夜を飛ぶ鳥
佐々木ロ円
0. - 任意の生首
1
両手に抱えた生首。切断された首の先から赤い鮮血が滴っている。
正吾はぎゅんという異音に気づいて気まぐれに足を止め、音のした横道へと顔を向けただけだった。薄暗い路地の先から、舞うように弧を描いて飛んできた歪んだ球体。それをつい受け止めていた。それが男の生首だった。
男は驚いたように見開いた目をぱちぱちと瞬きさせ、何か叫ぼうとしているのか口をぱくぱく動かした。
目の前に生首がある事も理解しがたいのに、その生首はまだ生きていた。
ぎゅん、とまた異音がする。
正吾は顔を上げ、生首が飛んできた方へ再び視線を向けた。
路地の先、街灯の下によろよろと首から先が無い黒い人影が歩み出てきて、ばさりと倒れた。まるで蓋を外したペットボトルを倒した時のように、首の断面から血がドクドクとアスファルトへと流れ出た。
ぎゅん。異音が近づいてくる。街灯の下にまた別の影が現れる。雨でもないのにレインコートを着た人影。目深に被ったフードの下に、大きなマスクとゴーグルをしているのが遠目に見えた。ぎゅん、という異音はその人影が手にぶら下げたチェーンソーのエンジン音のようだった。
この半年、正吾の住む儀代市を中心に起こっている首切り連続殺人。目の前の光景に、伝聞で得た情報の記憶が発火する。
儀代市首切り連続殺人。当初は県内全域で発生していた事件だったが、ここ数ヶ月の間は居直ったように市内に限られ、最近ではそう呼ばれている。
首を切断され、頭部を持ち去られた遺体が月に数件発見され、その被害者数は既に日本の犯罪史上でも、継続的な殺人において最大となっていた。
レインコートの人影は、首無し死体に追い付くと、その周囲を見下ろし始めた。
市内には数万というオーダーの人間が住んでいる。例え毎日一人殺されたとしても、自分は無関係のまま事件は終わるのだろう。正吾は過熱する報道を見ながら、そう思っていた。
レインコートの人影が顔を上げ、こちらに気づく。空いた左手で、右手のチェーンソーを撫でると、ぎゅんというエンジン音が更に高鳴った。
正吾の手の中で冷たくなり始めた生首が苦悶に満ちた笑みを浮かべていた。
正吾は回れ右をして走り出した。周囲は古い住宅地で、格子のように狭い路地が折り重なっている。道の左右はどこも生垣や高いコンクリート塀に覆われ、街灯も少ないので、塾から帰宅するこの時間になるといつも薄暗い。空き家も多く、声を上げても誰も出てこないだろうし、助けを求められそうな歩行者も近くにはいなかった。
慣れない者なら、すぐに自分が何処を歩いているのか分からなくなるような場所だ。正吾も自信は無かったが、人気のある道へ出る方角は何となくわかっている。冷静に動けば、逃げ切れるはずだ。
背後でするチェーンソーのエンジン音を引き離そうと、正吾は網の目に広がる路地をジグザグに走り抜けた。学生鞄に付けた反射板でできた鳥のキーホルダーががちゃがちゃと鳴る。帰りの時間が遅くなるので、夜道での事故対策に塾から配られた物だったが、高校生にもなって真面目に付けているのは正吾ぐらいだろう。気になる音を抑えたかったが、生首を抱えているため、手が離せない。気味は悪いが、それを投げ捨てるのは余りにも冒涜的に思え、両手で抱えたまま、どうする事もできなかった。
住宅地を抜け、変電施設沿いの一本道に出る。その辺りになると、道沿いに施設内の電灯から明かりが届いている。
チェーンソーの音はもう聞こえなくなっていた。荒くなった息を整え、足を遅めながら、後ろを振り返った。追ってくる人影はない。
体育の授業でさえ、こんなに走った事は無かった。頭がくらくらしている。この一本道を抜ければ、河川敷沿いの人通りのある道へと出る。あと少しだ、と思い、正吾は前に向き直った。
目の前の暗がりに立つ人影。
あっ、と叫ぶ間もなく、正吾は人影に衝突していた。しばらく走ったせいで、既に破裂しそうになっていた心臓が、更に早鐘を打つ。尻もちをついて倒れ、手から生首が転がり落ちた。
顔を上げ、目の前の人影を探す。
小さな人影がこちらを見下ろしている。
その手に、チェーンソーは握られていない。
心臓の鼓動が徐々に緩やかになっていく……。
「なんだ、きみは……」
正吾がぶつかった相手は苛立たし気に呟いた。こちらを見下ろすその顔、というよりシルエットに正吾は見覚えがあった。
「
「ん?わたしを知っているのか?」
知り合いに会えて、正吾はようやく現実に戻ってこれた気がした。翠天は正吾のクラスメイトで、三ヵ月前、2年の開始と同時に転校してきた少女だった。クラスでは一番背が低く、大人びた顔をしている割には小学生と変わらないような背丈をしている。頼りにはならないが、それでもほっとする事ができた。
「俺。クラスメイトの三上正吾」正吾は立ち上がって、翠天の顔を見る。翠天は私服で、カッターシャツにジーンズ姿だったが、校外でも、左右に突き出して大きくまとめた角の様な髪型と、首にしているチョーカーはそのままのようだった。正吾の通う志丹北高校は服飾の規定は緩かったが、ここまで特徴的なファッションをしている生徒は多くない。
「ミカミショウゴ……?悪いな、きみの顔は覚えていない」今度は正吾を見上げて言う。
別段、ショックでもなかった。翠天はそのファッションとこの調子で、未だにクラスに馴染んでいない。
「それよりどうしたんだ?フラフラと走ってきて。何があった?」
その一言で我に返り、後ろを振り向いて確認する。レインコートの人影は見当たらない。安心はできないが、まだ追いつかれてはいないようだった。思惑通りに道に迷ってくれたか、諦めてくれていればいいのだが……。
とにかく、この場を離れた方がいい事は確かだ。その事を伝えようと前に向き直ると、翠天は目を凝らし、正吾の足元を見ていた。「それは……?」
正吾の足元にはごろっと黒い塊が転がっている。それが何かを説明する間もなく、翠天は生首を慌てたように拾い上げていた。
しばらく言葉が無かった。
一度手放したからには二度と触れたくない。気色の悪い物。
それはもう身動きせず、正吾が最後に見た表情のまま、翠天の手の中で固まっていた。
翠天は最初、驚愕したように目を見開いていたが、徐々に観察的な面持ちになり、静かに生首の顔を眺め、角度を変えて首の切断面を確認した。それから、そっと正吾から距離を取った。
「おい、違う!」少し声を荒げる。
「なぜ、こんな物を持っていた」目を細め、翠天が正吾を睨みつけた。
「俺じゃない!首切り殺人だ!レインコートを着た奴が、チェーンソーで首を切った。それが俺のところに飛んできたんだ!」
必死に言うと、翠天が正吾の後ろの道へ顔を向ける。「……それで、逃げてきたのか」
「……そうだ」
翠天がまた正吾に視線を移す。まだ警戒心は解かれていない。「死体はどこにある?」
「え?」
「死体だ。首無し死体。お前はこの男が殺されるところを見たんだろ?どこにその死体はあるんだ?」
強い口調で詰問される。男の首が飛ぶ瞬間を目撃した訳ではなかったが、ほとんど変わりはない。「どこって……」振り返り、指を指そうとするが、レインコートの人影を撒くために複雑な経路をとったし、元々目印になるような物がある場所でもない。塾から家へと帰る帰宅ルートの途中ではあるが、それを一口には説明できなかった。
「もういい」そう言って、翠天が住宅地の方へ走り出す。
「おい!危ないぞ!まだ犯人が近くにいるかもしれない!」止めようとして叫ぶ。
「きみはここにいろ!心配するな。多少だが武術の心得がある」そう言い残し、翠天の小さな背が闇に消えていく。
正吾は迷った挙句、来た道を引き返した。翠天の足は速く、辺りを警戒しながら進む正吾の視界にはいつまで経っても現れなかった。有難い事にレインコートの人影にも出くわさない。翠天とどれ位話していたかを考えると、犯人は既に逃げ出したのだろうと思えた。自分ならそうするだろう。わざわざ現場に長居するような真似はしない。
それでも辺りに気をつけながら正吾はスマホで電話をかけた。警察署に繋がると、手短に見た事を説明した。場所も近くの電信柱に住所を見つけ、大まかながら伝える事ができた。話せるだけ話すと一方的に電話を切った。あまり機会のない経験に緊張し、スマホを握った手が汗に塗れていた。
電話を切ってもまだ緊張は続く。「羽生さーん!」と思い切って叫んだが返事は無い。
自分が来た道を思い出しながらまたジグザグに足早に進む。明るければ適当に歩いていても、元来た道に戻れる自信があったが、暗くなるとどこも同じ景色に見え、すぐに道に迷う。
突然、ぎゅーんという不快なエンジン音が鳴り響いた。
悪夢に引き戻され、冷や汗が吹き出した。頭が真っ白になり、立ち止まっていた。
音のする方角を探る。周囲を見渡し、それがまだ遠くで鳴っている事に安堵した。
それから、闇に消えた翠天の小さな影が脳裏に過る。
馬鹿みたいだったが、放ってはおけず、正吾は音のする方へ駆けだした。
「羽生ー!」犯人を威嚇するように、翠天の名を叫び、道を曲がると、生首を拾った路地に出ていた。「羽生さん!」今度は衝撃で叫んでいた。
路地の奥へレインコートの人影が走り去っていく。
その手前に、羽生翠天が倒れている。「おい!」
恐ろしくなり、足が緩む。「だ、大丈夫か?」
死んでいる……?
何もかも遅かったのだろうか?
翠天が倒れているのは首無し死体が倒れていた街灯よりも正吾に向かって手前で、明かりが薄く、よくは見えなかった。
ぼんやりと、街灯の方へ頭を向けて倒れているのだけはわかる。
翠天の首元で何かが動いている。大きな鳥……?違う。それは翠天の頭だ。髪の解けた頭が動いたのだ。
ようやく決心がついて、正吾は翠天の元へと駆け寄った。少し迷ったが、膝をついて翠天を抱き起こす。解けたボサボサの長い髪で首元は隠れていたが、しっかり繋がっているようだった。
「羽生さん?生きてる?羽生さん?」
怪我をしている様子はないが、ぐったりとして体が重い。
「羽生さん?」
「あ、ああ……」何度か声をかけると、意識を取り戻したように翠天は顔をあげ、瞳を動かした。「……くそ、やられた」
「大丈夫?」
「わたしの事はいい。問題ない」そう言って起き上がり、アスファルトに落ちたチョーカーを拾い、俯く。恥じ入るようにシャツの襟首を引き上げ、口元を隠して言った。「首を持っていかれた……。それに……」
翠天が街灯の下へ視線を向ける。正吾もそちらへ顔を向けた。街灯の明かりの下には真っ赤な血溜まりだけが広がり、首無し死体はそこから無くなっていた。
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