1. -クビナシ密室 4

 4

 「ダメぇーっ!来ちゃダメっ!」何かあったと気づいて教室から出てきた中学生たちを、上擦った声で叫んだ小春が、両手を広げて廊下で防いだ。

 めあは、戸からいち早く離れ、さっきまで健斗と小春が背を預けていたエレベータ付近の壁の近くに、腰を下ろしてへたり込んでいる。

 教室から出てきた九門に「俺も見ていいすか?」と、健斗が真面目な様子で声をかけた。

 九門がやや青褪めた表情で、首を振る。「いや、見ない方がいい。警察が来るまで、このままの方がいいだろう」

 健斗が、教室の中に視線を移し、何か考えているように、こくんと頷いた。

 「お前ら、中に誰も入らないように、ここにいてくれ。警察に連絡してくる」身を強張らせて中学生たちを堰き止めている小春を見ながら、そう言って、九門は事務所に入っていった。

 戸を開いたままにして、正吾も健斗も、その場に立ったまま、教室に背を向けた。健斗は小春の様子が気になるようだったが、視線を向けただけで動かず、「昨日の首切り事件、見たんだってな」と正吾に話しかけた。

 「ああ」と、放心しながら正吾は答えた。いつの間にか、健斗にまで話が広まっている。

 「やばいだろ。俺、生の死体とか、初めて見たわ」

 「葬式を除けば、俺は二度目」冗談めかして言うが、二人とも笑わない。

 「やっぱり、連続首切り事件か?これ?」寄せてある方の戸へ背を凭れさせ、健斗がまた教室の中を覗く。正吾はわざとらしく肩を竦めた。「そうだよな?早すぎるよな。二日連続とか……」

 「別の首切り魔ってこと?」言いながら、昨日見たレインコート姿の殺人鬼が正吾の脳裏に浮かんだ。

 「どっちにしろ、やばいだろ……」と健斗がやばいを繰り返す。それから、唐突に「あれ……?誰だ?」と不思議な事を言った。

 健斗は教室を覗いたままだ。意味がわからず、正吾もまた教室を覗いていた。教室内に誰かがいた訳ではない。今もまだ、首から上の無い死体が、椅子にじっと座っているだけだ。

 「え?」正吾も気づいて声を上げた。「いや、……誰、だろう?」

 椅子に座る首無し死体が、あまりに非日常過ぎて、正吾はそれが自分と関わりのある物だとは全く想像していなかった。突然、発生したグロテスクな置物が、元は人間だったのだと、ようやく理解して、その姿を見直したが、健斗と同じように誰だか、誰だったのか、わからなかった。

 「……竹下センセ、じゃないよな?」流石に健斗の声が震えていた。スーツ姿で教室にいる人物を連想したのだろう。

 「違う。竹下先生は事務所にいるよ」

 「そうか……」健斗がほっとしたように言う。

 図南学習塾では基本、塾長の九門が中学生クラスを受け持ち、高校生を竹下が見ていた。テスト前など、コマ数が増える時期は竹下のような塾の卒業生たちが非常勤としてバイトにやってくる。その何人かを正吾は頭に思い浮かべたが、教室の死体が、その内の誰かかどうか、判別できない。思い浮かぶのは顔だけで、死体にはその肝心の顔が無かった。

 「ここ、じゃないな?……現場?」

 まだ死体が誰の物か考えていた正吾は、健斗の言葉にまた、え、と遅れて反応した。確かに死体の周りには、昨日のような血痕が見当たらない。争ったような形跡も無かった。

 健斗が正吾を見る。「……昨日、死体、無くなったんだろ?犯人が……、お前を追って、……きたんじゃないか?」

 今度は健斗の言いたい事が正吾にもわかった。首切り魔が、事件の目撃者である自分を何らかの方法で特定し、昨日の死体をここへ持ち込んだのだ。

 「いや、……何のために?」

 「警告……、とかか?」そう遠慮がちに健斗が口にする。

 はっ、と正吾は笑いかけたが、急に視界が狭く感じ、体の芯が硬直していた。

 「……悪ぃ、適当言った」と、健斗が気まずそうに目を反らした。


 「お前ら!教室の中に入ってろ!」事務所から出てきた竹下が廊下の先に向かって珍しく声を荒げた。小春の向こうにいた中学生たちが、すごすごと不服そうに教室に戻っていく。竹下は見た目はスポーツマンのようで、こういう時には迫力があった。実際には運動はまるで駄目で、レクリエーションとして塾のメンバーでテニスに行った際は、正吾と最下位を争って試合をする程だった。事務所の中で、九門に事情は聞いていたようで、緊張した面持ちで、高校クラスの教室へ一瞥をくれた。

 竹下の怒声で我に返った正吾は、無事だっただろ?と健斗に目配せをした。健斗も同じ事を考えていたようで、黙って頷き返した。

 「ごめん、小春さん、ありがとう」今まで中学生たちを押しとどめていた小春に竹下が礼を言う。

 廊下の先で、微動だにせず両手を広げて背を向けていた小春が振り返った。目は見開いたまま、今にも涙を零しそうに潤んでいて、口を硬く結んで震えている。いつもの調子なら、とっくに雪崩れ込んできていてもおかしくなさそうな中学生たちが、なぜ小春の前で踏みとどまっていたのか、分かった気がした。

 小春が、健斗の元へ駆け込んでいく。

 「君たちも、ありがとう。今、塾長が警察呼んでるから、もう離れてていいよ」竹下がそう、正吾たちに言い、もう一度教室の中を覗く。どこか遠くを見る視線になり、自分が見ている物が信じられないように、瞬きし、頭を振った。

 「……あの」と、めあがふらついて立ち上がり、竹下に声をかけた。

 「佐々木さん、……大丈夫?」めあの調子に気づいた竹下が、教室から目を離し、聞いた。

 「はい……。もう、大丈夫です。少し気分が悪くなっただけで……」

 「無理しないで。座ってた方がいい。事務所で休む?」

 「いえ」と弱弱しく頭を振ってから、もう一度、あの、とめあが口にした。「考えたんですが、この中にいるのは、危なくないですか?」

 「え?」

 「その……、中に、その……、まだ、いるんじゃないですか?隠れているかもしれません……」躊躇いがちにめあが続ける。「首切り魔」

 それを聞き、竹下が腕を組んで俯いた。

 思わず、正吾は辺りを見回していた。3階には、不審者が隠れられるような場所は無かった。部屋は事務所と教室が二つ。コの字に曲がった細い廊下は、他にエレベーターと折り返しの階段にしか繋がっていない。人が隠れられるような収納部は、九門や竹下たちがずっといただろう事務所の中にあるだけだ。

 もし、隠れているとしたら、他の階しかない。

 2階は、今は閉鎖された小学生クラスが図南学習塾にまだあった頃、正吾たちも使用していて、現在は次のテナントが決まるまでの約束で、自習室や物置として使われていた。間取りは事務所の位置が物置になっているだけで、3階とほぼ変わらない。

 1階は、男性用女性用のトイレがそれぞれと、いつからか無人になった管理人室や、飲料の自動販売機が置かれたスペースがある。

 他の階に正吾は詳しくなかったが、4階にはカルチャースクールが入っていて、5階は美術教室だった。おそらく間取りは2階、3階と殆ど同じだろう。5階にもトイレがあると聞いていたが、正吾は利用した事が無かった。

 正吾が考え込んでいる間に、九門が事務所から出てきた。いつからなのか、その背後で、事務所のガラス戸に手をついて、控えめな様子のるみが廊下を覗いている。

 「すぐ来てくれるそうだ」竹下を見て、九門が言う。

 竹下が顔を上げた。「……塾長、外に出た方がいいかもしれませんね」

 んぅ、と小さく唸って九門が渋面をつくった。

 「犯人が、ビル内にまだいたら、危険です。警察が来たら、誰かを人質にして立て籠もるかもしれません」

 九門が悩むように、口ひげを撫でた。「……ここに待機していた方が、安全じゃないか?」

 「いえ、ぼくが前に出て、塾長が後ろになって全員で階段を降りましょう。ぼくなら、まぁ、見た目だったら負けないですし、もし塾長が後ろから刺されても、塾長の体が邪魔で、前には行けないでしょ?」

 九門相手のいつもの軽口を交えて竹下が言うと、九門は更に考え込んだようだった。しばらく間があり、「……わかった。全員で外に出よう」と言って、上を見上げた。「確か、カルチャーセンターの人らが、今日は来ていたな……」

 「俺、行きますよ」

 正吾の背後で声がして、小春のそばにいた健斗が、無理矢理、九門たちの間を通り抜けていった。

 「おい!」と九門が止めたが、その頃には、健斗は廊下の角を曲がり、階段を上がっていた。


 健斗が4階からカルチャースクールの職員である二人の年配女性を連れて戻ってくると、竹下が中学生クラスに事情を説明し、移動を開始した。

 事前に話した通り、竹下が先頭になり、九門がしんがりとなって全員で階段を降りたが、途中、2階の廊下部分を警戒し、健斗が列を離れた。正吾も付き合って、九門が降りてくるまでの間、二人で見張りに立っていた。

 2階の二つある教室の戸は、自習のために開けてあったが、がらんとして電気も点いていない。その目的のために使われる事は滅多になく、正吾も使った覚えはなかった。物置となっている奥の部屋は、使用する時以外、鍵がかけてあるので、外部の者が入る事は難しい。

 「なぁ、犯人ってどんな奴だったんだ?」と、薄暗い廊下の先を睨み、健斗が聞いたので、正吾は、チェーンソーを持っていたと答えた。いつの間にか状況に慣れたのか、「うーわ」と健斗はいつもの軽い調子に戻っていた。

 正吾も、冷静になってきていて、ビルの中に首切り魔がいるとは思えなくなってきていた。

 既に周りはそのつもりで行動していたし、その方が安全な判断に思えたので、口には出さなかった。

 現場に行った翠天が襲われた昨日のような事もある。めあや竹下が考えたように、用心に越したことはないのかもしれない。

 最後尾の九門と共に正吾たちがビルから出ると、ビルにいた人で歩道に輪ができていた。

 何も知らずに通学してきた塾生たちも加わっている。九門と竹下が、それらを集め、また事情を説明した。

 実際に死体を見ていない中学生たちや、カルチャースクールの職員二人はそわそわとして、現実感が薄いようだった。

 「大丈夫か……?」健斗が小春に声をかけた。

 「うん。なんか、びっくりしちゃっただけ。もう何ともないよ」そう言って小春が笑う。

 正吾も何か声をかけようか迷ったが、何も言葉が出てこず、二人に近づく事すらできなかった。

 サイレンを鳴らしてパトカーに乗った警官が到着する頃には、周りのビルの人や、通行人まで集まり、人だかりになっていた。

 中心は、図南学習塾のあるビルの入口周辺を空けた半円で、その中で、二人の警官と九門、竹下が話し合い、竹下が警官たちと共に教室に向かう事になった。

 警官二人を前にして、三人で、ビルの階段を上がっていく。

 しばらくすると、顔を顰めた竹下が一人、階段を降りて、ビルから出てきた。ちょっと、と輪の中にいた九門に話しかける。話を聞いた九門も顔を顰めていた。

 「……悪い、ちょっと来てくれないか?」と竹下が、正吾と健斗にも声をかける。正吾と健斗がそばに寄ると、竹下は「死体が、無くなってるんだ……」と、理解しがたいように首を捻った。

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