか収まっていて、少しバランスを崩し、後ろに数歩引き下がっただけで済んだ。逆に突き飛ばした方の翠天が、ふらふらとして倒れそうになっていた。「……じゃあ、どうしたらいいっていうんだ!」俯いて、また叫ぶ。「……兄さんが死んだら、……わたしは、一人になってしまう」最後には消え入りそうな声になっていた。じっと見ていると、翠天は体を震わせ、しゃくりあげるような音が聞こえ始めた。

 正吾こそ、目の前の翠天にどうしたらいいのかわからなくなっていた。自分でもここまで言うつもりはなかったし、こんな話をしようとも思っていなかった。

 見てはいけないものを見ているようで、顔を背けた。

 鼻の痛みに、手の甲で拭うと、血が流れていた。

 鼻の痛みが麻痺し、血が止まっても、翠天は泣いたままだった。

 午後の授業の予鈴が鳴る。

 「行け。わたしのことは放っておいてくれ……」

 謝罪したい気持ちを堪えた。言い過ぎではあっても、自分が間違っているとは思えない。慰めの言葉も出てこなかった。

 まだ俯いている翠天に、正吾は近づき、やりかえすつもりで肩を突き飛ばした。

 驚いた表情で、ようやく翠天が顔を上げた。涙は止まっていたが、眼のふちから頬に伝った跡がくっきり残り、顔は赤く染まっていた。

 「人の顔を殴って、言う事がそれか」

 しばらく声が出ないように、翠天は口をぱくぱくと動かした。「……じゃあ、何と言えばいい。あやまって欲しいのか?」

 「違う。そんなの聞きたくない」

 「何なんだ!……意味がわからない」翠天は怒りと混乱が入り混じった顔になっていた。

 正吾もほとんどそんな気分だった。「好きな事を言え。いつも通りでいい」

 「いつも通りなんて知るか!わたしはいつもこうだ!」ほとんど混乱は消えたようで、翠天が怒鳴った。

 「ああ、それだ。別にそれでいい」

 「意味がわからない!」翠天が繰り返した。

 「そんなの俺だってそうだ。いきなり生首が飛んできたり、殺人鬼が現れたり、死体が出てきて、死体が消えて。挙句の果てにクラスメイトが……」言いかけて、言葉を探した。「少し変わってる」

 「少し?変わってる?」怪訝そうな声で翠天が返す。

 「……他にどう表現すれば、これ以上、殴られないで済む?」

 それを聞いて、翠天が顔を背け鼻を啜った。顔はまだ赤いままだった。静かな吐息に続いて、背けた顔を戻した。「……お前が何と言おうと、わたしは首切り魔を追う。そして、兄さんの体を手に入れる」

 「勝手にしろ」

 「退け!お前が行かないなら、わたしが行く」

 翠天は他にいくらでも通りようがあるのに、わざわざ正吾に向かって歩き出した。正吾はそれを除け、階段室の鉄扉へ向かう翠天の背を眺めた。翠天が教室に戻るのなら、これ以上屋上にいる意味はなかったが、一緒に教室に戻るのは気が引けて、それを見送ろうとした。

 翠天が立ち止まり、振り返る。「おい」いつの間にか、いつもの調子の声に戻っていた。

 「……何だ?」

 しばらく黙った後、翠天は引き返して、また正吾の正面に戻った。「……お前、本当は首切り魔が誰か知ってるんじゃないか?」鋭い視線もいつも通りに戻っていた。

 「知らないよ……」肩を竦め答えた。そんなことはそもそも考えた事もなかった。

 「誰かを庇ってるんじゃないのか?」

 「俺は殺されかけてるんだぞ。どうして庇ったりする」

 午後の授業の本鈴が鳴るが、翠天は目の前に立ち塞がったままだった。

 しばらく瞳を覗き込まれたが、疚しいところは無い。ようやく納得したようで、翠天が「わかった」と言って少し目を細めた。それは安心したようにも、落胆したようにも見えた。

 今度は逆に正吾が翠天の瞳を覗き込んでいた。

 「……どうした?」訝し気に翠天が眉を寄せる。

 「いや……、何でも……」言いかけながら、正吾はあの日見た瞳の事を思い返していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る