2. -夜を飛ぶ鳥 4
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正吾にとって一番の謎は、何がそこまで翠天を熱心にさせているかだった。
竹下を睨んだ翠天の表情には、竹下が挙げた、不埒な好奇心や冒険心、あるいは承認欲求に関する下心のようなものは一切含まれていないように正吾には見えた。
剥き出しの真剣さで、翠天は竹下を睨んでいた。
翠天は、犯人を捕まえる事に興味は無いと言っていた。それなら、なぜ、翠天は首切り魔を追うような事をしているのだろう?
「正吾、こっちに来てくれ」翠天が、もはや呼び慣れたように正吾の名を呼んだ。
高校クラスの教室、B教室を出て、中学クラスの教室であるA教室を見た後、二人は2階へ降り、二つある自習室の内、B教室の真下にあるD教室の中を見ていた。
D教室の中は、3階の教室と違い、雑然としていた。
3階の教室にあるのと同じ、白い机と椅子がD教室の中にもあったが、それはきちんと整列しておらず、教室の前方には、小学生クラスが閉鎖した際にした、お別れ会の装飾がまだ寂し気に残っていた。
「正吾!早くしろ!」と、また翠天が呼びかける。
「今度は何……?」ホワイトボードの縁から垂れ下がった萎んだゴム風船を見ていた正吾は、渋々、翠天の元へ向かった。
翠天は教室後方の、開いた窓の前に立っていた。「ここの窓は昨日も開いていたのか?」
「んー、今の季節は湿気るからって、晴れてて、人のいない時は開けてるって話だったと思うけど」
「開いていたか、開いていなかったか聞いてるんだ」
「事実としては確認していない。しかし、先の理由により、開いていたと推測される」
「よし!」
一体、何がよしなんだ……。それこそ小学生クラスに通っていてもおかしくないサイズの翠天の体に、どうしてこれほどの体力が備わっているのかも、正吾には謎だった。サイズが小さい分、むしろ燃費がいいのだろうか?
「あれを見てくれ」と翠天が窓から身を乗り出し、通りの方を指さした。
仕方なしに、正吾も窓から顔を出し、翠天の指す方へ目をやる。どうやら、ビルの壁面につけられた縦長の看板を指しているようだった。通りから見ると、看板には、各階のテナント名が書かれていて、去年からこの2階部分は空の字になっている。「看板がどうしたの?」
「あの看板に隠れて、外から、わたしたちは見えない」
「ああ、うん、そうかも」実際、隣のビルとの狭い隙間にある看板で、正吾からは大通りの歩道を歩く人の足元しか見えなかった。
翠天が、体を捻って、窓枠の上で上半身を仰向けにし、今度は上を指さす。
随分危ない事をする、と正吾は多少心配しながら、頭だけ捻って、上を見上げた。狭い空が見えるだけだ。
「あそこからここまで、降りてこられると思うか?」
「え?」翠天は空ではなく、3階の窓を指しているようだった。「……どうだろう?」正吾は逆に下の階を見下ろした。3階の窓から2階の窓までの高さは、2階の窓から1階の窓までの高さと変わらないだろう。1階の窓の縁の少し上に、駐輪場の屋根があったが、正吾が窓枠からぶら下がったとして、そこに足がつく程度だろうか?「何か、道具があればいけるかもしれないけど、身一つじゃ難しいだろうね」そう言って、正吾は窓から離れた。
「そうか……」翠天はまだ窓枠に背を乗せ、腕を組んでいた。
「……羽生さん、危ないから早く中に入ってよ」
「翠天でいいと言っただろ。これくらいで、意気地の無いやつめ」
「翠天、中に入ってくれ。俺が突き落としたくなる前に」
心からの懇願が通じたのか、ようやく翠天が窓枠から身を起こし、そのまま縁に凭れかかる。まだ名残惜しそうに顔は上を見上げていた。
「窓から犯人が出ていったとしたら、どうやって出たのか、考えてた訳?」
「そうだ」と翠天が正吾に向き直る。
「窓には鍵がかかってたって話だったと思うけど」
「ああ……。とりあえず、そういう全体を考えるのは止めにして、細かい事実を集めることにした」翠天は完全に頭を切り替えているようだった。「実際、教室に死体を置いた人物が、教室の戸が開く直前まで中にいたのなら、窓から外に出るしかなくなる。それがそもそも可能かどうか、検討した方がいい。犯人が窓から教室の外に出たとして、看板のおかげで、2階から上のフロアの壁面は、通りからは死角になっている。見られる心配はなかっただろう。4階の窓がそのとき開いていたかどうかはわからないが、上へ上がるより、下へ降りる方が難易度が低い。ビルの外の壁面は薄いタイル張りで、猿でも壁伝いに降りたりするのは無理そうだ。なら、窓枠から下がって、降りるしかないが……」と、そこまで言って翠天が正吾の顔を見た。「なぁ、試しに窓枠からぶら下がってみてくれないか?」
「……別に減るもんじゃないんだから、少しくらい窓からぶら下がってくれたっていいじゃないか」D教室内をあらかた見終わった翠天が、まだぶつくさ言いながら、廊下へ向かった。
「その話はもう終わっただろ……」激論の末に、どうにかこうにか、正吾は窓からぶら下がるのを免れていたが、減ったものの事を思うと、いっそ窓からぶら下がった方がマシだったかもしれなかった。
ホワイトボードの下に、風に煽られたのか、お別れ会のポラロイド写真が一枚落ちていて、翠天の後を追おうとしていた正吾は、足を止めて、それを拾った。
「早く来い!時間がもったいないだろ!」
動機も分からない翠天の行動に付き合わされている身としては、あまりに理不尽な言い草だった。下らない激論の間に、窓からの陽は赤く染まっていた。
「ちょっと待ってくれ」
正吾は拾ったポラロイド写真を、元あったと思われるホワイトボードに磁石で留めた。ホワイトボードには下手くそなアンパンマンが描かれていて、飾り付けに使ったゴム風船の余りが、寂しく粉受けに残っていた。
正吾や小春、健斗、めあ、それに何人かの小学生たちに混じって、めあの弟の
お別れ会が開かれたのは、もう1年以上前だった。小学生クラスがあった頃は、図南学習塾ももう少し活気があり、それを惜しむ名残なのか、いつまでも後片付けがされていない。恐らく、2階のテナントを引き払う時がくるまで、ここはこのままにされるのだろう。
「正吾!何をしている!」既に廊下に出ていた翠天が叫んでいた。
「今行く!」と叫び返し、正吾は迷いながら、過去をズボンのポケットへ滑り込ませていた。
2階では、残りのC教室と物置を巡り、正吾たちは1階へ降りた。
C教室の様子は、特に他の教室と変わりなく、何も見るべきものは無かった。物置は、竹下によって時折教室で非公式に開かれる上映会用のDVDやプロジェクター、生徒への布教用に置いてある九門の私蔵品である漫画、など外部に見せられないような物から、開塾以来溜まった生徒資料、様々な古い教材と、雑多な物で溢れていたが、普段は施錠してあり、アクセスが困難なため、翠天もそれほど興味を示さなかった。
1階に降りた後、翠天は教室の鍵が事務所にある他に本当に無いのか、管理人室の中を見たがったが、正吾が説明してあった通り、管理人室にはもう長い事、人が入っていない。管理人室の鍵も無いので、中を確かめる事は諦め、他を見て回った。
管理人室の隣には機械室があり、階段の下には清掃用具などの入った小さな収納部があった。機械室は管理人室と同様、施錠されており、中を見る事はできず、階段下の収納部は、狭い空間に、草臥れたお決まりの掃除用具が揃っているだけだ。
1階奥の、自動販売機のあるスペースの壁には、駐輪場に出る鉄扉があり、死体をビル外へ持ちだした犯人は、その扉を使ったのではないかと翠天は言い出したが、それは論外だった。いくら薄暗いとは言え、ビルの外からエントランス部分は奥まで見通せていて、階段からもエレベーターからも、エントランス部分を通らなければ、その鉄扉まで行くことはできない。ビルの入口付近から、常に誰かが中を見ていただろう状況で、死体を鉄扉まで運ぶ事は不可能に近く、例え運べたとしても、死体を窓から落とした場合と同様、その後、死体を駐輪場から移動する事はできなかったはずだ。
エレベーター前に来て、翠天は当たり前のように男子トイレへと入っていった。普段から正吾も利用しているので、中の様子は良く知っていたが、特に変わった点は無い。
その後、翠天は女子トイレにも入っていったが、流石に正吾は中についていくことはしなかった。
「正吾!ちょっと来てくれ!」
「お前は一人で用も足せないのか!」
「それはできる!そうじゃない!いいから来てくれ」
もうどうにでもなれと、自棄になって、正吾は女子トイレの中に入った。翠天は入口付近にある手洗いと、奥の個室の間にある開いた窓の前に立っていた。「これは前から、こうなっていたのか?」
見ると、窓の外についた侵入防止用の柵の棒が何本か外れ、隙間ができていた。
「それ、俺が知ってると思う?」女子トイレに入ったのは、誓って、生まれて初めての経験だった。窓は角度的に、トイレの入口からも覗くことはできない。
「そうか」
「そうか、って、少しは考えてから呼びつけてくれよ」
「違う。それぐらいわかっている。一応、聞いてみただけだ」と言って、柵の隙間を指さした。「ここから外に出れないか試してくれないか?」窓は、確かに、翠天の背には少し高い位置にあった。
最早、溜息も底をついていた。それに、2階の窓からぶら下がるよりは遥かに安全な行為に思える。
正吾は言われるがままに、窓から顔を出し、柵の隙間を抜けれないか試した。肩や胸までは通ったが、どう頑張っても頭が支えてしまった。人間の頭部は硬く、融通が利かない。よほど太っていなければ、最小幅が一番大きいのも頭部だろう。他はどうにかなっても、どうしようもなかった。
通り抜ける事はできなかったが、柵は窓から少し張り出していたため、外の様子は少しだけわかった。図南学習塾のあるビルと、すぐその裏にあるビルの隙間は、人一人分はあり、それが、更に左右のビルから先もずっと続いている。窓の下に、柵から外れた棒が落ちていて、風雨に曝され、土や草に埋もれていた。
「無理そうか……?」
翠天の言葉に、正吾は柵から離れた。「無理だ。頭が通らない」
「わたしでも無理だろうか?」
「無理だろうね」
「……正吾よりは、……わたしの方が頭が小さいと思う」
そういう問題じゃない。翠天の頭には大きな角、のような髪の塊が生えている。
いつかのように無防備な顔をして、翠天が正吾を見上げていた。
つい、正吾は翠天の左右の角を両手で掴んでいた。
「な、何をするんだっ!」驚くような早さで、翠天が正吾の腕を弾いた。翠天の顔は、裏切られたように、一瞬で警戒心が露わな、威嚇する獣の表情に変わっていた。
弾かれた手首がジンと痛んだ。翠天のあまりに早い平手打ちに、内出血をおこし、赤く腫れあがっていた。
「ご、ごめん……。いや、その髪じゃ、どのみち、無理だろうって……」翠天のこれまでにない変化に、正吾は狼狽えていた。
「なら、そう、口で言え……」翠天は正吾から身を引き、興奮し、荒く息をしている。
ここ数日、散々翠天を怒らせてきたが、それは、怒りとは違い、恐れ、のように正吾には見えた。
「翠天、もうしない」
「当たり前だ。婦女子の体にみだりに触れるだなんて……」
3階から下に降りていく際は、1階ずつだったので、正吾も翠天に譲り、階段を使った。
女子トイレで1階を見終わり、二人は鍵を返すために事務所に戻る事にした。4階より上は、正吾の案内では中を見る事はできない。目の前にあるエレベーターに、流石に翠天も文句を言わなかったが、エレベーターの中に入っても、正吾を警戒し、二歩は距離を取って離れていた。
翠天の言い方は古風だったが、正吾も全く以てそのとおりだと思っていた。普段の自分なら、絶対にそんな事はしなかっただろう。あまりに長い間、翠天と気の張った会話を続けたせいで、前頭葉が麻痺していたとしか思えなかった。
事務所に戻ると、休校にしたせいか、三人は既に帰宅の用意を始めていた。
「遅かったから、鍵返すの忘れて帰ったのかと思ったぞ」呆れて九門が言った。
自分のデスクの上で鞄に書類を詰めていた九門に、正吾は借りていた鍵束を返した。
竹下は教室での事は何も話していなかったようで、カウンターの前に立った翠天を見て、少し気まずそうにしただけだった。
ビルを出ると、陽は落ちて、空は淡い色合いになっている。
翠天が反射材でできた鳥のキーホルダーを摘まみ上げ、顔をしかめていた。正吾が学生鞄につけている物と同じ物だった。事務所を出るときに、塾のパンフレットと一緒にるみから渡された物らしい。カウンターの上の籠に同じ物がいくつも入れてあって、塾生は好きに持って行って良かったが、ずっと余っている。なぜ鳥の形をしているのか、正吾は九門に尋ねた事があったが、その時に聞かされた図南学習塾の名の由来となった中国の故事は、もう忘れてしまった。
「もらっておけよ。夜道は危ないから」
「……わかった」
それだけ言うと、翠天は、また礼も言わず、別れの挨拶すらせずに、今までのしつこさからすると、驚く程あっさりとその場を去っていった。
翠天が鞄につけた図南のキーホルダーが、ぽつぽつと点き始めた街灯の明かりで白く光ったのが遠目に見えた時、正吾のポケットの中で、スマートフォンが音を立てて激しく震えだしていた。
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