2. -夜を飛ぶ鳥 5
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図南学習塾から少し離れた所にあるパンチ亭は、元々は拳々軒と言った。
正吾が中学に上がる頃に代替わりして、外装をリニューアルし、名前を改め、メニューも中華そば屋のものから洋食へと切り替わった。正吾はその頃からの常連だったが、日に日にメニューから洋食は消えていき、今は完全に元の中華そば屋へと戻っている。
メニューから洋食が消えるごとに口数を少なくしていった店主が、メニューに唯一残った洋食であるオムライスを、正吾の前に座る愛空に運んできた。メニューからオムライスが消えた時、正吾の父と店主と、どちらの方が寡黙なのか、正吾は多少興味を持っていたが、これで、その日が訪れるのは少し遠のいたのかもしれない。
「私、ここのオムライス、好きですよ」
今日のめあは私服で、ベージュのシャツに、茶色い落ち着いた色のジャンパースカートを合わせていた。翠天とは比べるまでもないが、小春や同年代の女子と比べてもふくよかなめあの体つきや、おっとりとした顔によく似合っている。眼鏡は外し、コンタクトをつけているようだった。
「冷めちゃうから、先に食べててよ」と正吾は言った。
「いえ。待ちますよ」と言って、めあはオムライスに手をつけない。
店の入口付近の天井に据え付けられたTVでは、めあが店に来る前に始まった首切り事件の特番が続いていた。
これまでに見つかった首無し死体は計十七体。一昨日や昨日の事件も首切り魔による犯行で、死体がそれぞれ別人物だったとすると、被害者は半年の間に、十九人にも昇っている。
番組では、スタジオのフリップやVTRによって、それらの被害者や、死体が発見された状況、関連する情報を時系列順でおさらいしていた。
①男性(39) 広島県内某山中の展望台に停めた被害者所有の車中にて遺体を発見。発見時、死後既に7日以上経過していた。遺体の損傷は激しく、全身に創傷がみられた。直接の死因は胸部へのナイフ等での刺し傷による、失血及び心肺停止とみられ、それ以外の傷は死後つけられたものと断定された。喉仏の下辺りから、首を切断されており、頭部は現場から発見されなかった。
②男性(25) 広島県内某湖畔公園内遊歩道にて遺体を発見。遺体発見前日の夜半に殺害されたものと思われる。一件目の被害男性と同様に、全身に創傷がみられ、死因は背中側からのナイフによる刺し傷が原因の失血死によるもの。全身の創傷は死後つけられ、これも一件目の被害男性と同様、喉仏の下辺りから、首を切断され、頭部は見つかっていない。殺害現場は、遺体発見現場から少し離れた公園内駐車場に停められた被害者所有の車内と思われる。
③女性(45) 広島県内某市外竹林内にて遺体を発見。遺体発見時、死後10日以上が経過していた。根元から首が切断され、頭部は発見されず。それ以外に、目立った外傷はなく、絞殺による縊死とみられる。
Ex.1 広島県内某市外にて男性のものと見られる大量の血痕が発見される。出血の量から、男性は既に死亡したか、病院に運ばれたものと思われるが、該当する人物は発見されていない。
④男性(32) 広島県内某市外公園内にて遺体を発見。遺体発見前日夜半に殺害されたものと見られ、死因は頚部切断による出血の心肺停止とみられる。目立った外傷は他になく、頭部は現場から発見されていない。
ここまでの事件では、当初の報道で、被害者名が公表されていたが、事件が重大事件として扱われるようになり、社会への影響を鑑み、警察によって情報公開が制限された。番組内では、公開制限後に合わせ、被害者名を秘匿した旨が伝えられ、一旦、VTRからスタジオへ移り、出演者たちの短いトークを挟んで、またVTRが始まった。
Ex.2 広島県内某市外にて男性のものと見られる大量の血痕が発見される。この件でも、出血量から男性は既に死亡しているか、病院に運ばれているものとみられたが、該当する人物は発見されていない。
⑤女性(27) 広島県内某河川にて、浮かんでいた遺体を発見。上流付近の歩道で血痕が見つかったため、捜索がなされ、発見された。恐らく発見を遅らせるために、死体を川に投げ入れたものと思われる。首を根元から切断されており、それ以外の目立った外傷は無い。死因は頚部切断時のショック死とみられている。
それからは、まるで同じ事件の再放送のようだった。事件は8件目で、初めて儀代市市内で発生し、十件目以降、全て市内で続いている。遺体は全て、夜間は人気のない場所で発見されており、被害者同士の関連は皆無、男女比や年齢は多少の偏りはあるものの、ほとんどバラバラな無差別殺人であった。
スタジオ内では、元刑事という肩書の高齢の男性と、犯罪専門家を名乗る大学教授が、公共の放送に乗せられるぎりぎりの品性を保って、単独犯による犯行なのか、組織的な犯行なのか、と、事件を云々弄んでいた。
正吾はやっと何の特徴もない中華そばである拳々麺を口にし、めあも、少し冷めたオムライスを食べ始めた。
「事件のペースは早まっていますよね」TVはめあの背後にあったが、ずっと聞き耳を立てていたようだった。
めあの言うとおり、事件のペースは早まっている。最初の数件の段階では一ヶ月単位の間隔をもって遺体は発見されていたが、徐々に週単位になり、昨日一昨日も同じ事件として扱って良いのなら、二日連続ということになる。
儀代市市内で遺体が発見されるようになってからは、明らかに犯人は大胆になっていた。
「その内、捕まるよ」どんなに慎重な犯人でも、これだけ犯行を繰り返せば必ず何かミスをする。いや、既にもう何かミスを犯しているだろう。これまで犯行を目撃された事の無かった犯人が、一昨日の晩、正吾に目撃された事もミスと言えるかもしれない。一向に解決しない事件に、情報公開の制限による不透明な捜査状況と、警察はかなり批判を浴びていたが、必ず何かしら捜査は進展しているはずで、首切り魔が捕まるのも時間の問題に正吾には思えた。
オムライスを食べるめあの手が止まる。「……昨日の事、どう思いますか?突然、死体が現れたり、それが煙のように消えてしまったり。私、何だか、ずっともやもやしちゃって……。こんな事、小春には話せないし」
確かに、殺人事件と小春とでは、アメリカンニューシネマとボリウッドのダンスコメディくらい世界観が違う。
話相手として、小春が適任でない以上、その恋人である健斗と会うのも難しくなり、消去法で残ったのが正吾だったのだろう。
めあは小春のいない場面で、塾以外での集まりに顔を出す事は無かったので、正吾はめあと二人になるのはこれが初めてだった。
「……今日は何だか、ずっと事件の話してて疲れたよ」
ビルの前で翠天と別れた後、めあから『今、何していますか?』と前例の無い個人メッセージを受け取った時点で妙だとは思っていた。正吾は少し早かったがこのまま夕食にしようと思っていたので、何も考えずに『パンチ亭に行くところ』と答え、めあからすぐに『近くにいるので、ご一緒してもいいですか?』と返信があった。もしかして、また事件の話になるのではないか、と正吾は察したが、うまい断りの文句は思いつかなかった。いつもより多く胡椒をかけた筈なのに、拳々麺は薄味だった。
「また警察に事情聴取されてたんですか?」正吾の言葉にめあが尋ねた。
「ううん。もっと厄介な相手」
めあが首を傾げる。「……マスコミですか?」
警察の情報制限のおかげか、正吾が未成年だからか、まだ正吾に接触してくる報道関係者はいなかった。これは幸いだったが、翠天の相手とどっちの方が楽だったか考えると、翠天よりはマシな相手だったかもしれない。「ううん……。多分、もっと厄介な相手」
めあはまだ首を傾げたままだ。「ちょっと想像つきません」
「角が生えている」
めあが吹き出していた。「人間じゃないんですか?」
「多分ね」正吾も少しおもしろかった。「……ごめん、わざわざ会ったのに、事件の話したい気分じゃなくって」
「いえ、いいんです。私の方こそ、無理矢理押しかけちゃって……。多分、一人でいたくなくって、誰かと会いたいだけだったんだと思います。今は少し、もやもやが落ち着きました」
「……小春と健斗も呼ぶ?」今から急に呼び出して、二人が出てきてくれるかどうかはわからなかったが、どうせならいてくれる方が助かった。めあと二人でいるのは、多少緊張した。
「二人を待ってたら、冷めちゃいます」と、めあは笑みを浮かべ食事を再開した。
正吾も麺を啜る。少し冷たかったかもしれない、と軽い後悔があった。
めあとの共通の話題は塾での事以外に無い。めあとは、健斗や小春と違い、小学校中学校も違ったし、趣味の話もした事が無かった。
最も無難だった事件の話も、自ら潰してしまい、正吾は何を言えばいいか、途方に暮れながら、拳々麺を食べ進めた。
TVでは事件の特番が続いている。
犯人の目的は何なのか、初期の犯行ではなぜ遺体を更に傷つけていたのか、そして、なぜ頭部を持ち去るのか、と、犯人の心理分析が行われていた。
犯人は社会的な弱者で、何か大きな憎しみを抱いていた。初期に遺体を傷つけていたのはそのためだろう。犯行がうまくいき、満足を覚えた犯人は、自分を超越的な存在ととらえるようになり、スリルと、よりスマートな殺人を犯行の目的としだした。頭部は自らの犯行のトロフィーとして持ち帰っているのではないか。……等々、犯罪専門家を名乗った教授が並びたてている。
例えそれが真実であったとして、その分析に何の価値があるのか、正吾にはいまいちわからなかった。問題は犯人の内部にあるのではなく、その行動にある。心というのは無力で、常に肉体の物理的な動作を介してのみ、この世界に影響を与えうる。確保して、その行動を制限する以上の問題解決はない。
いや、この番組は別に問題解決を目的としている訳ではない。
自分が何を履き違えているのかを理解した。
別に誰も、問題を解決しようなどと思っていないのだ。
「あ」
正吾の声に、めあが口に頬張っていたものを飲み込む。「……どうしました?」話題が無く、気まずい思いをしていたのはめあも同じようだった。
「いや、これ」
正吾はズボンの後ろのポケットに入れていたポラロイド写真を思い出し、テーブルの上に置いた。
めあは最初、場違いな物を目にしたように、それが何だかわからないようだった。ややあって、ピントが合ったのか、「……お別れ会の写真。懐かしいですね」と口にした。
「2階の教室に落ちててさ。つい、拾っちゃった」
「え?今日は休校だったのでは?」
何日もポケットに入れっぱなしになっていた訳でもあるまいし、それは当然の疑問に思えた。探偵小説ごっこをしていたなどとは言えないので、「クラスメイトで、うちに興味あるって奴がいたから案内してたんだよ」と、九門にしたのと同じ嘘を吐いた。
「……んー。もしかして、その方、角が生えてたりします?」ケレン味のある仕草でめあが言った。
名推理だった。
「流石」
「どういうことか、やっとわかりました。角って、どう生えてるんです?」
言われて、正吾は両手を自分の頭の上に立てた。翠天の髪型を再現するには、手ではボリュームが足りなかったが、めあはおかしそうだった。「そんなの、うちの学校じゃ絶対無理ですね」と笑う。
めあや健斗の通う喜宗館高校は、志丹北高校と比べて偏差値も高く、校則も厳しい。この地域では、そこそこ頭の良い学生が通う高校だ。健斗は、中学まで正吾と大して変わらない成績か、正吾より悪いぐらいだったが、原付通学を目当てに奮闘して喜宗館に入った。中学時代、髪を染めたがっていたが、原付の魅力の方が勝ったのだろう。志丹北高校には翠天ほど目立つ髪型の生徒は流石にいないが、髪を染めている生徒は多かった。
「それに、首輪もしてるよ」説明するのに正吾は首に輪を巻く仕草をした。少し、首を切る仕草にも似ている。
「首輪?」
「そう。チョーカー?」
「ああ。すごいですね。うちの先生が見たら、卒倒しそうです」
「きっと石になるよ」
めあは異次元の話でも聞いているように、またおかしそうにする。「私も会ってみたいです。その子、小春も知ってる子なんですか?」
話がウケて、正吾はつい調子に乗っていた。一瞬で血の気が引いている。確かに、小春も志丹北高校の生徒なので、これだけエキセントリックな生徒がいたら、知っていると思うだろう。もし、こんな話をした事が小春の耳に入ったら、また妙な冷やかしを食らうに決まっていた。それに、小春経由で翠天の耳にまで入る可能性がある。「……いや、これは、ここだけの話にして」
「え?……嘘だったんですか?」と、冗談めかしてめあが怒る振りをする。
「えーっと、嘘じゃないんだけど……。俺が石にされかねないから……」
「わかりました。色々とフクザツなんですね」ふふ、と吹き出して、めあの顔が笑顔に戻った。
いつの間にか、気まずさは軽減されていた。
話題になってくれた翠天に多少、心の中で感謝している。こんな事、後にも先にも無いかもしれない。
正吾は、そもそもの会話の発端になったポラロイド写真に目を移し、めあにずっと聞きたかった事を口にした。「めあは……、そろそろ、他の塾に移るの?」
大学受験を目指すなら、めあの学力では図南の指導は既に物足りないだろう。まだ高校の2年度が始まったばかりだが、進学に向けて動くのに、決して早い時期とは言えない。
「いや、その。……うーん。……どうでしょう。実は迷ってるところなんです……」
やっぱりな、と正吾は思った。現在、図南学習塾の高校クラスには3年生がいない。正吾たちの一つ上の学年の生徒は皆、去年の夏頃には図南学習塾を辞めて、他に移っていた。正吾は進学に興味が無かったため、このまま高校卒業まで、図南にいるつもりだったが、健斗でさえ、その内、余所に移るのではないかと思っている。健斗の家は、通学に必要ならと、ぽんと原付を買い与える位には裕福な家庭だ。原付目当てだったとはいえ、健斗は喜宗館高校に入れる学力もある。親は欲目を感じるだろう。流石に小春は残ると思いたかったが、健斗がいなくなった後、小春と自分が二人で図南に通っているところを正吾は想像できなかった。
「めあは成績いいし、その方がいいよ」心にも無い事を正吾は言った。しかし、その方がいい事も確かだった。
「図南は雰囲気もいいし、楽しいから、私、好きなんですよ。辞めたら小春とも会えなくなるし」
正吾たちと違い、中学から図南に入ってきためあと、最初に打ち解けたのが小春だった。女子同士だったのもあるだろうが、小春の性格故だろう。図南学習塾の人間関係は大体、小春を中心に回っている。
「小春なら、そんな事ないんじゃない。もうどこか、候補は決めてるの?」
「ええ……。まぁ」めあは、少し気まずそうにはにかんだ。
「小春も誘ったら?馬鹿だから、今の内から勉強させた方がいいよ」また心にも無い事を言ってしまう。
「それはひどいです」と、手を口にやってめあが吹き出す。「図南でも、ちゃんと勉強はできるし、小春はそこまで馬鹿じゃないですよ」
「そこまで?」
「……失言でした。忘れてください。小春は馬鹿じゃないです」
二人でくすくす笑っている。話題は暗かったが、今までこうして二人きりで話した事がなかったのが嘘だと思えるくらい、今日はめあと馬が合った。もしかしたら、自分で思っていたより、元々、めあと相性が良かったのかもしれない。恐らく近い内に会う事も無くなるのが、少し寂しく思えた。
「……そうだ。
「え……?」
めあの弟のゆうきは、写真の中では、端の方で正吾と一緒に写っていた。
にこりとめあが笑みをつくる。「……知ってましたか?私、元々、あの子の付き添いで図南に入ったんですよ」
「そうなの?」
「はい。あの子、引っ込み思案で人見知りするから。私がいないと、どこにも行けなくって」
「なるほどね」それは実にゆうきらしかった。ゆうきは入塾当初、学校を休みがちで、授業にもついていけなくなっていたと聞いている。最初は図南学習塾へも休みがちだったが、時間が経つにつれ、不思議と、嫌がらずに通うようになっていった。あまり活発な人間ではない正吾とは気が合ったのか、自惚れでなければ正吾はゆうきから懐かれていて、レクリエーションではよく一緒に遊んだのを覚えている。成績の良いめあがなぜ図南にいるのかという、長年の疑問もこれで氷解した。「ゆうきって、来年で中1でしょ?どうするの……?」
「……どう、とは?」正吾が言いたい事は伝わらなかったようで、めあは不思議そうにした。
「いや、……小学生クラスは無くなったけど、中学生クラスはまだかろうじてあるからさ」
「うーん……。どうでしょうね。本人次第なので」
「そっか。まぁ、そうだよね」
それ以上は、正吾も言わず、話題は他の他愛もないものへ、流れるように移っていった。
TVでは首切り魔事件の特番がようやく終わり、平和なバラエティが始まっていた。正吾はめあと、その番組の事でも、盛り上がる事ができた。平和なバラエティは、平和であるが故に、ひどくつまらなかった。
「じゃあ、また来週」
「そうですね。また来週」
今週は図南学習塾が休校になったので、そう挨拶して正吾たちは別れた。本当に来週、めあが図南に来るか、正吾にはわからなかった。すっかり暗くなった通りを、膨らんだ淡いピンクのバッグを肩にかけて、めあが歩いていった。
二日ぶりに通った塾からの帰り道で、その男が目の前に現れた時、正吾の頭の中で、警報が大音量で鳴り響いた。
薄暗い路地の先に立ったその男は、長袖のTシャツにジーンズを履き、両手に軍手をつけて、顔はサングラスとマスクで隠していた。首には、もう夏も近いというのにマフラーを巻いている。
ゆっくりとした足取りは、どこか虚ろで、しかし、確実に正吾に向かって進んでいた。
右手に、金属バットを持っている。
足を止めて考えている場合では無かった。
正吾は振り返り、走り出し、すぐにまた足を止めた。
あの日のように、街灯の下に、レインコートの人影が立っていた。深く被ったフードの下に、ゴーグルと作業用のマスク。右手には大きなサバイバルナイフ。
チェーンソーではなく、ナイフを持っているのは、より強い殺意の現れに見えた。
作業のように殺害と同時に首を刎ねる合理性より、正吾を確実に殺害する事を優先している。
正吾は、大学教授による犯人の心理分析を斜に構えて馬鹿にした事を後悔した。
心は、身体の動作を通して世界に影響を与える。心が、行動を起こさせる。
犯人は、自らを超越者だと思っている。
正吾は何ら捜査に有効な情報を取得していなかったが、犯人には関係がなかった。
目撃されたという、そのミスそのものが、消し去るべき汚点だった。
夜道は危ない。もっと自分の行動に気をつけるべきだった。
振り向くと、バットを持った男は更に距離を詰めてきている。
細い路地で前後を挟まれ、正吾はどちらに逃げるべきか迷った。正しい選択など、この世にはなく、たくさんの間違いの中から、よりマシな間違いを選ぶしかない事を正吾は知っていたが、どちらがマシな間違いなのか、判断するにはあまりに時間が無さそうだった。
バットはリーチが長く、ナイフは致命傷に至る可能性が高い。
汗をかき、呼吸が乱れ、体が震えた。
正吾は、レインコートの人影に怖気づいていた。
走り出したのは、バットを持った男の方へだった。
走っているつもりだったのに、体は重く、視界がぶれて、時が止まりそうだった。
男がバットを振り被る。
バットを避けようとして、よろけて、電信柱にぶつかった。天地がわからなくなるまで、転げまわった。
顔を上げると、自分がどこにいるかもわからなかった。
バットの男を探す。レインコートの人影を探す。
星の無い空を大きな鳥が飛んでいる。
いきなり、目の前に振り下ろされたバットが迫った。正吾は頭を抱えて、丸くなった。
「立って!逃げて!」
咄嗟に動いたお陰で、衝撃はこなかった。体が震えて強張って、それ以上動けなくなる。
「誰か!誰か来てくれ!」
さっきから誰かが叫んでいる。
「危ない!」
男の声だ。
正吾はその声で、泣きながら這い進み、顔を上げた。レインコートの人影が、すぐそこまで来ている。
冷たく硬い金属の刃が、自分の柔らかい体を刺し貫こうとしている。デリケートな内部のメカニズムを破損させ、血を流させ、この世界にいる事を終了させようとしている。
「立つんだ!逃げるんだ!」
叫び声が近づく。
慎重だったレインコートの人影の足が、急に早まり、走り出す。
「早く!早く起きて!」
正吾も叫び、立ち上がった。ふらついた体のすぐ横を、突き出されたナイフが掠めた。レインコートの人影を突き飛ばし、振り返った。
少し離れた所に立つバットの男の周りを、おかしな鳥が飛び回っていた。
尾が無く、歪な球形の体をして、大きい。今までに見たどんな鳥とも違っている。
バットを振り回し、鳥を追い払おうとする男の頭に、鳥がぶつかり、地に落ちた。
男のサングラスも弾かれ、落ちる。
その下にあったのは、どこかで見覚えがある目だった。
「走れ!走るんだ!」
地に落ちた鳥が叫んでいた。鳥には顔があった。顔しかない。人の顔だ。翼の生えた人の頭部。
街灯の光を浴びたその毛には、不思議な光沢があった。
「早く!」
翼の生えた頭が叫ぶ。
翼を動かし、舞い上がり、ふらふらと夜空に消えていく。
正吾は混乱しながら、走り、バットを持った男の傍を駆け抜けて、その後は家に着くまで一度も振り返らなかった。
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