或る紫陽花の戀

夏越リイユ|鞠坂小鞠

或る紫陽花の戀

 ある朝、目が覚めると、あたくしは人間の女になっておりました。


 身分ある方が所有なさっている広い広い庭の片隅で、梅雨の季節にたまたま足を運ばれたあの方に、あたくしはこいをしたのでございます。その翌朝のことでした。

 背まで伸びていると思しき真っ白な毛髪は、あたくしがひと株のちっぽけな紫陽花であった頃の名残なのでしょう。葉を思わせる緑に、わずかばかり焦げ茶の交じった、そんな色具合の着物を身に着け、あたくしは庭の隅の隅に倒れ伏しておりました。


 あの方は、すぐにあたくしに気づいてくださいました。


 並んで歩いていた庭師を突き飛ばす勢いで、あなたはあたくしに手を差し伸べ、ああ、君は一体いつどこからいらしたのだろう、この庭に咲く花々の精であろうか、と呟かれたのです。

 あたくしは戸惑いました。突如お屋敷の敷地に現れた曲者を相手に、なぜそのようにして手を差し伸べるのか、解せなかったからです。

 また、花の精などと呼ばれることにもいささか困惑を覚えました。あたくしはそこまで無垢なものではございません。戀を覚えたその瞬間、この心根は無垢なままでは到底いられなくなったのですから。


 ……それから、あたくしは記憶を失くした娘のふりをして、お屋敷で暮らすことになりました。

 白い髪が映える色合いの、大層きらびやかな着物や髪飾りを届けては、それらに花を添え、宝玉やら鏡やら菓子やら贈り物を添え――あの方は、あの手この手であたくしに尽くされました。

 理由を問うと、あなたもまた、あたくしに戀をしたのだとおっしゃいます。あなたがあたくしを然るべきところに突き出さなかった理由が、ようやく腑に落ちました。


 人という生き物は不思議でなりません。あたくしの姿形にひと目惚れしたのだと口にしては、あなたはあたくしの白い毛束を長い指で梳くのです。人で言うところの、まるで老婆じみたそれを。

 あなたは、あたくしを花の精だと本気で信じているのかもしれません。

 雨に濡れた紫陽花の庭へ、いきなり現れた女――それも、異国の民を思わせる髪色をしていながら着物を身に着けているというあべこべな姿で倒れていた女なわけですから、そう思われても仕方ないのでしょう。事実、それが誤りだとは、あたくしには言いきれません……しかし。


 紫陽花は、桜のごとく潔く散る花ではありません。どれほど麗しい彩りで雨粒のもと濡れ輝こうとも、生来の色を持って散り落ちることは許されず、いずれは茎にすがりついたきり萎れゆく運命。己が愛されなくなることに未練でも覚えているかのような寂しい最期を、いずれはあたくしも迎えねばならぬのでしょう。


 日に日に、あなたの眼差しには熱情が宿ってゆきます。そのたびあたくしは、あたくしに触れてはなりません、と申し上げます。

 所詮、あたくしは紫陽花。あなたに戀をして、その思いが募り募ってたまたまこの身を得られただけの、言うなればあやかしの類です。触れればあなたの指を伝い、この身に流れているだろう毒が溢れ出て、あなたに伝染うつってしまうかもしれません。


 触れてはならぬとお伝えするたび、あなたは悲しげに目を伏せます。

 互いに戀い焦がれていながら、口づけひとつ交わせぬことを、あたくしは寂しく思います。あなたも同じ気持ちなのだと思えば、余計に気分は塞ぎました。

 人の戀とはこれほどまでに切なく、また息苦しいものなのかと、あたくしはこのとき心底悟ったのでございます。



     *



 幾年かが経ちました。

 誰になにを言われようと、あなたは妻を娶ろうとせず、あたくしを傍に置いておきたがりました。

 そのことに、あたくしはいつも申し訳ない気持ちと仄暗い喜びとを一緒くたに感じては、この息苦しいだけの戀を今後どうすべきかと、震わしい思いに駆られるばかり。


 戯れの延長なのでしょうが、紫陽花の季節が訪れるたび、あなたはあたくしに『どの色の紫陽花が好きか』と尋ねます。

 毎年、毎年、あたくしが倒れていた辺りをふたり並んで歩いては、出会いの思い出にそれぞれ耽り、そして帰り際にそう問うてくるのです。


 あたくしは、そのたびに白と答えました。どの宝石よりもきらびやかで、それでいて無垢でしょう、と。

 美しさは、花にとってすべて。だからこそあたくしは、己の美しさを称えるためにそう返していたのです。己がちっぽけな花に過ぎぬことを忘れるなという自戒も込めて。


 そうして、また幾たびか季節が巡りました。


 少年と青年の狭間を泳ぐ瑞々しさを、力強くその身に秘めていたあなたは、出会いの日から相応の月日を重ね、髪に、あるいは肌に、よわいを重ねた証を覗かせ始めていました。

 隣を歩くあたくしはといえば、もはや己が紫陽花であった頃を忘れる日もしばしば。紫陽花の季節が訪れるたび、あなたにどの色の紫陽花が好きかと問われ、それでようやっと思い出す……そんなことを繰り返す始末でありました。

 このときにも、あたくしは同じ問いに同じ答えを返したのです――しかし。


「……そうだろうか」


 低く返され、あたくしは目を瞠りました。

 これまでは『そうか』とはにかんだように笑うだけだったのに、あなたは今、なんとおっしゃったでしょう。


「あれを見てご覧」


 戸惑ったまま、あなたが指差す方向へ視線を向けます。

 そこには、ひと株の枯れた紫陽花がありました。どんな花びらであったのか、元の色など想像がつかぬほど茶色に萎れたそのひと株から、あたくしは片刻も目を離せなくなります。


「白の紫陽花だったものだ。萎れて茶色になって、それでも花びらは散り落ちることを知らない」


 ――なんと無様で、汚らわしいことだろうね。


 忌々しそうに吐き捨てるあなたの声を、あたくしは呆然と聞き入れました。

 告げられた言葉の衝撃を咀嚼しながら、あたくしは静かにあなたへ向き直ります。

 萎れた紫陽花を眺めていたはずのあなたは、いつしかあたくしを睨みつけていました。あたくしは息を詰め、刺すような視線を向けてくるあなたを、その口が開くさまを、じいっと見つめ返すしかできません。


「人は齢を取る生き物だ。なのに、君はいつまで経っても若く美しい……花の精なのかと、戯れに零したこともあったが」


 言いながら、あなたは胸元から細長いなにかを取り出しました。

 す、と柄と鞘が離れ、ああ、小刀か、と気づいたときには、あなたはすでにあたくしにその切っ先を向けた後。


「あやかしの類ならば祓わねばなるまい。お願いだ、どうか違うと言ってくれ」


 苦渋の表情であたくしに刃を向けるあなたが、一瞬、泣いているように見えました。

 ……いまさら、その程度の理由であたくしを突き放そうとする心根。ああ、これが人間というものかと、つい声をあげて笑ってしまいます。


 躊躇の欠片もなく、あたくしはあなたの腕に手を伸ばしました。

 あなたは見るからに戸惑い、切りつけるなら今が絶好の機会だと誰の目にも明白だというのに、震える指から小刀の柄を取り落としてしまったようです。


 転がる小刀が光を弾くさまを横目に、あたくしは、あなたの唇に自分のそれを寄せました。

 出会って以降、互いに愛を囁きながらも一度も触れ合ったことのない唇と唇が重なった瞬間、あたくしはあなたのそれを噛みちぎってやりました。ぐ、と呻いてあたくしの肩を押し返そうとするあなたを気にも留めず、たった今つけたばかりの傷口へ塗り込むように唾液を擦りつけ、そして。


 大きく目を見開いて再び呻いた直後、あなたは地面にうずくまりました。

 なにが起きたのかよく分かっていない顔で胸元を押さえるあなたの、その形相がなんだか不憫に思えてしまったあたくしは、毒ですよ、とそっと囁きます。


「あたくしに触れてはならないと申し上げた理由、お分かりいただけましたか」


 毒に痺れて地面に伏したあなたを見下ろしても、もう視線はかち合いません。

 そのことを寂しいと思いました。他ならぬあたくしこそが、あなたをこういう末路へ導いたというのに。


 夢は、夢だから美しい。

 そのことに、あたくしはもっと早く気づくべきだったのでしょう。


 頬を伝う水滴の正体には、間を置かずに気づきました。

 涙。人の真似ごとをして二十余年を過ごしてきたあたくしではありますが、それを零すことは初めてで、けれどそれが涙だとあっさり思い至れるくらいには、人としての生活に慣れきってしまっていました。


 あなたが地面に落とした小刀に、身を屈めて指を伸ばします。

 刃面に映る自分の顔。二十年以上前、あなたに初めて鏡を見せてもらったときと寸分変わらぬ顔。人ならざるものの顔。どうしてか、また勝手に笑いが零れます。

 刃を首に添えると、地面の側からくぐもった呻きが聞こえてきました。


 あなたの声。

 あたくしを止めきれない、哀れなあなたの。


「さようなら」


 地に這いつくばるあなたの、苦しげに歪んだ顔を目に焼きつけながら、あたくしは勢いをつけて己の首を掻き切りました。その方法こそ、あなたを最も傷つけてやれるに違いないと思ったからです。

 そうしてあたくしは、ゆっくりと最後の息を吐き終え、静かに――できるだけ静かに瞼を落としたのでした。



     *

    ***

     *



 萎れぬ紫陽花がある、と庭師に聞かされたのはいつのことだったか。

 美しく咲き誇るその白い紫陽花は、花の季節が終わりに近づいても、過ぎ去っても、雪の降り積もる冬に至っても、変わらず艶やかに咲き続けているのだと。


 初めは奇妙な話だと思っただけだ。だが、同じ報告は庭師が変わって以降も続いた。それも毎年。

 訝しく思っているうち、ある仮説に辿り着いた僕は、結局それを確認するには至れずじまいで――そうして、紫陽花の前に倒れ伏していた娘に手を差し伸べてから二十年あまりが過ぎた頃。


 ついに、僕は君に問うてしまった。


 美しい女。同じ人間のそれとは思いがたい、白く艶やかな髪。どれほどの月日が過ぎようとも皺ひとつ刻まれぬ、滑らかな肌。

 突きつけた刃を、つまらないものでも見る目で眺める君の双眸を、直視などとてもしていられなかった。


 ……毒の味を覚えるよりも先に倒れたのだと思う。

 女に静かに見下ろされ、僕は、己の二十余年がいかにこの女ばかりで埋め尽くされていたのかを思い知っていた。

 さらに毒を注がれ殺されるのだろうと諦念が過ぎったと同時、それで構わぬとも思った。親族の糾弾の一切を無視してまで貫いた戀だ。その末路が相手に取り殺されるものであるならば、むしろこれ以上の僥倖があろうはずもない……だが。


 血飛沫は、果たして上がったのか。僕は見ていない。

 君は自ら首を掻き切った後、そのまま消えるようにしていなくなった。

 僕が、生涯で唯一愛した、女。


 美しく咲き乱れていた白の紫陽花が、茎ごとすっぱり切れて落ちた、そのひと株を最初に見つけたのは新しい庭師だった。君を初めて見つけたあの日、僕の隣を歩いていた庭師の息子だ。

 紫陽花にはまず見られぬ最期だろう。地面に茎ごと落ちた後も朽ちすらしないというその株を庭師に差し出され、僕は堪らず固く目を閉じた。


 この身に入り込んだ毒は、本来の紫陽花のそれより遥かに強いものなのだと、あの日倒れ伏した瞬間から悟っていた。


 君だけの毒。

 僕を苦しめるための。僕を、殺めるための。


 朽ちることを知らぬ君に、老いていく僕を見つめられることに耐えきれなくなった。だからあの日、とうとう君を問い詰めた。

 この現実は、僕の独りよがりが生んだ結末に他ならない。


 庭師が退室した後、君の毒によって身動きがままならなくなった身体を引きずり、車椅子から下りる。

 茎の切り口は躊躇なく切断されている。それを掻き抱きながら、小刀を己の首に押し当てた君の泣き顔を思い出し、僕は声を震わせて涙を落とした。


 僕さえ君に戀をしなかったなら、きっと、君は紫陽花らしく生を終えられた。それなのに。

 僕はひどい人間だ。

 君に授かった毒をこの身に宿しながら、君を花らしからぬ末路へ導き陥れたことに、深い充足を覚えている始末なのだから。


 ……君の毒は、僕の身体を、心を、今度こそ殺しきってくれるだろうか。


 口を開ける。大きく、大きく、余すところなく君を受け入れきれるように。

 そうして、いつか君が『どの宝石よりもきらびやかで無垢』と称していた純白の花びらを、僕はゆっくりと口に含んだ。




〈了〉

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