2. -夜を飛ぶ鳥 1
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正吾は夜明け前に一度、目を覚ました。恐らく、家を出ていく父の気配を感じたのだろう。三上家が賃貸しているアパートの一室には、個室は畳敷の部屋が一つあるだけで、二人はその同じ部屋で寝起きしていた。
父の生活はいつの間にか、3年前と変わらなくなっている。日が出る前に家を出て、夜も更けてから帰ってきた。昼に一度帰って仮眠を取っている事もあるようだったが、それも稀で、どちらにせよ一日の内で正吾が父と顔を合わせる時間はほぼ皆無だった。おかげで、自室が無い事も大してストレスにはなっていない。むしろ気ままなくらいだった。
父の生活で変わったのは、向かう先が自分の店ではなくなった事と、母がいなくなった事だけだろう。
正吾の父、正義は板前で、以前は自分の割烹店を持っていた。母と二人で切り盛りしていた店だったが、母が店の常連客の一人と連れ添っていなくなってから、店は潰れてしまった。
母とその常連客が逢引に利用していた人形劇団の公演を父と観に行ったのが、正吾にとって家族三人での最後の思い出だった。母は舞台上で、デズデモーナを動かしていて、その大きな人形が収まったスーツケースは、今もまだ押し入れの中に残されている。
正吾がもう一度目覚めた時、既に登校時間には間に合わなくなっていた。正吾は布団の中から、学校に電話し、欠席の連絡を入れた。二日連続で事件に遭遇し、気が滅入っていたし、疲労しきっていた。
昨日は島の到着以降、更に詰めかけた警官たちによってビル内がくまなく捜索された。不思議な事に首無し死体はどこからも発見されなかった。同一犯とは限らないが、教室内に死体を置いた人物も、そして消し去った人物も見つかる事はなかった。
まるで最初から何も無かったかのようだった。
もし、首無し死体を見たのが、正吾一人だったなら、正吾は自分の正気を疑っていたはずだ。
中学生たちや、カルチャースクールの職員たちは、その場で事情聴取を受けると、帰宅を許された。正吾たち、死体を目撃した塾の関係者、それから九門と共に塾の営業開始から事務所にいた龍前るみは警察署に連れられ、更に事情を聞かれる事になった。
教室で起こった事件は、結果としては何も起こっていないに等しかった。正吾や健斗と同じく、死体を目撃した全員が、死体が何者の物であったのかさえ分からなかった。誰とも知らない死体が現れ、始めからそこには何も無かったように消えた。恐らく、そこで目撃されていたのが首無し死体でなければ、捜査はこうも大がかりになっていなかっただろう。
死体が首無し死体だったことで、誰もが連続首切り事件との関連を疑っていた。また.、前日の事件でも死体が消えていた事から、同一の死体である可能性も検討されているようで、前日の事件の目撃者でもある正吾は、警察署に呼び出された内で、最も長い時間拘束される事になった。
前日とは違い、正吾たちはそれぞれ、個室で事情聴取を受け、正吾は前日の事件の話も含め、何度も同じ話を繰り返した。翠天の存在を隠した事が、また矛盾点として指摘され、延々と事情聴取は続いた。まるで拷問だった。警察は、正吾が翠天を疑ったように、正吾が事件と何らかの関係を持っているのではないかと疑っているようだった。長い事情聴取の間、正吾は鞄が気になって仕方がなかった。鞄の中には、その日の朝、父が卓上に残していった柳刃包丁が入っていた。
正吾が解放された時、日付はまた新しくなっていた。
昼過ぎになって、暑苦しくなるまで、正吾は寝ても覚めてもいないような状態で、布団に包まり、ぼんやりと事件の事を考え続けた。何もかも冗談のように非現実的で、何もかもレゴブロックのように現実感があった。
全てはそのときの乱数次第で、天秤はどちらかに大きく傾く事しかせず、同じ重さの物同士なのに釣り合う事は決してなかった。
ようやく布団から出て、正吾はシャワーを浴びた。髪を拭いた後、角が錆びた鏡に、髪がぼさぼさの自分が映っている。昨日、小春に言われた事を思い出した。
父が板前なせいか、整髪料をつけるという文化が正吾にはなかった。父は常に清潔な角刈りをキープしていたので、洗面台には櫛さえ置かれていない。
手櫛で、少しだけ髪を整えたが、前後での違いが自分でもわからなかった。自己嫌悪で頭が重くなる。
空腹で、台所の冷蔵庫を開けると、中に筑前煮と椀に入れられたお吸い物が入っていた。恐らく父が前の晩に、まかないを持って帰ってきた物だろう。昨日、父は警察署に迎えに来ず、正吾はパトカーに送迎されて自宅まで帰ってきた。既に警察署で食事を摂っていた正吾は、そのまま寝てしまったため、食事が用意されていた事を知らなかった。
米も炊飯器もあったが、米が炊けるまで待つのが億劫だった。正吾と父が一緒に食事をすることは滅多にないため、もう長い間、米を炊いていない。父は店で食事を済ませ、正吾はほとんど、図南学習塾からの帰り道にあるパンチ亭で食事を済ませている。
結局、正吾は冷たい筑前煮をトーストの上に乗せ、お吸い物を啜った。流石に味は悪くなかった。
食事の片付けが終わった頃、玄関のブザーが音を立てた。
事情聴取の終わり際、また話を聞きに行くかもしれないと、正吾は言われていた。正吾はうんざりして、息を潜め、ブザーの音を無視した。いつまでもブザーの音はしつこく鳴り続けた。
「三上正吾!いないのか?」ブザーが鳴りやみ、ノックに変わる。「わたしだ!」ドアの向こうから響いたのは、島でも伊藤でもなく、
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