確率0.1%の朝

夏越リイユ|鞠坂小鞠

確率0.1%の朝

 カーテンの隙間から差し込んできた細い日差しのせいで、目が覚めた。

 まだ重い瞼を薄く開く。ぼやけた視界にゆっくりと、枕、ローテーブル、カーテンの順に自室の家具が映り込んでくる。


 横を向いて寝るようになったのは、彼と出会ってからだ。


 いつだって心のどこかで期待してしまう。目を開きながら、もしかしたら今日は、と思ってしまう。それももう何度繰り返しただろう。

 大人ふたりが並んで寝るには窮屈が過ぎるシングルベッドに横たわっているのは、今朝も私ひとりだけだ。諦めの気持ちが九割……いや、九割九分九厘。残りのたった一厘を、まだ私は殺しきれずにいる。


 大人になってからの恋には、駆け引きや、打算や、条件や、そういう要素がつきものだ。

 煩わしいと思うけれど、思ったからといって即座にどうにかできるものでもない。起き上がることなく、私はきつく目を閉じた。


 彼は、決して私と夜を明かさない。



     *



 私が暮らす町は、川沿いの田舎町だ。

 電車は一時間に一本、あるいはそれ以下。町の端を掠めるように位置する駅は、無論、無人駅だ。


 過疎地以外の何物でもないこの町の、十数年前の市町村合併によって市役所の分署と化した、小さな町役場――そこが私の職場だ。

 訪れる客人の大半は年配者だが、人口の大半を年配者が占めている町なのだから仕方がない。大きな声を出すのが苦手な私にとっては、耳の遠い客人に声を張り上げることこそが重労働に等しいが、まぁそれも仕方がない。


 彼らがなにげなく切り出す世間話が、途中から私の結婚に関する話題に変わることにももう慣れた。

 この田舎町では、私みたいな余所者――隣町の出身だろうと余所者は余所者だ――が町役場に勤めているだけで十分異質なのだ。それが三十歳手前で独身ときたら、噂話の種にしかならない。

 自分の息子や孫を紹介してくる人までいる始末だ。多分、大半の人が本人に許可を取っていない。


 月半ばの金曜日、今日も定時で仕事を終えた。

 残業は基本的にしない。というより、どれほど残務があってもさせてもらえない。


 帰り道、アパート近くのコンビニに寄って、発泡酒を二本買った。彼に会う毎週金曜日に、彼を迎えるために私がする準備は、それだけだ。

 食事を用意したり、早めにシャワーを浴びたり、化粧を直したり――そういうことをしていた時期もあったけれど、最近はしなくなった。必要以上の損失にならないように。なにより、必要以上の期待をせずに済むように。


 ……いつまでこんなことを繰り返すのかと、ふとしたときに思う。


 仕事を辞めて地元に戻ってきた彼とは、幼馴染でもなんでもない。

 私は別の町の出身で、彼にとって馴染みの人間ではなかった。それこそが、彼には好都合だったのかもしれない。


 例えば、私が今夜部屋に戻らなかったなら、あなたはどうするだろう。

 スマートフォンになにか連絡をくれるのかもしれないし、電話もメッセージも寄越さず黙って帰るのかもしれない。あるいは怒るかもしれない。分からない。


 温厚が過ぎる彼は、その性格ゆえに追い詰められて前職を辞したと聞いている。そんな彼が怒っているところを、私は一度も見たことがなかった。

 だが、今日も絶対に怒らないという保証はどこにもない。自分が彼のことをなにも知らないと思い知らされるのは、こういうときだ。


 金曜日に私の部屋を訪れることは、彼にとってルーチンワーク以外の何物でもないのかもと思うこともある。それでも、私は自室で彼を待つ。

 彼と過ごす夜に期待はできない。その癖、ふたりで分け合うちっぽけなぬくもりを、ちっぽけだと分かっていながら切り捨てる勇気もない。


 発泡酒のもたらす中途半端な酔いに任せて私を押し倒すあなたを――その瞬間を、結局、私は心待ちにしてしまう。



     *



 出会いのきっかけは、彼の転入届の手続きだった。

 あの日も金曜日だった。夜、たまたまコンビニ――例のアパート近くの店だ――で鉢合わせた。


 どんな言葉が、あるいはどちらの言葉が発端となったかは覚えていない。互いに買い物を済ませた後、ビニール袋を手にぶら下げながら、私たちは並んで川辺を歩いた。

 私はその日の午前中に仕事でやらかしたミスを彼に打ち明けて、彼は身体を壊して仕事を辞めてこの町に出戻ってきたことを私に打ち明けた。


 後はそのまま、なし崩し的。


 私が異性と関係を始めるときは、いつもそんな感じだ。ドラマチックでもロマンチックでもない、それどころか軽率だと誰かに咎められてしまいそうな始まり方。

 とはいっても、私たちだって抱き合うときにはまるで愛し合っているかのようにそうする。金曜日の夜、それ自体が麻薬によく似た顔をして私に近づき、溺れさせる。麻薬の効果を実際に体感したことはもちろんないが。


 寂しいからという理由だけで寄り添うことは寒々しい。けれど、打算を滲ませて人間関係を始めることは、もっと寒々しくて惨めだ。

 私はそう思っている。他人、あるいは彼がどう思っているかは知らない。だから踏み込みきれない。


 ありふれた出会い方や、勢いだけで始まった関係であることや、彼がいまだ仕事を探している最中であること……数え上げればきりがない。

 大人になってからの恋は、それに付属するさまざまな要素は、どこまでも私を辟易させる。若い頃は、余計なことを考えるより先に没頭していた。気づけば恋に落ちていた。けれど、今は。


 見計らって落ちている。

 落ちるか落ちないか、落ちても大丈夫かどうか、考えてから、落ちる。


 そんな自分が滑稽でならない。そこまでして恋をする必要はあるのかと思う。その答えもすでに分かりきっていて、馬鹿馬鹿しくて笑う気にもなれない。

 私の、そういう踏み込みきれない内心を読んでいるかのように、彼は夜の間に私の部屋を出ていってしまう。きちんと鍵をかけて、それをポストに入れて……律儀な人。その癖、好きだとか愛しているとか、その手の言葉は絶対に口にしない。


 今夜も、そうなるのかもしれない。


 ひとりぼっちで目覚める朝を寂しいと思うのは、隣に誰かがいるぬくもりを知っているからだ。

 彼は、今まで私を抱いたどの男より丁寧に、そして優しく私を抱く。だから余計に寂しくなるし、悲しくもなる。カーテンの隙間から差し込む朝の日差しが、厭わしく思えてくるほど。


 いっそ雑に扱ってくれるなら、私が手放せずにいる残り一厘分のこの期待も、諦めに変えられるだろうに。



     *



 朝方に目が覚めたから、部屋を抜け出した。

 早朝、午前四時過ぎ。夜は去り、暦上はもう土曜日だ。外の空気はひんやりとしていて少し肌寒く、またなんとなく湿っぽい。夏の始まりの匂いがした。


 彼の腕は、思った以上にあっさり外れた。

 いつもは何時に帰っているのか……熱に浮かされる夜、事が終われば私の身体は深い眠りに落ちてしまうことばかりで、去りゆく彼の気配に大抵気づけない。

 普段からこんな時間まで隣にいるのかな、と訝しく思った。今日、私がたまたま目覚めたのは午前四時手前で、彼がまだ隣にある目覚めはどこまでも新鮮だった。


 だからこそ、今日だけは、あなたが私を手放す瞬間に立ち会いたくなかった。


 部屋に戻る頃には、あなたはもういないだろう。

 これきりになったらどうする。どうする……どうもしない。どうでもいい。どうでも。

 想像よりも冷めた答えが頭を埋め、そのことこそが鈍痛に似たショックを呼ぶ。ただでさえやる気なく続けていた歩行は、やがて完全に止まった。


 違う。どうでもいいなんて、嘘。

 他の誰より私が一番よく知っている。そんなこと。


 アパートの傍を流れる川に架かる橋の上、辺りに人の気配はない。車通りも一台もない。この道に、こんなに静かな時間帯があるとは……実際に目の当たりにするのは初めてだ。不思議な気分になる。

 白み始めた空を背景に淡く浮き上がる川の水を、黙って見つめる。水に穴なんて空くわけはないけれど、穴が空くほどにじっと見つめていたら、急に息苦しくなった。


 好きだとか、好きではないとか、そういうことは考えたくない。あたたかいとか、優しいとか、そういうことも。

 考えれば考えるほど身動きが取れなくなりそうで、自分を保てなくなりそうで、そんな大人にはなりたくなくて、そんなことを思っている時点で大人になりきれていない気がしてならなくて――知らず浮かんだ涙のせいで視界が淀んだ、そのときだった。


「っ、あおいちゃん?」


 不意に名を呼ばれ、はっとした。

 弾かれたように振り返った先には、彼がいた。派手に息を乱す彼を初めて見た私は、彼が私を追ってきたという事実を理解するよりも早く、そちらに気を取られた。


「……ど、どうしたの……?」


 掠れた声が零れた。訊ける立場にないことを分かっていながら尋ねてしまったが、返事は一向にない。

 心なしか顔色まで青褪めて見え、私こそが不安を煽られる。浮かびかけていた涙は、目を見開いて彼を見つめているうちにあっさりと乾いた。


「どうって、葵ちゃん、いなかったから、」


 まだ元の調子に戻らない彼の呼吸音を呆然と聞いているうちに、長い腕が伸びてくる。

 ぼうっとしたままの私を、その腕が強く抱き締めた。息が止まりそうな抱擁に、痛いな、とふと思う。こんなに強く誰かに抱き締められたことが過去にあっただろうか、とも。


 痛いよ、と伝えようとして、けれど結局私は口を噤んだ。

 言ってもあなたは腕を放さない気がした。現に、骨が軋むほどきつく私を抱き寄せる腕には、これでもかとさらに力がこもっていく。

 川を背に、ふたり分の長い影が伸びる。肌寒さはすでに感じない。あなたのぬくもりに身を任せながら、つい途方に暮れてしまいそうになる。


 ちょうどそのとき、昇ったばかりの朝日が川を照らした。

 キラキラと水に反射する日差しは、部屋でカーテン越しに受けるそれと同じものとは思えないほどに眩しい。朝の澄んだ空気を貫く鮮やかな輝きに、堪らず私は目を細めた。


 ――後は、私が踏み出すか、踏み出さないか、それだけ。きっと。


 瞼を閉じ、あなたの背に腕を回す。昨晩と同じように。ベッドの上で、何度もそうしてきたように。

 ふふ、と笑い声が零れた。その拍子に涙まで溢れてしまう。私をこんなふうに抱き締めてくれる人は、後にも先にもこの人以外いない。なんとなくそんな気がする。なんとなくなのに、絶対そうだと信じたくなる。


 驚いた様子で顔を上げるあなたを、真正面からじっと見つめた。

 朝日に照らされたあなたの顔。垂れ気味の目元、いつもより下がった眉尻、少し厚ぼったい唇。どこか垢抜けない、大人の癖にあどけない……初めてかもしれない。こうして、あなたをまじまじと見つめるのは。


「……葵ちゃん?」


 困惑気味のあなたの声に、私は頬を緩めた。同時に、あなたの腕の力も緩んだ。

 痛かったかと尋ねるあなたの声はさっきまで以上に震えていて、私はゆっくりと首を横に振ってそれを否定する。


「なんでもないの。今日は帰らなくていいの?」

「……うん。なんか……寝落ちちゃって、ごめん」

「なんで謝るの?」

「……なんで、って」


 尻すぼみになった言葉とともに、あなたは顔を俯けた。

 力なく空を切って落ちたあなたの手に、そっと指を伸ばす。触れた指の感触に、あなたは露骨に肩を震わせて……しかし。


「今日、もし帰らなくていいなら、戻って少し話さない?」


 中途半端に目尻が濡れたまま笑いかけると、顔を上げたあなたもまた、困り顔のまま笑って頷いた。


 来るときにはそれぞれひとりで訪れた橋の上を、今度は手を繋いで並んで歩く。

 車が一台車道を通り抜けていき、ああ、もうすぐまた新しい一日が動き始めるんだなと思う。おずおずと絡めた指をぎゅっと握り返され、ふふ、とまた笑い声が零れた。


 今日あなたが帰らなかった理由は、あなたが言った通り、単に寝落ちただけ。それ以上も以下もないのかもしれないが、別にそれでいい。

 大人になってからの恋には、駆け引きや、打算や、条件や、そういう要素がつきものだ。煩わしいと思う。そんなものに気を取られている自分が、馬鹿みたいだとも。でも。


 もっと話したい。あなたの話を聞きたい。

 今の私には、とりあえず、それだけで十分だ。


 あなたの手を握り返しながら、低確率にもほどがあったはずの朝の訪れを、その眩さを、私はひとり静かに噛み締めた。




〈了〉

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