1. -クビナシ密室 1
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羽生翠天の髪には不思議な光沢がある。
青というのか緑というのか曖昧だが、日光の下だと、酸化膜が張っているように黒い髪が輝いている。
翠天の席は窓際の中ほどにあり、教室の後方に席がある正吾からは、左斜め、11時の方向に見える。
昨日、ほつれた髪も、また角のように奇抜にリボンで纏め上げられ、開いた窓から吹く風で、長い後れ毛だけが靡いている。
翠天はいつも通り授業に関心が無いのか、教科書を広げ、窓の外をじっと眺めていた。
「いいか。わたしの事は何も言うなよ」
そう、翠天は勝手な事を言った。
昨日、翠天が気を取り戻し、正吾が警察へ連絡したと告げた後だった。
「わたしは警察とのお喋りで何時間も無駄にする気はない」
取り付く島もなく、翠天はそのまま立ち去ってしまった。
警察が到着したのは、それからすぐだった。
正吾が警官に事情を説明し終える頃には、パトカーのサイレンを聞きつけたのか、人気の無かった路地にちらほらと野次馬が集まっていた。
首無し死体もその生首も、現場からは無くなっていたが、街灯の下にたっぷりと血溜まりが残っていたため、正吾の話はすんなりと警官に受け入れられた。
その後やってきた別のパトカーに乗せられ、正吾は川向の警察署に連れていかれ、再度、事情聴取がなされた。今度は刑事らしき人物を中心に聞き取りが行われ、場所は正吾が未成年だったためか、少年課のオープンなスペースでだった。
結局、正吾は翠天の事を言い出せず、一度逃げ出したのになぜ現場に戻ったのか、被害者の生首はどう奪われたのかを誤魔化して話し、それが刑事の不信を買ったのか、何度も同じ話をさせられ、事情聴取が終わる頃には日付を跨いだ深夜になっていた。
少年課の職員に連れ添われ警察署のロビーに出ると、父が迎えに来ていた。父はいつも通り寡黙で、職員に不必要な礼は言っても、正吾には何も言わなかった。
ただ、正吾が朝目を覚ますと、仕事に行った父から、置手紙が残されていた。
「夜道は危ない。あまり心配をかけるな」まるでペーパーウェイトのように、置手紙の上にはケースに入った柳刃包丁が置かれていた。
羽生翠天の後ろ姿を眺めていただけで、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
何の変哲もない時間の経過に、今朝までの記憶がまるで嘘のように感じる。
確かにあの生首は、自分の両手の中でまだ生きていた。その恐怖や嫌悪感を正吾は生々しく思い出せた。
重さや温度、指に絡みついた髪や、脂の浮いた皮膚の感触。痙攣するように瞬いていた瞼に、ぎょろぎょろと動いた瞳、引き攣る頬、口元。
気持ちが悪かった。自分と同じ人間では、もうないと感じた。
その意識に罪悪感も感じた。
しかし、それらは何の意味もないまま、過去になった。ただの希少な体験として、このまま冷めたデータになっていく。
もし意味がある程に、心に刻みつけられていたならば、朝、起きた時、落胆しなかっただろう。
正吾は今朝もいつも通り夢をみなかった。きっと悪夢をみるだろうと思いながら、目を覚ましたのだ。
俯いていた視界に影が差して、正吾は顔を上げた。翠天が立っている。「わたしを見ていたな」翠天は背中に目でもあるのだろうか?
それから周りを気にする仕草で、「どこか二人きりで話せる場所はないか?」と翠天が尋ねた。
翠天が教室から出ていくのを見送った後、正吾も教室を出て、売店でパンと飲み物を買い、屋上に向かった。
志丹北高校西校舎の屋上スペースは数年前に閉鎖されていたが、誰かが入口のドアノブを壊し、そのままになっている。封をするために、何度も黄色いテープが貼られたが、それも今は剥がされたままだ。
「遅かったな。ミスミ……、ケンジ、だったか?」
階段室の鉄扉を開けると、屋上が開放されていた頃の名残である古びたベンチに翠天は座っていた。
「……三上正吾」
「すまない。……ミカミショウゴ。……うん、覚えた。必要な間は忘れない」
正吾は、翠天から少し距離をとって、同じベンチに座った。翠天が体を回転させ、正吾に体を向ける。「これを買ってた」と言って、ソースカツパンとコーラを翠天に見せた。
「そうか。わたしも弁当を持ってくればよかった」関心したように翠天が言う。
翠天はいつも持参した弁当を自分の机で一人で食べていた。こうして、隣で食事をするのはかなり奇妙な事だ。
「それで、何の話?」パンのラップを外し、口に含みながら正吾は聞いた。
「ああ」気を取り直したように翠天が言う。「昨日のことだが、わたしの事は警察に言わなかっただろうな?」
これは予想していた話題だった。翠天との接点はクラスメイトである事を除けば、昨日の一点しかないので、他に想像のしようもない。「おかげでたっぷりと時間を無駄にしたよ」
「どういうことだ……?」
「羽生さんの事、誤魔化して話したから、やたら疑われて」
「曖昧な表現は止めてくれないか?わたしが聞きたいのは、わたしの事を警察に話したのか、話してないのか、だ」
「……話してないよ」
「そうか。ならいい」
横柄なその態度に少し腹が立つ。悪意はないのだろうが、翠天はいつもこの調子で、クラスでは煙たがられていた。
「礼ぐらい言ってくれない?」
「なんでだ?きみが勝手に警察を呼んだんだ。わたしが迷惑をかけた訳じゃない」
「いや……」どう翠天を説き伏せるか考えあぐねる。
子供のように小柄な翠天が、どうしてこうも大きな態度でいられるのかは謎だ。華奢な体は簡単に押し倒せてしまいそうに見えた。
こちらの邪心に気づいたのか、翠天の顔つきが険しくなる。その顔は大人びていて、どこかその小柄な体とはアンバランスだ。「何を考えている?」
「……いや」と、もう一度正吾は口籠る。翠天の顔を直視したのはこれが初めてだった。翠天が転校してきたのは年度の始まりで、クラスが新しくなった事もあり、翠天に注目している暇はなく、正吾が気づいた時には、翠天は既にクラスの腫物になっていた。昨日も、暗い中、それどころではなかったために、奇抜なファッションをしたクラスメイトという記号で翠天の顔を見ていた。
改めて見た翠天の顔は、大人びているだけでなく、造作がよく整っていた。意思の強そうなアーモンド型の瞳と、小さく薄い唇が綺麗だった。
思わず目を伏せる。
「暗いやつだな。いつもそんな調子なのか?」軽蔑したように翠天が言う。
「いつもじゃない。今日は寝不足なんだ」言い訳をする。実際には、指摘された通りの自覚はあった。
「なんだ?昨日の事でも夢にみたのか?」まさにその逆で、悪夢でもみていれば、もっと気分は晴れていただろう。
「みないよ。夢はみないんだ」
「……夢をみない?将来の夢の話じゃないぞ?」不思議そうな声。
正吾がようやく翠天の顔へ視線を戻すと、今度は同情の顔になっている。表情筋が優れている。「寝るときにみる夢の話だよ。将来の夢も別にないけど。……もうずっと夢はみてない。いつからなのかわからないけど、それで困った事もない」
「哀れなやつだな。夢をみなければ夜は砂漠だ」
正吾の聞いた事のないレトリックだった。「……それ、何かのフレーズ?」
「何の話だ?」
「いや、誰かが言ってそうな台詞だったから」
「誰も言わなそうな言葉ならおかしいが、誰かが言いいそうな言葉なら、わたしが使ってもおかしくはないだろ……?」
「うーん……」確かにそうだが、日常生活においてではない。かなり感覚にズレがある。
「まぁ、いい。そんなことより本題に入ろう」
「えっ?」本題は警察の件で済んだと思っていたので、正吾は思わず声を上げていた。既に正吾が知る限りで、正吾は翠天と最も長く会話した人間になっている。
「昨日の事を、クラスの人間たちに話していたな。わたしもそれが聞きたかった」
「……どういうこと?」
「わたしは、血痕に気を取られている間に後ろから殴られた。だから犯人を見ていない。どんな奴だったんだ?」
「ああ」昨日の件はいつの間にかクラスメイトたちに知られていて、休み時間の間、話題になっていた。正吾は直接話を聞きに来た何人かに、仕方なく昨日の件を話した。その後で自分のした話に尾ヒレがついて、勝手に盛り上がっているのを見て、あまりいい気はしていなかった。「羽生さんまで、そんな事が知りたいの?」
翠天はクラスで浮いていたが、その分、神秘性があった。その翠天にもそんな野次馬根性があるのかと思うと、多少落胆する。
「悪いか?」少しむっとして翠天が答える。
「いや、悪くないけど……。でも、俺も顔とか見た訳じゃないよ?」
「そうか。……仕方ない。それで?」続きを促すように顔を近づけ、じっと見つめてくる。少なくとも正吾に話を聞きに来た中で、警察の次には熱心な態度だった。
「それでって……」不承不承、正吾は昨日見た犯人の姿を翠天に伝えた。
犯人は、大きなマスク(何かの作業用?)を顔につけ、ゴーグルをかけていた。丈の長い黒のレインコートを着ていて、そのフードを目深に被っていたので、髪型などもわからない。体格は太っているようには見えなかったが、レインコートの膨らみで、それ以上は判断できなかった。
右手には凶器と思われるチェーンソーを持っていた。あまり大きな物では無いが、柄のような物がついていた。
……ほとんど、警察で話した事の繰り返しだった。
むぅ、と何か考えるように翠天が小さく唸る。「それ以外に何か気づいた事は?」
「何も無いよ。警察にもこれぐらいしか言ってない」
「それじゃあ、何もわからないじゃないか」不満そうに翠天が口にする。
「しょうがないだろ。別に目撃者になりたくて、首切り魔に会った訳じゃない。……大体、羽生さんがそんな事知ってどうするの?」
「それも……、そうだが」
「犯人でも捕まえる気?」
「そんなことに興味は無い」当たり前だろと言いたげだ。
「じゃあ、何で犯人の事なんか聞くのさ?」
「……クラスの他の連中も、きみに聞いてたじゃないか。わたしは聞いちゃいけないのか?」拗ねるように言う。
「悪くないよ。でも、羽生さんが、そういうタイプだとは思ってなかったからさ」
「別にいいだろ……。きみがわたしの何を知ってると言うんだ。わたしだって、昨日、あの場にいたんだ。そして、犯人に殴られた。それぐらい気になる」その答えは、正吾には妙に言い淀んで聞こえた。
少しサディスティックな感情が湧く。
「そもそもさ、羽生さん、昨日なんであんな場所にいたわけ?荷物だって持ってなかったし。あの辺、暗いから、地元の連中も夜はうろつかないよ」
「……わたしがいつ、どこで何をしていようと、きみには関係ないだろ」また、翠天の答えは歯切れが悪かった。
「もちろん関係ないけどさ。俺だって、答える必要ないのに、羽生さんの質問に答えたじゃん。不公平じゃない?」
「そんなこと知ってどうする?」
「それ、俺が先に羽生さんにした質問」
むっとした視線が返ってくる。
「もういい!聞きたいことは聞いた」
翠天が勝手に話を打ち切り、不服そうに立ち上がった。結局、何の礼も言わずに立ち去るつもりらしい。
昼休みも永遠に続くわけではない。翠天の答えに納得がいった訳ではなかったが、正吾もこれ以上追及する気はなかった。どちらかと言えば、生意気な翠天を少しやりこめたかっただけだ。
鉄扉に向かって歩き出す翠天を見て、つい「あっ」と声を上げてしまう。
翠天が振り返る。「何だ?」
「いや、羽生さんよりは身長高かったよ、犯人」
「当たり前だ!大抵の人間はわたしより背が!高い!」
本気で怒ったようだった。翠天が屋上から出ていくと、正吾は笑いが止まらなくなってしまった。
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