2. -夜を飛ぶ鳥 3
3
話は正吾が思ったよりもずっと長くなった。
「……きみは話すのが下手だな」
一通りの話が終わり、翠天が礼も言わず、一言漏らした。これはかなり心外で、はっきり言って、翠天は話を聞くのが下手だった。まず事の成り行き全体を正吾は話そうとしたが、翠天はいちいち詳細を聞きたがり、事あるごとに正吾に突っかかってきた。正吾は仕方なく、小春や健斗、塾長らのプロフィールや人物描写を挟みながら、時系列に沿って、起こった事実を刻銘に語った。翠天に事件の話を聞かせるのは、刑事たちの事情聴取とはまた違った消耗だった。
「それで、結局、その死体は前日にきみが見た死体だったのか?」
正吾は、疲労感で肩を落として首を振った。「……正直、わからない」これは、刑事たちからも何度も聞かれた質問だったが、正吾にもはっきりとしなかった。言われてみれば、そのような気もするし、そうでないような気もした。警察は、あの日死んでいた男の身元もまだ割り出せていないようで、正吾はあそこで死んだ男が、何者でもなく、また、何者でもあるような気になっていた。
対面に座る翠天から非難がましい視線が飛んでくる。
二人は土手沿いにある、鉄橋近くの四阿で休んでいた。春先の花見や、散歩やジョギング中の休憩によく使われている。中には丸太を組み合わせた椅子と机が、いくつかセットで置かれていた。
いつまでも目的地もなく歩くのに疲れ、正吾が提案し、そこで昨日の話をした。正吾は近くのコンビニで買った飲み物を飲み、翠天は昼食も摂らずに学校を抜け出してきたらしく、鞄から出した手弁当を食べていた。いつも弁当を食べている事は知っていたが、その内容は、卵焼きにウィンナー、ホウレン草のバター炒めと、恐ろしく古風なものだった。
「仕方ないだろ……。あの時は、暗かったし、俺は、その、まだ生きてる生首を持っていて、首無し死体の向こうに、チェーンソーを持った首切り魔がいたんだ……。死体がどんな服を着てたかとか、観察してる余裕は無かったよ」そう、翠天に言いながら、正吾は混乱した。生きている生首、首無し死体。これは元は一人の人間で、これらを分けて考える事に違和感があった。生首が生きているのなら、首無し死体は死体ではない。その生首の一部だったものだ。では、何と表現すればいいのだろう?適当な言葉が見つからない。頭は生きていたのだから、個人としては死んでいない訳で……、死体と呼べるものは、あの場には無かったことになる。あの場にあったのは、体を失った頭と、頭を失った体……?
切り離されているだけで、誰も死んでいない。
いや、体を失った頭、というのは表現として正しいのか?頭は、あくまで体の一部だ。体が全体で、全体が一部を失う事はあっても、一部が全体を失う事は無い。体ではなく、胴と言えばいいのだろうか?それでは、四肢が欠けてしまう。なら、四肢と胴か?それではまるで四肢と胴が切り離されているみたいだ……。
考えれば、考える程、正吾はますます混乱した。そもそも、これらは通常一つなのだ。生きている生首という存在自体がナンセンスで、混乱の元になっている。……しかし、それは、あの時、確かに正吾の両手の間に存在していた。彼の肉体の頭以外の部分も、きっとまだ心臓や肺を動かしていただろう。
何だか、生きているという現象がひどく不可解で、不気味に思えてくる。
生きるというのは、物凄く不自然な頼りない状態で、今こうして考えている自分の意識も、その複雑で曖昧な一時的な現象の上に成り立った儚いものでしかない。
急に、自分の手の中でその儚いものが終了した事が、まるで自分の身に起きた事のように感じられ、正吾の体が震えた。
見ると、翠天が手を合わせ、目を瞑って、静かに黙祷していた。「ごちそうさま」
話を聞いていた間、ほとんど箸を動かしていなかった翠天が、ようやく弁当を食べ終わったようだった。
「……よし、行くか」黙祷を解いた翠天が、弁当箱を包み、水筒と一緒に、鞄に仕舞って立ち上がった。
「え?どこに?」
「きみの話では、わからなかったところが多々ある。その図南学習塾とやらにわたしを連れて行ってくれ」
どこかで、ばさ、と、鳥が飛び立ったような、大きな羽音が聞こえた。
先日、自分で打ち立てた『翠天と最も長く会話した人間』の記録を、今日は大幅に更新しそうだった。
強引な翠天に抵抗する気力は既に無く、正吾は翠天と共に、カーブする河川敷沿いを進み、志丹北高校とは逆の方向から、大通りへと入った。
「わたしの後をつけるくらいだから、よっぽどわたしと一緒にいたかったんだろうな?良かったじゃないか。いくらでもわたしの後についてきていいぞ」
翠天の住むマンションへ続く路地の前を通る時、翠天が正吾を追い越しざまにそう嫌味を言った。転校してきたばかりで、土地勘が無いとはいえ、流石に自分の通学路は把握しているらしく、そこから先は、翠天が前を歩いた。
足早に歩く、子供のような翠天の背中に置いていかれないよう、必死に歩くうち、あっという間に目的地である図南学習塾のあるビルへと着いてしまった。
昨日、ビルの周囲に貼られていた非常線を示すテープは既に無く、警官、マスコミなどの人だかりも消え、何の変哲もない古ビルに戻っている。
入口のガラス戸も開いていて、ビル自体はやっているようだった。
「ここか」と、一度ビルを見上げ、翠天は躊躇なく中へ入っていく。仕方なく、正吾も後に続く。
「おい、そっちじゃない」階段を上がろうとする翠天を止めた。「入口からは見えないけど、奥にエレベーターがあるんだ」
既に階段を上がりかけていた翠天が不満げに正吾を見下ろす。「階段でも、塾へは上がれるんだろう?」
「エレベーターの方が楽だ」ビルの折り返し階段は急で、使うのは、ビルに慣れない人間や、せっかちな健斗ぐらいだった。
「どっちでもいいじゃないか」
「エレベーターの方が文明的だ」
「堕落している。不健全だ。階段を使う方が健康的でいい」
「羽生さんは、東京タワーも健康のために階段で上がるの?」
「塾までたった3階じゃないか!」
「俺は健康より、文明を選ぶよ」
たかがエレベーターを使うか階段を使うかで、大袈裟な言い合いになった。正吾も子供っぽいと自分を思いながら、翠天を前にして自分の習慣を曲げるのが癪だった。
エレベーターの中で、昨日小春がウィンクしたように、翠天が舌でも出してあかんべぇをするんじゃないかと、正吾は少し期待したが、翠天は「……わたしはきみのことが嫌いだ」と冷めた口調で言っただけだった。
エレベーターを降りると、ガラス戸の向こうは明かりが点いており、るみが事務所のカウンターの白い電話機で、どこかに電話をしていた。るみが、しまった、という顔をして、正吾に気まずそうに手を振るう。昨日の事があったので、正直塾が開いていない事を正吾は期待していた。教室は閉まったままなので、授業は無さそうだったが、事務所が開いている以上、翠天はこのまま引き下がらないだろう。
流石に翠天も、事務所の中にまで、ずかずかと入り込む気は無いらしく、正吾に、早く案内しろと、目配せを送った。銃を背中に突きつけられた人質の気分だった。
こんにちは、と事務所に入ると、左手のソファで向かいあって座っていた九門と竹下が、同時に正吾を見て、るみと同じようなバツの悪そうな顔を向けた。
「あー、すまん。今、休校の連絡を入れてたところなんだ……」と、九門が言った。「協議してたんだが、昨日の件が落ち着くまで、しばらく休校にしようと思ってな」同時に溜息を漏らす。
竹下が、壁にかけられた時計を見ている。学校が終わってから来たにしては早すぎたからだろう。正吾も時計をちらりと見たが、ちょうど今、学校が終わった頃だった。
「いや、」と、正吾が言いかけたところで、九門の視線が正吾の背後に移った。翠天が中に入ってきていた。
「……その子は?」
「羽生翠天です」九門の質問に勝手に答え、顔は前に向けたまま、翠天が少し頭を下げた。
九門もおっとり立ち上がり、訳も分からないように会釈を返す。
「えっと、俺のクラスメイトで、入塾希望者なんだけど……」正吾は先に軽く話を通しておくつもりだったので、慌てて、あらかじめ考えておいた紹介をした。もし翠天が志丹北高校の制服を着ていなければ、正吾のクラスメイトだとは信じられず、小学生だと思われただろう。小学生クラスはもう無くなっている。
「これは、これは……」と困ったように九門は頭をかき、「図南学習塾塾長の九門達久です。普段は中学生クラスの授業を担当しております」と今度は営業モードで、丁寧に頭を下げた。頭を上げるとまた頭をかいて、「今は、ちょっと立て込んでてね。今日はちょっと案内は……」と、いつもの調子で申し訳なさそうに言った。塾生の少ない今、本来なら、大喜びしていただろうが、昨日の件で、九門も気が滅入っているようだった。
あまり乗り気になられてもぬか喜びになるので、正吾もその方が罪悪感を感じずに済み、ありがたかった。それに、翠天が図南学習塾に通ってくるなど、想像するのもごめんだった。「俺が、中だけ見せて、軽く案内してもいいですか?」と正吾は、翠天が余計な事を言い出す前に九門に切り出した。
「ん-、それならまぁ、……折角、来てもらった訳だし」九門が腕を組み、しばらく考える素振りを見せた。
「ここの鍵は、さっきのあの鉄の箱に入っているので全部か?」
「え?キーボックスのこと?……あー、塾の中で管理してるのは、あれで全部だと思うよ。……昔は、管理人がいたから、一階の管理室にもあったと思うけど、今はあるとしたら、どこかの管理会社じゃない?」
九門が、事務所の左奥にある自分のデスクの背後の壁に据え付けられたキーボックスから出してきた鍵束を、正吾は預り、翠天と二人で事務所を出た。高校クラスの教室の前で、正吾は鍵束から鍵を探した。高校クラスの教室は正確には、B教室の名になっていて、時と場合によっては中学生が使用することもあった。B教室と書かれたシールの貼ってある鍵を見つけ、鍵穴に差し込む。
「その、……キーボックスを開ける鍵は誰が持ってるんだ?」
「確か、事務所の鍵と一緒だから、塾長も竹下先生も、るみさんも持ってるよ」
「その三人だけか?」
「んー、多分ね」そう答えながら、戸を開ける。
教室は正吾が昨日最後に見た時とほとんど変わらない状態だった。首無し死体があった光景を思い出し、少し尻込みしながら中に入り、壁のスイッチで照明をつけた。これで、ほとんどではなく、何も変わらない状態になる。警察が中を捜査したのかも、疑わしい程だった。
「死体はどこに?」中に入ってきて言った翠天に、正吾は教室のほぼ中央にある机を指した。
教室には二人掛けの白い机が、横3列、縦5列で事務所側の壁に向かって並んでいる。正吾が指したのは、中央の列にある、3番目の机だった。翠天が滑らかに、机と机の間を縫って、そこまで辿り着いた。「……どっちの椅子だ?」
覚えてないよ、と肩をすくめかけ、「あ、……確か、奥の方の椅子だ」と答えた。首切り魔と会った時とは違い明るかったからか、あるいは身の危険が無かったからなのか、教室で見た死体の方は、意外と記憶がしっかりしていた。
「こっちか」と、翠天が机越しに、死体が座っていた椅子を見下ろす。
凝っと椅子を眺め、動かない翠天に、正吾もそばまで寄ってその椅子を眺めた。
何の変哲も無い、プラスチックの白い椅子が置いてあるだけだ。死体の痕跡は何も残っていない。本当に昨日のままなのか、他の椅子と比べ、机から少し引かれた状態だった。
「どうして、わざわざ死体は座らされていたんだ?」
「俺は犯人じゃないんだから、知らないよ」
「そういうつもりで言ったんじゃない」不快そうに睨みつけられるが、既に慣れっこになっている。
それから、翠天は机に荷物を置き、四角い教室を、隅から隅まで見て回った。
正吾は、いつも竹下が座っている教室前方に置かれた椅子に座り、それを眺めた。
翠天には既に説明してあったが、教室内には机と椅子以外、大した物は無かった。他にあるのは、教室の前後に置いてあるキャスター付きのホワイトボードと、正吾が今座っている椅子、それとセットの机くらいだ。この椅子と机は、教室に並んでいる他の物と全く一緒の物で、置かれている向き以外に違う所はない。
翠天が窓際まで行き、カーテンレールにかかったカーテンを開いたり閉じたりと試した。「この教室は、昨日のままか?」教室奥の窓際の端から、翠天が尋ねる。
「んー、多分ね」少なくとも、正吾が見る限りではそうだった。
「窓の鍵も全部か?」そう言いながら、翠天は自分に一番近いクレセント錠を眺めている。
「え?」と正吾は立ち上がり、少し離れて、教室の窓を眺めた。窓の鍵は全てしっかりとかかっていた。「……いや、他も何も変わってないんだから、そのままだと思うけど」開いていた窓の鍵を、わざわざ警察がかけていったとも思えない。
「おかしいじゃないか。きみの言っていることが全部正しいとすると……」翠天が壁や床、天井をぐるりと眺め、細い腕を組んで、釈然としない顔をした。「この教室には隠し通路でもあるのか?」
そんなわけはない。教室はただの普通の教室で、忍術教室ではない。壁も床も天井も、何の仕掛けも無かった。
「廊下と繋がる二つの戸には鍵がかかっていた。窓も全て鍵がかかっていた。……それでは、……密室になってしまう」
わざわざ密室などという非日常的な言葉で翠天に説明されずとも、既に正吾も言いたい事は理解していた。
確かに、教室へのアクセスポイントは廊下側の戸と、ビルの外に繋がる窓しかない。死体発見時、それら全てに鍵がされ、閉じていたなら、教室に死体を置いた人物は、教室から外に出る事はできず、教室内のどこかにいた事になる。
これは明らかに観察された事実と矛盾していた。
教室内に、死体以外変わった物が無かった事は、正吾も確認していたし、死体を持ち込んだ人物が隠れられるような場所も教室には無かった。
「いや、……待てよ」と、正吾は、自分にか、翠天にか、わからずに口にした。「犯人は、俺たちがビルを出た後、死体を持ち去ってるんだ。その時、窓の鍵をかけたのかもしれない」
「……何のために?」
いや、と正吾はまた言って、言い淀んだ。そもそも、死体を教室内に持ち込んだ理由すらわからないのに、そんな事を聞かれても困る。
「窓の鍵じゃない」正吾が黙っていると、翠天が時間切れだと言うように口を開いた。「締めたのは、戸の鍵だ。教室に死体を持ち込んだ犯人は、鍵を持っていた。死体を教室に置いた後、教室を出て、戸に鍵をかけた。……これなら、何の不思議もない。シンプルだ」
「それは……、そうだけど」しかし、それは、正吾には認めがたかった。
「死体を教室に置いたのは、この教室の鍵を使える、さっき事務所にいた三人の内の誰か、もしくは、その組み合わせだ」どこかにあるビルの管理会社の、名前の知らない誰かが犯人でない限り、当然、そうなってしまう。
「どうだい?知りたい事は、正吾君に聞けたかな?」
翠天の視線が、開いていた教室の戸に向かった。
タイミング悪く、竹下が中を覗いていた。
「挨拶が遅れました。ぼくが、高校クラス担当の竹下孝介です」と教室に入り、竹下が翠天に言った。相変わらず、見た目とちぐはぐな、気弱そうな話し方だった。
「先生、事務所で話してたんじゃないんですか……?」翠天がいきなり噛みつきでもするのではないかと、正吾は焦って割って入った。
「ん……。ああ、さっき話は終わったよ」竹下が浮かない顔をする。「後でまた連絡入れるけど、とりあえず、今週中は休校って事になった。まぁ、ぼくらは、溜まってる仕事もあるから出勤してるけどね」はは、と浮かない顔のまま笑う。
「わかりました。羽生さんは、あの、俺、問題なく塾の案内できてるんで、こっちは大丈夫です」正吾は無理矢理にでも、竹下を翠天から引き離そうと、その背を押した。
「え?ちょっ、ぼく、お邪魔?」竹下がくすぐったそうにする。似合わないガタイの良さは、運動は苦手でも、ウェイトは見た目通りで、正吾が押してもびくともしなかった。「えっと、ハオさん、だったね。聞きたい事とか、ない?」
「……竹下先生、あなたが昨日、首無し死体を見たとき、窓の鍵は締まっていましたか?」翠天が何の遠慮もなく、質問していた。
ああ、と、肩を落とし、正吾は竹下から離れた。
「え、えっとー……、なるほど、なるほどぉ」戸惑いながらも、竹下はどこかおかしそうだった。「うん。正吾が女の子連れてくるから、おかしいとは思ってたんだよね」堪えきれなかったように、鼻をふふっと鳴らす。「なるほどね、昨日の事件に興味があったのか」
正吾は少しむっとしたが、確かに浅はかな言い訳だった。他に言いようがなかったとはいえ、自分でも、自分がクラスメイトを、それも女子を、塾に勧誘してくるとは思えない。「いや、こいつ、ちょっとおかしくって……」正吾は諦めて、自分の嘘の責任を全て翠天に擦りつけようとした。
「まぁ、そういう年頃ってあるよ。変な事に興味持ったり、首を突っ込みたがったり。……あんまり、いい事とは言えないかもしれないけど」優しい口調で言った竹下を、翠天は射すくめていた。
「……それで、窓の鍵は締まっていたのか?」
翠天の強い視線と言葉に、竹下が息を飲んで、たじろいでいた。
正吾も翠天のその態度を取り繕えず、言葉が出なかった。翠天の整った顔立ちに浮かんだ表情には、少しの不純さもなく、あまりに鋭く竹下を睨みつけていた。まるで小さなメデューサのようだった。
「ま、まいったなぁ……」と、ようやく、竹下が絞りだすように言った。「どうして、そんなこと気にするの?」
「窓が締まっていたなら、この教室に死体を置いた犯人は、戸からしか出入りできなかった。ましてや、ここは3階だ。空を飛べるのでもなければ、普通は扉から出ていく。そして、死体が発見された時、この教室の戸には鍵がかかっていた。犯人がこの教室の鍵を持っていたのでないなら、これは明らかに不可解だ」翠天は早口に捲し立てた。
竹下はその翠天の勢いに、また黙っていた。翠天が更に口を開きかける。「ちょっ、ちょっと待って……」竹下が手を突き出して、翠天を止めた。「わ、わかった。話す。話すよ。……けど、誤解しないで聞いて欲しい」
子供のような翠天に、ガタイのいい竹下が怯んでいる様子は、傍から見ていて異常だった。
手を突き出したまま、しばらく息を整えていた竹下が、青い顔をして重々し気に口を開いた。「実は……、その、これは、警察にも言わなかったから、内緒にしておいて欲しいんだけど、……鍵、……締まってたんだよね」そう言う竹下は気まずそうだった。
竹下が、翠天に射すくめられながら話を続けた。「その、首無し死体を見た時さ、窓の鍵、締まってるの、ぼく、見ちゃって。その後、色々慌ててたから、見間違いかなって、思ってたんだけど、……どうも、塾長も、鍵締まってるの見ちゃってたみたいでさ」翠天の視線に耐えきれなくなったようで、竹下は目を逸らした。「……塾長も、警察にはその事、言わなかったらしいんだけど、……多分、警察も気づいてるんだろうな」
「あの、それじゃあ……」それでは、密室になってしまう。翠天の言うように、犯人が戸の鍵を持っていたのでなければ。
「いや、わかるよ!けど、違うんだ!」竹下が正吾を見て、弁明する。「犯人は、ぼくでも、塾長でも、るみさんでもない。ぼくは、昨日、塾に来たときと、事務所から一度、トイレに立ったとき、教室の戸が開いてるのを見てる。トイレから戻ったとき、教室の中には死体なんて無かった。それからずっと事務所にいたけど、塾長も、るみさんも、事務所から一度も出ていない。誰も、死体を教室に置いたり、できなかった」
その言葉に、翠天が何かを言おうとするのを、「羽生さん!」と正吾は止めた。見ていられなかった。
「……ちょっと、どうなるかわからないけど、もしかしたら、ぼくや塾長、るみさんは、近いうちに警察から任意同行なり、求められるかもしれない。……さっきまで事務所で話してたのも、その事だったんだ」竹下が続けていた。
確かに、事務所の様子は、休校を決めるだけにしては深刻そうだった。
「そうなったら、授業どころじゃないからね……」竹下が深い溜息を吐いた。
「塾長には黙っておくから、事件の事、調べるのは程々にね……。あと、事件のせいで変な感じになっちゃってるけど、普段はいいところだから、入塾の件、本当に考えてみてよ」そう言って、竹下は教室を後にした。
「彼の釈明は聞くに値しない」翠天がそう言ったのは、竹下が事務所に戻った扉の音が聞こえてすぐだった。「彼自身が犯人なら、彼が何も無い教室を見たという証言は何の意味もなさないし、三人が共犯関係にあれば、お互いを庇うのは当然だ」
「流石、クラスで一番の嫌われ者」
正吾を見た翠天は、まだ小さなメデューサだったが、耐性がついているおかげで、正吾は石にならずに済んだ。
「何か反論はあるか?」
正吾も翠天の言った事には気づいていて、それをずっと考えていた。「……例えばだけど、三人の内の誰か、もしくは三人が犯人だった場合、死体をどうやって消したの?」これは、盤外戦術に近かった。死体を出現させた犯人と、死体を消した犯人が同一である必要はない。もし、翠天がこの事に筋の通った説明ができなかったとしても、竹下たちが教室に死体を置いた犯人である事の否定にはならない。
しかし、翠天は顎に手をやり、考え込んだようだった。
正吾はそれを待つ間、困憊して、机に腰かけた。
しばらくして、翠天が口を開く。「やはり共犯だ。少なくとも、塾長の九門と竹下は共犯だと思う」
「どうして?」
「階段を降りてビルを出るとき、九門が列の一番最後になった。九門は、最後までこの3階に残ったんだ。唯一、死体をどうにかできる。そして、九門を列の最後尾に指定したのは竹下だ」
今度は正吾が考える番だった。「……俺たち、……えっと、俺と健斗は、ビルを出る時、2階で塾長が降りてくるのを待ってた。確かに塾長は、少し列から遅れていたけど、大して遅れていた訳じゃないし、それは多分、体形のせいだ。死体を消す時間なんて無かったと思うよ」
それを聞き、また翠天が考え込む。「窓から死体を落としたんだ。それなら大して時間はかからない」
「それから、窓の鍵を締めて列に戻った、と」正吾は嫌味っぽく言った。
「窓の鍵は締まっていたと、さっき竹下が言っていたじゃないか!」
「竹下先生の釈明が聞くに値しないなら、その話はおかしいよ。そんな話をしたから、竹下先生はわざわざ下手な釈明をしなきゃならなかったんだから。もし竹下先生が犯人、もしくは犯人と共犯関係にあったのなら、そもそもそんな話はしない。自分の首を締めるだけだもん。やっぱり、先生たちは犯人じゃないよ」
「警察も気づいているだろうとぼやいていた。どうせばれると思って口にしただけだ」
「死体を消すために教室に入った人物が、後から窓の鍵を締めた。そう考えれば、別に戸に鍵が掛かっていたって密室なんかじゃない。多分、窓の鍵がかかっていたって言うのは、先生たちの見間違いだったんだよ」
「わたしの説明に何の不満があるんだ!」ムキになって翠天が声を荒げた。
「窓の下を見てみよう。多分、死体を下に落としたかどうかはわかるよ」
ほとんど翠天の揚げ足をとって、怒らせただけだったが、それには根拠があった。
翠天は鼻息荒く、正吾を睨んでいたが、やがて正吾を背にし、窓へ向かった。正吾も机から降り、一緒に窓に向かう。
窓を開け、二人で下を見下ろした。教室から真下、隣のビルとの狭い空間に、駐輪場の屋根が見えていた。雨除け程度の薄いプラスチック製の屋根の上は、土埃が溜まっていて、うっすら茶色くなっている。
それを見て、翠天はつまらなそうな顔をした。正吾が何も説明しなくても伝わったようだった。
3階の高さから死体を落とせば、駐輪場の屋根は簡単に壊れただろうし、もし壊れなかったとしても、土埃の上に跡を残したはずだ。駐輪場の屋根には、そんな痕跡は残っていなかった。
そんなものがあったなら、警察がとっくに気づいて、正吾たちの耳にも入っていただろう。
「大体、死体を下に落としてどうするのさ?死体は見つからなかったんだ。死体を落とした後、誰がどこへ持って行ったの?ビルから出た後は、塾長も竹下先生も、るみさんも、みんな常に誰かと一緒だった。ビルの周りには人だかりができていたから、駐輪場に死体があったとしても、誰もそこから運び出す事ができない」
正吾が言い終わっても、翠天は駐輪場の屋根を見つめて動かなかった。ややあって翠天は、下ではなく、窓から上を見上げていた。
正吾は窓から離れ、手近な机に凭れかかった。
空を見飽きたのか、翠天が振り返る。死体を窓から落としたという考えは捨てたようだったが、特にめげた様子はない。「……なら上だ」翠天がきっぱりと言った。「何か仕掛けがしてあって、死体を簡単に上に引き上げられるようにしていたんだ」
「例えば、……どんな?」正吾は仕掛けの方法を聞いた。
「先が輪になったロープを上からあらかじめぶらさげておいて、そこに死体の胴を通して、腕をかける。細かい仕組みはどうでもいいが、一定の重さがかかるとロープは引き上げられるようにしてあって、死体をロープにかけた後は、下に落とすのと同様、窓から落とせばよかった」
「……死体が見つかった時、窓のカーテンは開いていた。外にロープなんてぶらさがってなかったよ」
「ロープ自体は窓のへりの上にあっていい。ロープの先端から細いテグスのような物を垂らしておいたんだ。それを手繰ればロープを降ろせる。離れていれば、細くて気づかれる事もない」
そんな仕掛けがあったなんて、正吾には正直、荒唐無稽に思えた。しかし、説明しなければならない事象がそもそも荒唐無稽だ。付き合うしかないと、正吾は少し考えた。
「羽生さんの言うような仕掛けがあったとして、じゃあ、上の階にいたカルチャースクールの職員か、そのときビルにいなかった美術教室の職員も、死体を消した共犯者ってこと?話してあったけど、上のテナントは、この塾が借りてる訳じゃないから、塾長や竹下先生にそんな仕掛けを用意する自由は無いよ」
「ちがう。もっと上に用意すればいい」
「もっと上?」
「屋上だ。ロープの仕掛けを屋上に作っておく。死体はロープで巻き取られて、屋上に上がったんだ。警察はビルの内部や周辺はくまなく探したかもしれないが、屋上は探さなかった。死体は見つからない」
「上のテナントの窓から、垂らされたロープが見えたはずだ。やっぱり、カルチャースクールと、美術教室の職員も共犯だったことになる。大がかりすぎるよ」
「テグスを手繰る方式なら、何の問題もない。別にロープの先端が窓のへりのすぐ上にある必要はないんだ。屋上にあってもいい」
自信ありげな翠天を前に、正吾はまた少し考えなければならなかった。「……死体はその後、どこへ?まだ屋上?」
翠天が残念そうに首を横に振るう。「いや、それはないだろうな。警察がいなくなったのを見計らって、既にどこか別に場所に移しているはずだ」
「うん……。逆に言えば、警察がいた間、死体は屋上から運べなかった」
「……何が言いたい?」翠天が、これ以上言いたい事があるか?と眉根を寄せる。
「隣のビルを見てよ。それから、通りの向かいにあるビルなんかもだけど。このビルの周りには、このビルより高いビルがいくらでもある。他のビルの上の階の窓から見たら、このビルの屋上なんて丸見えだ。あの日、このビルの周りには人だかりができて、車道にまで溢れる程だった。それだけ注目されてたんだから、警察がこのビルにいた間に、窓からこのビルの屋上を見下ろした人だって絶対いたと思うよ。もし、屋上に死体があったのなら、例え警察が屋上を探していなかったとしても、絶対に誰かが見つけていたはずだ」
翠天はそれを聞いて、睨みもせず、喚きもせず、噛みつきもしなかった。静かに瞳を丸くし、口を閉じて、俯いた。自分の考えと正吾の発言を、合わせて咀嚼しているようだった。
再び翠天が顔を上げた時も、その面持ちは冷静なままだった。正吾はそれなりに翠天をやりこめたつもりでいたので、かなりタフな相手に思えた。
「死体を巻き取った装置に、死体を隠す機能があったというのは駄目だろうか?」正吾が答えるまでもなく、翠天は既にその可能性を検討し、破棄している口調だった。
「ダメだろうね。やっぱり、屋上にそんな奇妙な装置があった時点で、誰かが怪しんでると思う」
「そうか」翠天は一応の確認だけして、また新しく考えはじめたようだった。
翠天とのこの長いやりとりがゲームだとすると、正吾はもうゲームの攻略法に気づき始めていた。このゲームは非対称だった。翠天側のルールに正吾が従う必要はない。正吾は最初から、必殺のカードを手にしていた。
「羽生さんさ、一つ忘れてることがあるよ」正吾は口にした。
「なんだ?」翠天の澄んだ瞳は、諦めるという言葉を知らないようだった。
「死体が発見される直前、小春が教室の中から人の声がしたのを聞いている。……犯人は、戸が開かれる直前まで、教室の中にいたんだ」
「それは……、きみも半信半疑だったと言ったじゃないか」翠天の顔が徐々に紅潮していく。
「うん。死体が発見される前まではね。……首無し死体が教室で見つかる。そんな異常の後なら、小春の言った事は検討してみる価値がある。俺も、中で何か物音がしたのを聞いた気はするしね」
「そんな……、きみは、自分の身内が危うくなったら、ころころと自分の主張を変えるのか?」
「別に、そういう訳じゃない。俺も、羽生さんと同じで事実を一つ見落として、間違った事を主張していただけだ。だから俺は主張を訂正するよ」翠天の顔がますます赤くなっていった。これを言ったら、翠天の顔は爆発するんじゃないかと、正吾は少し不安になった。「首無し死体が発見された時、教室は密室だった。完全無欠の一部の隙も無い密室だ。そしてその中にいた犯人は、その密室から消え去った。俺たちが誰も知らない魔法を使ってね」
正吾は初めから、翠天のように謎を解く意思を持っていなかった。だから、このゲームに勝つには、ただ、この謎は絶対に解けないのだと主張するだけで充分だった。
翠天の顔色が元に戻るまで、かなりの時間が必要だった。
翠天は細い顎に手をあて、下を向いて、教室内をうろうろと歩き回った。
何を考えているのか知らなかったが、もし、小春の証言を事実として採用するのなら、そんな謎は解けるはずがなかった。
翠天にとって言わば最大の容疑者であった九門、竹下、るみは、犯人が教室内にいた時、三人とも事務所にいたのだ。
九門や竹下たちが持っている教室の鍵が使えなければ、教室の戸は内側からかけるしかない。そして窓のクレセント錠も、外からかける事はできないのだから、当然、犯人は窓から出ていく事はできず、正吾や小春が戸が閉じられた教室の前に立った時、まだ教室の中にいたことになる。にも拘らず、正吾が九門を呼び、教室の鍵を開けると、そこには首無し死体しかなく、中から出ることができなかった筈の犯人の姿は、教室には無かったのだ。
そんなこと、ありうるはずがない。恐らく、観察された事実の何かが間違っていたのだろう。翠天に対して卑怯にも感じたが、やはり、竹下や九門の証言、それに小春の証言が怪しいと正吾には思えた。窓の鍵が締まっていた、という証言か、中から人の声がした、という証言か。どちらかが間違っているのか、どちらも間違っているのか。何にせよ、どちらも事実である方が、正吾には好都合だった。例えそれで、解決不可能な謎が残ったとしても。
「わかった。犯人は教室の中にいた。鍵はやはり、竹下か九門が外からかけたんだ」
「……何言ってるの羽生さん?教室の戸を開いた時、犯人はどこにもいなかったし、この教室には隠れられる場所もないでしょ?大体、犯人が中にいたんだったら、塾長たちが、外から鍵をかける必要がない」
呆れて正吾は答えた。九門・竹下犯人説に固執し過ぎて、翠天は完全に論理破綻を起こしていた。
「じゃ、じゃあ、小春が聞いたという人の声はテープに録音した音声で、鍵はやはり、竹下か九門が……」
今どきテープなんて録音に使わない、という指摘はあえてせず、翠天の言葉を遮る。「録音した音源を聞かせて、中に人がいたと思わせる。実際の犯人だった先生たちは、事務所にいてアリバイを作り、その後、死体と共に音声を再生した機器を回収した」
「そ、そうだ。何かおかしいか……?」
「羽生さん、考えてみて。そこまでして、先生たちは何を得るの?そんなことをするなら、最初から鍵なんかかけなければいいし、もっと言えば死体だって教室に置いたりする必要はない」
「た、例えば……、死体は教室に置きたくて置いたんじゃないんだ。何か事情があって、一時的に死体をここに置くしかなかった。その発見を遅らせるために鍵をかけていた……」
「人の声を再生する機械を仕込む余裕はあったのに?俺なら、そんな小細工する時間で、死体をもっとマシな場所に隠すよ」
そう言いながら、マシな場所とはどこか、正吾は考えた。事務所にいた三人が全員共犯関係にあれば、事務所に隠すことができるが、誰か一人でも共犯でない者がいた場合、それは成立しない。ほとんど誰も使用することがない2階の教室か、物置だろうか?どちらにせよ、仕方なく死体が教室にあるという状況が不可解だ。
そこまで考えて、突然、正吾の中に妙な閃きが起こった。
今までの議論は全て、誰がどうやって死体を教室に出現させ、そしてどのように消し去ったかに終始していた。
そもそも、誰が誰を殺したのだろう?
首が切られていたから首切り殺人だと、正吾たちは考えていた。それすら間違っている可能性もあるが、もし死体が殺人による被害者のものだとしたら、死体を教室のような目立つ場所に置きたがるのは誰だろうか?
教室には血痕はなく、死体はどこからか運び込まれてきたものだ。
殺人を犯した犯人が死体を教室に置いたのか?
健斗は首切り魔が目撃者である正吾へ、警告のために置いたのではないか、と口にした。
それはリスクと見合う行為には思えなかった。
犯人が正吾と、その生活圏、行動を把握して教室に死体を置いたのなら、その労力をもって、正吾を殺してしまえばいい。
儀代市の首切り魔は、日本の連続殺人件数を軽く更新し続けている。今更、人一人殺すことに躊躇いはないだろうし、そもそも、正吾は警告されるような犯人に関する情報を何一つ持っていない。
首無し死体を教室に置いたのは、殺人犯ではない。
殺人犯ではない誰かが、何かのために、教室に死体を置いたのだ。
……それは、……それは?
目撃者である正吾ではなく、犯人に対する警告?
犯人、もしかすると、首切り魔は、図南学習塾の関係者……?
……ウゴ!、おい!……、「……三上正吾!」
机の上に寝そべっていた正吾の上に、翠天の顔があった。
疲れていたのか、ほんの短い間、眠っていた気がする。シャツがじっとりと汗ばんでいた。まるで、いつからか見なくなった夢、悪夢を見ていたかのようだった。
「……羽生さん、その、人のこと、フルネームで呼びかける癖、ちょっと変だね」
いつから正吾に呼びかけていたのか、翠天は憮然とした表情だった。「……そうか?わたしとしては、丁寧に呼んでいるつもりなんだが、おかしいか?」
「おかしいよ」
「……なら、何と呼べばいい」
「えっと……、まぁ、正吾でいいよ。呼ばれ慣れてるし」
「わかった。じゃあ、わたしのことも翠天でいい」
「え……?ホントに?」
「なぜそんな変な顔をする……?」
「いや、……だって」
「わたしも、その方が呼ばれ慣れている」
「……誰から?」
「兄だ」
「あー」うっかり、納得した声をあげてしまう。翠天の後をつけた事はばれていたが、郵便受けを確認したことまでばれているかはまだわからなかった。恐らく、兄というのは、翡典という翠天と一緒に暮らしている人物の事だろう。
翠天の不審げな視線が返ってくる。「そんなことより、起きてくれ」
言われて正吾は机から身を起こした。「……いいけど、えっと、まだこんな探偵小説の真似事みたいな事続けるの?」
「言い方が古臭いな。今はミステリと言う」
「いや、どっちでもいいけど……、そういうの好きなの?」
「わたしじゃない。兄が好きなんだ」
「へぇ……」
正吾が目を覚ますまでの間に、翠天は完全に元の調子を取り戻したようだった。
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