ぼくらのそらは
夏越リイユ|鞠坂小鞠
ぼくらのそらは
辺りはしんと静まり返っています。
木々のさざめきも川の水の流れも、仲間たちが奏でる軽やかな音色も、なにも聞こえません。
カワセミのリタは薄く目を開けますが、真っ暗です。
自分の羽をちらりと見てみました。ヒスイ色の美しい羽は、やはり暗闇と同じ色に塗り潰されて見えます。
不意に羽の付け根へ痛みが走り、ようやく、リタは自分が置かれた状況を思い出しました。
そうだ。お姉様たちと食事に出かけ、途中で自分は羽を傷めたのだ。珍しく、今日の餌探しは島の端、海の近くで普段より長く続けていた。疲れが溜まる中、自慢の羽を傷めたショックで海に落ちてしまったのだった……そこまで考えが及んだときです。
「目が覚めたかい?」
低い声が傍から聞こえ、周囲がふっと淡い光に包まれます。
びくりと震えたリタは、声のする方角……正面へ向き直りました。反射的に掠れた悲鳴が零れ、それと同時、リタの身体を包むシャボンのような薄い膜がふるんと揺れます。
そこには、見るもおぞましい姿をした巨大な生き物がいました。
ほのかな光を放つ身体、中身が透けて覗くグロテスクな全貌――リタの視界がそれいっぱいに埋め尽くされます。
裂けんばかりに開いた口の先は、まるで禍々しい洞穴のよう。隙間からは、鋭い牙がいくつも覗いています。ただ、なにを見ているのか定かでない平らな目は、海辺で何度か遭遇した魚たちのそれと確かによく似ています。
虚ろな視線に捕らえられ、リタの背筋を冷たいものが流れ落ちていきました。
「……あなたは?」
震える口で、リタは問いかけます。
するとその生き物は、億劫そうに牙を揺らしながら喋り始めました。
「僕は海底で暮らしている魚です。君はついさっき、上のほうから落ちてきたんですよ」
「……そう」
「君は海の生き物ではないね? それは一体なんだい?」
目の前の生き物が言う〝それ〟がなにを指しているのか、すぐには理解が及びません。
どろんとした目が自分の羽を眺めていると気づき、リタは慌てて口を開きました。
「こ、これは羽です。私は空を飛びながら生きる鳥なのです」
「そう。やっぱり海の生き物ではなかったんだね。膜を作っておいて良かった」
「……まく?」
「どうかその薄い膜を破らないで。それがあるからこそ、君はこんな場所でも息ができるんだ」
よく見ると、彼――オスかメスかもはっきりしませんが、自分を〝僕〟と呼んだからきっとオスなのでしょう――には目がひとつしかありません。リタがこれまでに出会った生き物たちとは、なにもかもが懸け離れていました。
この世のものとは思いがたい、化け物じみた姿です。
しかし彼は、リタを襲おうとする素振りなど一切見せません。むしろ話を聞く限りでは、海に沈んだ哀れなリタを、空気の膜を作ってまで助けてくれたようです。
「僕の傍には、他の生き物は滅多に近づいてこないんだ。怪我が治るまでここで休んでいくといい。他の場所は凶暴な魚や生き物がいっぱいで、とても危ないからね」
彼が話すたび、大きな牙が揺れます。ふと、リタにはその牙が輝く宝石に見えました。
彼の声が意外な音色をしていたからかもしれません。囀り、歌いながら日々を過ごしてきたリタにとって、美しい声など聞き慣れたものです。しかし彼の声は、彼女が今までに聞いたどの声よりもやわらかく、また優しく聞こえました。
ここがどのくらい深い海の底なのか、リタには分かりません。
闇雲に動いても、この羽では空まで戻れないでしょう。飛べない羽で無理をすれば、凶暴な海の生き物たちに空気の膜を割られたり、食べられたりするかもしれません。
淡い光を放ち続ける生き物へ、リタはこくりと頷いてみせました。
彼が言うように、羽が治るまでここで休むことにしたのです。
*
悩んだ末、リタは彼を〝おさかなさん〟と呼ぶことにしました。
過去に見たことがある魚たちとは似ても似つかない彼ですが、他に良い呼び方を思いつかなかったのです。
リタが食べられそうなものなど、近くにはありません。おさかなさんが大きな身体をずるっずるっと重そうに動かし、どこからか深緑色の海藻を持ってきてくれるのを、いつも待つばかりです。
ふにふにした海藻は、リタにはあまり美味しいと思えません。しかし、自分の力だけではその食事にさえありつけないだろうと思えば、おさかなさんには感謝しかありませんでした。
やがて、リタはおさかなさんを怖いと思わなくなりました。
木の上で口ずさんでいた歌を歌ったり、おさかなさんの口の中に入り込んでお昼寝をしたり――丸呑みしてしまうかもしれないよ、と、おさかなさんは苦笑いとともに何度もリタをたしなめましたが、リタはちっとも怖くありません。
おさかなさんが優しい生き物だと、とっくに分かっていたからです。
ある日のお昼寝の時間、おさかなさんが、自分は空を見たことがないのだと打ち明けてくれました。
当然かもしれない、とリタは思いました。本当なら、自分だってこんな海の底では絶対に生きられないのです。それを考えるなら、おさかなさんが空を見たことがないのも納得です。
海の上の世界のこと、もっと教えておくれよ。
そうせがまれるたび、リタはさまざまなお話をしました。澄んだ空の色の話、雲の形の話、お姉様たちの話、歌の話、好きな木の実の話。時に歌い、時に囀りながら、たくさんたくさん、おさかなさんに伝えます。
リタの話を聞くと、おさかなさんはいつも大きな牙を震わせて笑います。そして決まって「君が羨ましいよ、僕も空を見てみたかったなあ」と言うのです。
見たい、ではなく、見てみたかった。それを聞くたび、リタは寂しくなってしまいます。おさかなさんはその夢をとっくに諦めているんだな、と思うからです。
自分の身体がもっと大きかったなら、おさかなさんの身体を支えて海の上のほうまで行けたかもしれません。でも、自分はただの小さな鳥。彼の夢を叶えてはあげられないし、そもそもこの空気の膜がなければ、今の自分は生きてすらいられません。
だから、そんなことは夢のまた夢。
リタにはできるはずのないことなのです。
リタの羽は、少しずつ癒えてきていました。
ふにふにの海藻も、できるだけリタが食べやすいものをと、今ではおさかなさんがあれこれと選んで持ってきてくれます。
快適で楽しい海の底。ここでおさかなさんとずっと一緒に暮らせたらどんなに素敵かと、リタは思います。
飛ぶのも歌うのも、リタにとっては楽しいことです。しかし、地上では大きな鳥が自分たちを食べようといつも狙ってきます。昼も夜も狙われては怯え、震えながら生きることは、やはりとてもつらく苦しいのです。それに、はぐれたお姉様たちと再会できる保証もありません。
いつしか、リタは空に帰ることを諦めていました。
*
どのくらいの月日が経った頃でしょうか。
ある日、見覚えのない小さな魚が一尾、ふらふらと海底に迷い込んできました。黄色と黒の縞模様の、色鮮やかな魚です。しかし、リタはその魚を、愛想笑いばかり浮かべて気味が悪い魚だと思っていました。
……それは、一瞬のできごとでした。
縞模様の魚がそそくさと泳ぎ去った直後、魚の大群が押し寄せてきたのです。
あの魚は案内役だったのでしょうか。びきびきと水が蠢き、リタを包む空気の膜がぶるんと震えました。
割れてしまうのではと思うほどの衝撃です。弾かれたようにおさかなさんを振り返ると、彼は、見たこともないくらい怖い顔で魚の大群を睨みつけていました。
大量の魚たちは、全体で一匹の巨大な生き物に見えるよう、巧妙に列を組んでいます。しかし、おさかなさんの目がギロリと光った途端、魚たちは一斉にびくりと震えました。
おさかなさんはその隙を見逃さず、ぶん、と尾びれを振り回します。
そして牙を光らせ、叫びとも悲鳴ともつかない大きな声を出しました。震える海水、長く響く低い音――恐れをなした魚の大群は、列を組んでいることさえ忘れ、皆バラバラに逃げていきます。
ああ、いなくなった。私たちの平穏を掻き乱す生き物が、すべて。
リタは幸せな気持ちでした。ありがとう、またふたりでのんびり暮らそうね……そう伝えようとおさかなさんを振り返り、そして目を見開きました。
ずうん。轟音を響かせながら、巨体が海底に崩れ落ちていきます。
沈みゆく身体からはところどころ透明な筋が伸び、ふるふると水中を漂っています。それらが、本当はおさかなさんの身体の内側にあるべきものだと思い至ったリタは、血の気が引きました。
あの魚たちを追い払うため、おさかなさんは、大怪我をしてしまったのです。
「っ、は、早く手当てしないと!」
「……いいえ。君は早く帰るといい」
「どうして!? 早くしないと傷が……っ」
「いいんだ。僕は元々、寿命が近かった。本当なら君に、もっと美味しいご飯を持ってきてあげられたのに、もうあんまり動けなくて……ごめんね」
リタは目を見開きます。
そんなこと、今まで一度も言わなかったじゃないか。それに私のご飯のことなんて、おさかなさんが謝ることじゃ全然ない。
「悪い魚は皆、さっき追い払った。今ならきっと帰れるよ。君の、本当の居場所に」
おさかなさんは、静かに静かに目を閉じました。
淡く光る彼の身体が、徐々に輝きを失っていきます。
自分がどれだけひどい思い違いをしていたのか、このときになって、リタはようやく思い知ったのでした。
*
海の底は、ちっとも快適なんかじゃなかった。
自分が命を繋げていられたのは、おさかなさんがいたからだ。食べるものも安全な場所も、全部全部、彼が用意して守ってくれていた。
おさかなさんはもういない。ありがとうもごめんねも、なにも言えなかった。
おさかなさんの、わずかばかりの輝きが残る身体の一部が、ぱらぱら。鱗とも皮ともつかないカケラが、ぽろぽろ、ぽろぽろ。それらはリタの涙と交ざり合い、海の底にそっと溜まっていきます。
そのひとかけらを握り締めたリタは、決死の思いで海面を――元いた空を目指すことにしました。
『空を見てみたかったなあ』
絶対に叶うことのない、おさかなさんの夢。
たとえ叶わなくても、どれだけささやかな夢でも、確かな憧れを目に宿していたおさかなさんの顔を思い出します。
途中、何度も力尽きそうになりました。おさかなさんが作ってくれた空気の膜も、水に揉まれて今にも割れそうです。
海の生き物たちは、あの手この手でリタに攻撃をしかけてきます。ある者は丸呑みにしようと大きく口を開け、またある者は空気の膜を破ろうと徒党を組んでリタをつついてきました。
誰か。誰か。おさかなさんに、空を、空の青を、見せてあげて。
私のことは捨て置いてもらって構わない。このカケラを、お空の下に届けてさえくれれば。
……いや、違う。〝誰か〟じゃ駄目なんだ。
私がおさかなさんを連れていきたいと思った。だから、私がやり遂げなければ意味がない。
他の誰かに任せてしまっては、なんの意味もないんだ。
*
***
*
その日、みなちゃんは公園で青い鳥を見つけました。
小さくも美しいその鳥は、残念ながらもう息をしていないようです。お気に入りのハンカチを広げたみなちゃんは、用心深くそこに鳥を乗せました。よく見ると、鳥の足指には、透明とも黒とも白ともつかない不思議な色をしたカケラが覗いています。
なんてきれいなカケラだろう。
青い鳥さんの、大事なものなのかな。
一緒に遊んでいたゆうきくんが、バタバタと走り寄ってきます。
みなちゃんがなにをしているのか目にしたゆうきくんは、悲しそうに眉尻を下げました。先日、お家で飼っていたインコが亡くなったことを思い出したからです。
「みなちゃん、その鳥どうしたの?」
「さっき見つけたの。もう死んじゃってるみたい」
「そっか。……お墓、作ってあげようよ。僕んちで飼ってたインコもね、こないだ死んじゃって、お庭に埋めてあげたんだ」
「……そっか。そうだね」
お花がいっぱい咲いてる、きれいなお庭に埋めてあげよう。
うん、それにお空がよく見えるところが、きっといいよ。
あれこれ相談しながら、ふたりの子供は公園を後にします。
海沿いの田舎町、小さな公園。みなちゃんのハンカチの中、青い鳥は足の指を曲げたまま。不思議なカケラを、大切そうに握り締めたまま。
青い鳥――リタは、忘れていた最後の息をそっと吐き出します。
そして、自分を包む手のひらのぬくもりを感じながら、ゆっくりと目を閉じたのでした。
〈了〉
ぼくらのそらは 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka
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