グラスゲイザー
夏越リイユ|鞠坂小鞠
グラスゲイザー
世界の真ん中、高い高い、空のさらに上まで突き抜けた山の、その麓。
今となっては誰ひとり訪れる者がいなくなった場所には、古いお墓が無数に並んでいます。
その地を守る墓守は、今日もひとり、今にも折れそうなほうきを手にしながらお墓の間を歩いていました。
黒いローブに包まれた墓守の身体は包帯まみれ。女性だというのに手入れひとつ施されたことのない顔には、大きなものから小さなものまで、たくさんの傷やただれが走っています。真っ赤な目――ガラス玉に似たそればかりが陽の光を不気味に反射し、その姿はまるで生きた人間を狩る死神のようです。
しかし、他人が訪れることのないこの場所で、墓守の姿を目にする者はありません。だから、墓守はそんな自分の姿になにも感じていませんでした。美しくなくても、墓守の仕事は問題なくこなせるのですから。
その日、朽ちた墓石の間に、墓守はあるはずのない人の姿を見つけました。
立ち並ぶ墓石の隙間に倒れていた男を、七日間、墓守は懸命に介抱し続けました。
その甲斐あって、男は無事に意識を取り戻しました。墓守の顔を見て驚いた顔をした男は、それでも墓守のことを怖れたり、忌んだり、また貶めたりもしません。たまたまローブから覗いた真っ赤な目を、綺麗だとまで言ってのけました。
死に場所を探していたのだと、彼は言いました。
でも、これで良かったんだと思う。ありがとう。そうも言いました。
さらに七日が経った頃、男は墓守と一緒に暮らしたいと言い出しました。
墓守は驚いてその申し出を断りました。私はここを離れられません、そういう役目を負っているのです。そう伝えれば諦めてくれるものと、墓守は信じていました。
しかし、それでも男は引き下がりません。なら自分も一緒にここで暮らす、ついにはそんなことまで口走るようになりました。
墓守は戸惑いました。どうして男がそんなことを言うのか、見当がつかなかったからです。
あなたには帰るべき場所があるはずです。それに、朽ちたこの身体では、あなたの隣にあるにはふさわしくない……そう諭すと、男は傷ついた顔を見せ、翌日には姿を消してしまいました。ぼろぼろの机の上には、街の名前と思しき文字の羅列と数字の記された紙切れだけが置かれていました。
それが彼の気の迷い、あるいは一時の感情の揺らめきだと分かっていても、墓守の心はしくしくと痛みました。
もし自分がこんな役目を負っていなかったら。包帯まみれの醜い身体でなかったら。美しい顔を持っていたら。それなら自分は、彼と一緒に暮らすことができただろうか。
その晩、たったひとりで、墓守は生まれて初めて涙を流しました。
さらに七日が経った朝のこと。鏡を見るなり、墓守は言葉を失いました。
そこには、金色の髪を持つ美しい女が映っているではありませんか。瞳も、死神のような赤色ではなく、澄んだ空によく似た青色をしています。普通の人間となんら変わりありません。
これならあの人の傍にいられるかもしれない。墓守は、人生で初めてかの墓地を離れました。
もちろん、本当にいいのかと何度もためらいました。それでも墓守は、生まれ持った役割を、果たすべき責務を、彼のためにすべて投げ出したのです。それはとても淡くて、痛くて、苦しくて、それでも、とてもとても幸せな気持ちでした。
人生で初めて訪れた大きな街で、彼が残した紙切れを手に、墓守は懸命にその場所を探しました。
紙切れに記された街の名前と通りの名前、そして番地。勇気を振り絞ってその家のドアをノックすると、やがて家の中からひとりの男が現れました。
彼でした。墓守は嬉しくなって、会いたかった、と伝えました。
しかし彼は、墓守が誰なのか分からなかったようでした。冷たい一瞥とともにドアを閉めかけた彼に縋りつき、墓守は無理やり家の中へ入り込みます。
そこでは、薄着の女性が気怠そうに髪の毛先をくるくる弄んでいました。息を詰まらせた墓守を面倒そうに見やった彼は、やはり面倒そうに、その女に早く帰るよう促しました。
間もなく、彼女は彼の家を去って行きました。恋人と呼ぶほどの間柄ではなさそうですが、それでも、墓守はとてもつらい気持ちになりました。
別れからたった数日、今の彼の目には、光という光が一切宿っていませんでした。
墓守は、小間使いとして傍に置いてもらえないかと彼に願い出ました。
拒まれるたびにぎりりと胸が痛みましたが、それでも必死に頼み込みます。報酬は要らない、傍に置いてくれるならそれだけでいいと、何度も言いました。
結局、彼も最後には折れる形で墓守の願いを聞き入れてくれました。深い溜息をつきながらではありましたが。
彼は薬の研究をしているのだそうです。それ以上、彼はなにも言いませんでした。墓守もなにも言いませんでした。
静かな家の中、静かな部屋の中。ふたりの人間が確かにそこにいるのに、まるで誰もいないみたいです。
ときおり、美しい姿をした女たちが、代わる代わる家の玄関のドアを叩きました。でも、彼はそれ以来、墓守以外の女を家の中に入れなくなりました。
彼は、まれに射抜くような視線で墓守を見つめます。
あるとき墓守は、彼に、以前どこかで会ったことがあったかと尋ねられました。墓守が返事に迷っていると、彼は我に返った様子で、安っぽい口説き文句みたいだな、すまない、と呟き、話は結局それきりになってしまいました。
少しずつ少しずつ、彼は口を開くようになりました。
幼い頃に両親が流行り病に倒れて亡くなったこと、その影響で薬の研究を始めたこと。ぽつぽつと自分の身の上について話す彼は、それでも墓守が墓守であることに少しも気づいてくれません。墓守は、嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちで毎日を過ごしました。
どれほどの月日が流れた頃でしょう。
彼が墓守に、君に聞きたいことがある、と切り出してきました。
緊張した面持ちです。
訝しく思いつつも墓守が返事をした瞬間、ぐらり、世界が大きく揺れました。
地震です。それも、家の中がぐちゃぐちゃになってしまうほどの、大きな。
棚に並んだ薬瓶――危険な薬が入ったたくさんの瓶が、彼目がけて崩れ落ちてくるさまを、墓守は見開いた両目で捉えていました。なにも考えられないまま、ただ、足だけが動きました。
しゅうしゅうとなにかが焦げ、溶ける音。
床が溶けています。それから、墓守の身体も。
瓶が割れて散乱する床は、ひどいありさまでした。しかしそこには目もくれず、彼は墓守の身体を抱きかかえ、なにかを叫んでいました。
墓守にはなにも聞こえません。痺れるような痛みが全身を走っている気はしますが、それももう、はっきりとは感じ取れませんでした。
すぐ傍で砕けた姿見の中、残った鏡面に、墓守の姿が映っていました。
溶けた身体。崩れた顔。ああ、元に戻ってしまったのだ――墓守はそう思いました。その証拠に、瞳も、青色ではなくあの血の色をしています。その目だけが、今の墓守の身体で唯一まともな役目を果たしていました。墓守の業を示す、呪われた色の両目だけが。
魔法は解けてしまった。
もしかして、自分があの場所を離れたから? 果たすべき役割を勝手に投げ捨てた、だからこんなことになってしまったのだろうか。
彼がなにか叫んでいます。大粒の涙を零しながら、溶け崩れた墓守の身体をぎゅっと抱き寄せて……今までただの一度も墓守に触れようとしなかった癖に、こんなぼろぼろの身体に戻ってしまってから、初めて。
彼が身に着けている白衣には、ところどころに穴が空いていました。劇薬を直接浴びたわけではなく、墓守の身体についたそれに触れてしまったからなのでしょう。それでも彼は、墓守の、手と思しき爛れたその部分を握り締め、劇薬まみれのそれを自分の右頬に触れさせました。
やっぱり、君、だったのか。
声は聞こえません。でも墓守には、彼の唇が、そんな言葉を紡ぐ形に動いて見えました。
触れてはなりません、あなたまで溶けてしまう。そう伝えたいのに、墓守には声が出せません。
それに、本当はそんなことなど言いたくありませんでした。好きな人に抱き締められながら消えられるなんて、自分はどれだけ幸せ者なのだろう。墓守にはそうとしか思えなかったのです。
無事で、良かった。
告げた言葉が音になっていたかどうか、墓守には分かりません。なぜならもう耳が聞こえないのです。喉だって、きちんと役目を果たしていないのかもしれませんでした。
けれど、彼が大きく顔を歪めて泣いたから、きっとちゃんと伝わってくれた……墓守はそう思うことにしました。
この人を守れて、良かった。
とても満ち足りた気持ちで、墓守は、静かに静かに目を閉じました。
*
***
*
そっと本を閉じます。
それは、少女を創った主が記した唯一の本。
君を創った後に、気まぐれに書いたものです――さして面白くもなさそうに、主が以前そう口にしていたことを、少女はぼんやりと思い出していました。
人形を創る仕事をしている主は、数年前までは薬の研究をしていたのだそうです。自分もまた、主によって創られた存在であることを、少女はきちんと理解していました。
大して面白いものでもなかったでしょう、と不意に背後から声が聞こえ、少女は後ろを振り返ります。そこには、壁に身をもたれさせた主の姿がありました。
主の右頬には、ひどい火傷痕があります。元々の端正な顔立ちが、逆に痛々しさを際立たせてしまっていると、それを見るたびに少女は思います。
しかし、少女は決してその痕が嫌いではありませんでした。むしろそこを見つめていると、それだけで、懐かしいような泣きたくなるような、そんな気持ちにさせられてしまうのです。
好き。嫌い。懐かしい。泣きたい。そういう気持ちを、普通の人形は持たないといいます。
でも、自分はそれに近いものを持っているのかもしれない。少女が主にそう伝えたとき、主はどことなく嬉しそうに微笑んでいました。
感想を聞いても良いですか、と、面白くなかっただろうと問うたそれと同じ口で、主はそんなことを尋ねてきました。
妙に楽しそうです。人としての感情が少女に宿っているかもしれないと知ってから、主はこの手の質問を何度も口に上らせていました。
ひとつだけ、気になったことがあります。
興味深そうに目を細めた主へ、本を手にしたまま、少女は問いかけを口にしました。
「溶けてしまった彼女の身体はどうなったのですか……いいえ、もっとはっきり言うなら、なにか残らなかったのですか」
真っ赤なガラス玉によく似た少女の双眸が、ふるりと陽の光を反射し、彼女の主を射抜きます。
さぁどうでしょうねと、主はただ微笑み続けるだけです。それでは答えになっていない、と眉を寄せた少女に、主は今度は声をあげて笑い出しました。
そして少し言葉を切った後、窓の外へ視線を移しながら、静かに口を開きました。
「君は、彼女が幸せだったと思いますか」
問う声は少しだけ震えていました。
普段、滅多に揺れ動かない目の奥も、微かに。
私には分かりません。少女にはそうとしか答えられませんでした。
張り詰めた空気の中、ふ、と笑う主の声がしました。そうですね、君は彼女ではない。少女へと向き直った主のその声には、諦めによく似た色が宿っていました。
……どうしてでしょう。
それを耳にした途端、少女の胸がぎゅうっと締めつけられました。そして、真っ赤なガラス玉の目から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちたのです。
目を瞠った主はなにも言いません。少女もなにも言えませんでした。人形である自分が涙を流すことなどあり得ないと、ずっとそう思っていたからです。
それでも涙は止まりません。ぽろぽろ、ぽろぽろ、目尻を零れ落ちては頬を伝い、顎をなぞり、そして最後には淡い色をしたドレスにしみを作るばかりです。
一歩、また一歩と、主が少女の傍へ歩み寄ります。
親指で少女の目尻をそっと拭った主は、ありがとう、と静かに口にしました。
それは今まで一度も耳にしたことがなかった声。優しくて哀しくて痛くて、息が苦しくなるような、主の声でした。
でもどうしてでしょうか。いつかどこかでそれと同じ声を聞いたことがある、確かにそんな気がしてしまうのです。
己の腕の中に少女の身体を抱え込んだ主の顔は、少女にはもう見えません。
それでも、視界が遮られる直前、少女の目には確かに、火傷の痕を濡らすひと筋の涙が映り込んでいました。
〈了〉
グラスゲイザー 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka
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